第9話 一人が車に乗って 二人になった


 まだ生きているとは言え、我々に残された時間があとわずかであることは直感で判っていた。運命の無慈悲な手は我々のすぐ近くにまで来ている。

 今やその正体を表わしたグスニーオ要塞のジンクス、それはあの幽霊騎士が引き起こして来たものなのだろうか?

 グスニーオを出た者を殺していたのは彼なのだろうか?

 少なくとも、死んだ七人の人間はすべて不可抗力とも言える事故で死んでいる。では、あの騎士はその周囲に事故を引き起こす疫病神のような存在なのか。それともこれはすべて我々自身の運命によるもので、死ぬべき定めにある者のみがグスニーオを出ることになるのだろうか?

 考えた末に私は結論を出す試みを放棄した。

 だが残る三人、ここにいる我々が全員殺されてしまう前に、一刻も早く敵国の首都に着かねば、今までの我々の努力は全て無駄になるのだとは判っていた。いや、それを言うならば死んで行ったグスニーオ要塞守備隊の面々の命が全て無駄死にということになってしまうのだ。

 何とかこの街で車を手に入れて隣の街にまで出れば、そこから列車を利用して一気に首都まで行けるはずであった。問題はその車をどうやって手に入れるかで、我々には全くその当てが無かった。戒厳令の敷かれている間は殆ど全ての車両が軍の管理下にあるわけで、そうとすれば当然ながら車泥棒に対する監視の目も厳しいはずである。自転車の類ならば、もう少し簡単に手に入るのだろうが、果たして今の我々の体力で隣街まで行くことができるのかは疑問であった。

 食料不足に加え、この寒い時期での野外での強行軍が祟って、我々の頬からは肉がげっそりと落ち、最近では足がふらついて転ぶことも多くなって来ていた。部下の内の一人はいったん咳が出始めると止まらなくなり、ときどき真っ赤な血が混じった痰を吐いている。今度死ぬとしたらこの男であろうと、私ともう一人の部下は心ひそかに考えていた。

 こうして手をこまねいていても何も解決はせず、また強烈な焦りが我々の心を支配していたので、我々は夜になるまで待ってから車を盗み出すことに決めた。ろくな下調べもしない、まさに行き当たりばったりとしか言い様の無い杜撰な計画ではあったが、すでに我々の心からは物事をより巧く行おうという気持ちは失せていた。生きられるという希望を失うことがこれほど自暴自棄な行動を生み出すということは、新たな発見でもありまた悲しき絶望でもあった。

 闇に紛れて近づいた軍の車両集積場には不思議と人の気配が無く、それは最前線から遥かに遠く、敵兵を見ることなど全く在り得ないこの街では逆に当たり前のことなのかも知れなかった。軍の統制下にある状態で盗みを行って捕まれば、それは平常時には及びもつかぬ罰則を与えられることを意味するので、車泥棒自体が減っているのかも知れなかった。そのような状況なので、兵士の多くは夜ともなれば少ない給料を散財するために街の中央の歓楽街へと繰り出しており、それに取り残された見張りの歩哨が建物の付近に幾人か立って周囲を見張っているものの、それもまたおざなりなものであった。

 我々が目星をつけたのは、やや小型の無蓋車両で、これはどうやら偵察に使うための軍用車両であった。外見から判断するに、この車は並んでいる中でも最も速度が出るように思えた。静かに盗み出すことが無理なのだから、後は強行突破しか手が無く、その目的にはぴったりの車である。これで追っ手を振り切り、朝までには次の街へ到着して始発の列車に乗り込むのが我々の計画のすべてであった。

 歩哨が交代する隙を狙って、我々はそっと車両集積場へと近づいた。見張りのいる建物からこの場所までは刺のついた金網があるだけで、もし彼らが注意深く見張っていれば我々の姿は丸見えのはずであった。我々は身を屈めると、できる限り素早く金網へと近づいた。部下の一人があらかじめ盗んでおいた大きな金切り鋏をコートの下から取り出すと、金網の一番弱そうな部分へとその先端を押し当てた。その時だ。いきなり強烈な光が真っ向から我々の顔を照らしだし、我々三人は路上で凍りついた。部下の一人が突然に体を折ると激しく咳き込み始め、もう一人は金切り鋏を投げ棄てるとその光の中に何かを喚きながら両手を振り回して飛び出した。一瞬、私は何が起こっているのか理解できなかったが、ようやくその光が近づいて来る車のヘッドライトであり、その車が手を振っている部下に向けて速度を緩めることも無くまっすぐに突っ込んで行くことに気がついた。

 その瞬間、何が起こるのかを悟って私の放った警告の叫びは間に合わなかった。やはり、との後悔の思いと共に、鈍い音をたてて車と衝突し宙を舞う部下の体を茫然と見送った。私の目には鋭い爪の生えた運命の手がその哀れな部下の体をつかむのが見えたような気がした。まるで木の葉が地面に落ちるかのように、ゆっくりと音も無く地面に叩きつけられた部下の体は何度か跳ねた後にようやく止まり、その時になって初めて自分の時間感覚が異常になっていることに気がついた。すべては一秒にも満たない間の出来事だったのだ。

 車がタイヤをきしませて止まると、その運転席からよろめく足どりで将校が一人降りて来た。

「な、なんと。なんと」酒臭い息を吐きながらその将校は言った。

「そちらが悪いのだぞ。そちらが。おい、歩哨。そこの歩哨、見ていたな。この男が道路に飛び出す所を」

 そこまで大声で怒鳴ってから将校は、歩哨がここにくれば事件をうやむやにすることが出来なくなることに気付いて、大きく一つ舌打ちした。

 私はただ無言で、地面に叩きつけられた部下を抱き上げた。部下がはねられたのを見た瞬間にすでに判っていたことではあるが、部下は死んでいた。衝撃で首が折れたのか、奇妙な角度に頭をねじり、その手は何かを掴もうとするかのように曲げられていた。車に跳ねられた瞬間に目を閉じたのか、その死に顔だけは不思議に穏やかであった。これでようやく楽になれる、まさにそのような心が現われている死に顔であった。ようやく激しい咳の発作が治まった、今やただ一人残ったもう一人の部下が、私の背後から友人の顔を覗き込むと、とうとう堪えきれなくなったのか、押し殺した小さな声で泣き始めた。背後の闇のどこかで金属の具足が立てる足音が一つ、小さく響いた。

「わしが悪いのでは無いぞ」

 語気も荒く、そんな我々の姿を睨んでいた将校が喚いた。騒ぎに呼び寄せられた兵士が幾人か、驚いたような顔で将校の背後に控えていた。

「ええい、そいつを車に乗せろ。医者だ。医者の所へ連れて行ってやる。いいか、これはわしが悪いわけじゃないが、医者の所まで乗せて行ってやる。判っているだろうが、いきなり車の前に飛び出したお前達が悪いのだからな」

 部下は死んでいたが、将校にはそれが判らないようであった。あるいは知っているが兵士の手前、敢えてごまかしているのかも知れなかった。私ともう一人の部下は黙々と動いて、死体を車に積むと、一緒に乗り込んだ。

 事故現場を少し離れた所で私は将校に車を止めるように要求すると、その頭を背後から力一杯に殴りつけた。死んだ部下の体から僅かに残った持ち物を剥ぎ取ると、気絶した将校の横にきちんと服装を整えて横たえた。朝になれば、誰かが彼らを見つけるだろう。将校の体からも身分を証明できそうな物はすべて剥ぎ取って置いたので、しばらくは二人とも警察の厄介になるに違い無い。今やたった二人になってしまった我々グスニーオ要塞守備隊が、列車に乗り込むだけの時間は十分に稼げるはずだ。

 我々は奪った車に乗り込むと次の街へと走り出した。

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