第10話 一人が咳をして 一人になった
いまだ開けぬ早朝の闇の中に車を乗り捨てると、私ともう一人は列車の駅へと向かった。この時間ではまだ乗客の姿は駅の中には見えず、貨物を満載した列車だけが重々しい音を立てながら朝もやの中で最初の力強い動きを起こしている所であった。
元より検問のことがあり、また列車のキップを買うだけの金も無かったので客車に乗り込む計画などは問題外であり、我々は貨物列車に忍び込む予定であった。発車前の見回りが来るのを待ち、その検査が終わるのを見計らってからその車両へと忍び込めば、終点に着くまで再び検閲される恐れは無いはずであった。そのために見張りに見つかる危険を侵しながら駅の中をあちらこちらと調べ回って、我々は首都まで直行する貨物列車をようやくのことに探り当てた。
貨物列車の検閲を線路脇の草むらの中で待っていると今度は駅の周辺がいきなり慌ただしくなった。これはさてはあの将校が目を覚まして大騒ぎしたなと心の中で舌打ちした。少しばかり我々の立てた予想より事が露見するのが早すぎて、それ故に非常にまずい事態になってしまったと言える。
こんなことならば、車を奪った時点で将校を殺しておけば良かったのだが、気絶した将校の体をまさぐっている内に財布を見つけだし、その中に色あせた写真が入っているのを見たために彼を殺せなくなってしまったのである。それは家族の写っている古い写真であり、恐らくはまだ若かった頃のその将校と妻、それに子供達の写真だと思えた。再び起こった咳の発作で顔を赤く腫らした部下も、将校を殺すのには反対した。車にはねられた部下はもともと死ぬべき運命だったのであり、むしろこの将校こそが我々の運命に巻き込まれて殺人という行為を冒してしまった被害者であると彼は説明した。だからと言って部下を轢き殺された怒りが消えるわけでは無かったが、ではこの将校を腹いせに殺せば気が納まるのかと自分に問うて見て、そうでは無いことに気がついた。
私が腹立たしく思っていることは、自分の周囲の人間が次々と死の世界へ引きずり込まれて行くことであり、それに対してまったく無力な自分に対してより深い怒りを感じているのであった。そうと判った瞬間に私は拳銃を降ろし、将校への怒りをきっぱりと忘れ去った。彼の財布の中に金がいくらかでも残っていれば、その気持ちはもっと早く静まったのであろうが、彼はどうやらその全てを酒に注ぎ込んで来た後らしく、財布の中にはわずかな小銭が残っているばかりであった。
しかし、こうなれば全ては後の祭りであり、我々は大急ぎで計画を変更した。この騒ぎでは見張りの目を掠めて発車直前に列車に乗り込むことはまず不可能であり、となれば貨物列車が動き出すまで待ってから、まだ速度が上がらぬ内に列車に飛び付いて乗り込むしか方法が無いということになる。勿論、そのような行為は危険ではあるが、危険であるだけにそんなことをする者が居ようとは誰も考えないのは間違いなく、この方法ならば少なくとも敵の目をごまかすことができるものと我々には思えた。
線路は駅を出てすぐに曲がり角に差しかかる。そこならば駅からは死角になっていて、我々が列車に乗り込むのが見張りには見えないはずであった。またおそらくは、列車はこの曲がり角を抜けてから本格的な加速を開始するはずであり、少なくともこの場所まではゆっくりと進むはずであった。これは我々に取って二重の利点と思えた。一つ気になるのは列車の中に見張りが配置されるかも知れないということであり、もしそうであれば我々が敵国の首都に着くまで列車の中で発見されずにいることは不可能であると言えた。しかしこればかりはこちらの希望でどうなるわけでもなく、今や残り少ない我々の運を天に任せる他は打つ手が無かった。
不思議なことに駅周辺を探索しているのはほとんどが警官であり、本来ならばここで出て来るはずの兵隊達の姿は見えなかった。もしかしたらこれはこの戦争最後の激戦となるだろう首都攻防戦を控えて、敵国の兵隊の全てが我が国の首都辺りに集中しているせいかも知れず、そうだとすれば我が国が降伏するのもそう遠い話では無いものと思えた。残された最後の一人の部下と敵の基地へ出かけて降伏するという案が頭の隅を掠めたが、そうなればそうなったで、きっと捕虜収容所の中で惨めな、そして周囲に永遠の謎を問い掛けるような不思議な最後を遂げるのだろうな、との思いが続いて浮かんで来た。すでに八人の命を食らった狂暴な運命の輪は今も私と残されたたった一人の部下の周囲でじりじりと包囲網を狭めているに違いなく、それぐらいならば死んで行った部下達に申し訳が立つようにと、このまま作戦を続行することにした。
汽笛と共に、目的の列車が動き始め、私は夢想から目覚めた。冷えきった手足をこすり、線路の曲り角の草むらの中に身を潜めて、その時を待った。線路の鉄のレールが共鳴による僅かな振動音を発し、続いて目の前を列車の先頭が轟々たる音を立てて通過した。まだ速度を上げていないとは言え、その圧倒的な重量感は本当にこれを人間が作ったのかと疑いたくなるようなもので、しばらくの間、私と部下は麻痺したように列車が通り過ぎて行くのを見つめていた。引き伸ばされた時間感覚の中でようやく我に返ると、私は列車を慌てて見つめ直した。飛び付くならば列車の後部が良く、丁度手頃な手すりがついた車両が一つ、今まさに通り過ぎようとしている列車の横腹にちらりと見えたので、それに目星をつけた。数を二つほど数えてから草むらから飛び出すと、私はその手すりに飛び付いた。同時に私の後についてきた部下もそれに飛び付き、しばらくの間、二人が手すりをつかんで空中にぶら下がる形になった。遠心力が働き、体が外に投げ飛ばされそうになるのを私は必死で堪えて、列車がカーブを抜けるのを待った。
ようやくカーブを抜けると、今度は列車が速度を上げ始め、私は焦りと共に汗でぬるぬるした手に一層の力を込めて手すりにしがみついた。自分でも思っていた以上に体力が落ちていて、なかなか手すりから上に体を引き上げることが出来ず、それは部下にとっても同じことで、こちらも青い顔をして手すりを握り閉めている。ここでもし手が滑りでもしようものならば、たちまち地面に叩きつけられて死ぬことは明らかであり、万一ぶら下がった足がそのすぐ下で力強く回転している車輪に巻き込まれでもすれば、これもまたたちまちにしてぶつ切りの轢死体が一つできあがることになる。
私は一つ決心すると、だんだんと力が抜けて行く手に見切りをつけて、足で列車の壁を強く蹴った。息詰まるその一瞬、反動で手すりから手がもぎ取られそうになったが、そのお陰でようやくのことにもう一方の足を手すりの下側に引っ掛けることに成功した。ここまで来れば後は簡単である。足が滑らぬように祈りながら体を引き上げると、ドアの鍵を開け、それから列車の中へと這いずるように転がり込んだ。すばやく列車の中を見回して敵がいないことを確認すると、私は扉の隙間から手を伸ばして部下の体をつかんだ。
その時だった。いきなり咳の発作が部下を襲い、力の抜けた彼の手が手すりから離れた。今までろくに繕われることも無く酷使されてくたびれ切った部下の服が、私の手の中で音を立てて裂けると、驚きと死の予感に断末魔の悲鳴を上げながら、部下は視界から消えた。
世界が闇に包まれた。一人ぼっちになるということが、これほどまでに恐ろしいことだとは予想もしなかった。いつか来るだろうと思っていた瞬間が今訪れ、そして遂に次に死が訪れるのは自分だとの認識が生まれた。自分だけは最後まで生き残るだろう、私はそう心の隅で信じていた。そのように信じていたが故に、今まで発狂せずにいることができた。だが今や、最後の砦は崩れさった。
もはや誰も、私と死との間に横たわる者はいない。
茫然とした気持ちを無理に抑えこみ、列車の扉から顔を突き出してみると、遠くの線路の脇、先ほど彼が落ちた辺りに小さな赤いボロ切れが横たわっているのが見えた。例え部下がまだ死んでいないとしても直に死ぬのは間違い無く、医者を呼んでやろうにもこの列車が目的地に着くまでは外部との連絡の取りようが無かった。私はただ一人、頭を抱えて、車両の隅に座っているしかなかった。
もはや、胃がしくしくと痛むなどという段階は当の昔に通り過ぎていて、薬を飲んだからといって胃の痛みがやわらぐということは無くなっていたが、それでもまだ私は薬を飲み続けていた。薬を飲み続け、それがもたらす踊る小人や桃色の雨の幻覚と共に居なければ、永遠に続くかと思われるこの旅の中で私の繊細な精神は間違い無く崩壊していただろう。今やその永遠も僅かに後一人の死で終わりとなる予定であり、手持ちの薬も小さな小瓶が一つだけになってしまっていた。
どこかすぐ近くで金属のこすれ合う音が聞こえたが、私はそれを無視した。
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