第8話 一人が熊に出会って 三人になった


 この私も含めて全員の顔には死相が色濃く浮かんでいた。深く落ち窪んだ眼下に生気の無い皮膚、頬骨は高くでっぱり、吐く息にも元気が無かった。生きてはいる。だが我々はすでに死人であった。如何にあがこうとももはや運命からは逃れられぬとの思いが、皆の心を支配している。今までのことを思い返して見れば、グスニーオ要塞を出たときに我々が死ぬことは決まっていたのだ。

 これからどうするのか皆で相談して、このままもう戻ることも出来ないのならばいっそのこと軍司令部からの命令通りに敵軍司令官の暗殺に向かおう、と言うことに話が決まった。僅か四人でどれだけのことが出来るか判らないが、取り敢えず敵の首都まではたどり着いて見せる覚悟であった。無理は承知の上でどこまでやれるかを見せるのが、常に軍のはみだし者として扱われてきたグスニーオ要塞守備隊のせめてもの意地である。

 地図によれば、この先の森を突っ切って向こう側の街に出れば、そこから道路に沿って鉄道の通っている街までたどりつけるはずであった。鉄道は国の中央部へ一直線に伸びているので、それから後はさほどの問題もなく首都へと行き着ける計算になる。人の多い場所を通過すればそれだけ検問に引っ掛かって我々の正体がばれる可能性も高くはなるが、今の我々の体力では街を迂回しながら歩いて敵国の首都にまでたどり着けるとはとても考えられなかった。

 季節は秋であったが、今年は例年になく冬の訪れが早いようである。森の木々の間を吹き抜ける風はその途中で湿った大地の上の水蒸気を拾って来るために恐ろしく冷たく、それは薄い衣を通して、まるでこちらの骨の髄を氷の刃で叩き切られるかのような苦痛を我々に与えた。空の雲行きもおかしく恐らくは雪、運が悪ければ雨になるのではないかと思われた。このような状態でみぞれ混じりの雨に打たれれば、ようやく生き残っている我々も肺炎を起こすことは間違いなく、一度肺炎にかかれば今までの例から見て死を免れえないことは明らかであった。死の恐怖を含む憂鬱な沈黙の中で一刻も早く森を抜けようと、全員が疲れた足に鞭を打って早足で歩いていた。

 どこかで金属同士が触れ合うような音がした。それは銃の撃鉄を上げる音にも似ていた。その一瞬、この暗い森の中のどこかで、迂闊にも封鎖命令の出ている森を通り抜けようとする愚か者の頭を吹き飛ばそうと銃の狙いをつけている敵兵の姿が、私の心の中にはっきりと見えたような気がして、私は部下に警告しようとして振り向いた。私のすぐ後をついて来ていた部下が私の形相に驚いて足を止めた瞬間、いきなり巨大な熊が茂みから飛び出して来た。その熊は最後尾を歩いていた男に襲いかかると、男の首筋に鋭い爪の生えた大きな前足を振り降ろすのが見えた。

 男の悲鳴と熊のうなり声、それに続いて部下達がとっさに引き抜いて発砲した拳銃の音が辺りを満たした。弾は当たらなかったようだが、この熊は以前に人に撃たれたことがあったらしく、銃声を聞くとそれまで口に咥えていた男を放り出して慌てて逃げ出した。映画や何かで見る熊とは違って、あれほどの大きな生き物がこれほどまでに素早く茂みの中を走ることが出来るというのを知らなかった我々は、すっかりと呆気にとられて、熊の飛び込んだ茂みをただ見ていることしか出来なかった。

 本来ならば部下のかたきとばかりに熊の後を追いかけるべきなのだろうが、すでにそれだけの気力は無く、我々はそこに止まって被害の状況を確かめることにした。熊に襲われた部下の体をひっくり返して見て、これは駄目だと一目で判った。熊の爪と言うのは存外に鋭く、恐るべき腕力を誇る腕の先に長いナイフがくくりつけられていると考えればだいたい正しい。ぱっくりと男の胸元から腹にかけて服が切り裂かれ、砕かれた骨と血まみれの内臓がそこからはみ出していた。男はすでに虫の息であり、我々は打つ手も無く、彼が死んで行くのを見守っているしかなかった。何か声をかけようとも思ったが、このようなときに何を言って良いものか判別がつかず、我々はただぼんやりと、彼の命がその体から抜けて行くのを見ていた。

 男が死に、ようやく正気に戻った我々は、再び熊に襲われないように周囲を警戒しながら、半分凍りかけた森の堅い地面にかろうじて人間の死体が一つ入るだけの小さな穴を掘ると、部下の死体をそこに埋めた。きっとエサを求めて戻って来たあの熊は、地面に振りまかれた血の匂いをかぎ出して、結局はこの死体を掘り返して食ってしまうのには違いないが、今の我々に出来るのはこれで精一杯であった。

 部下の死体は信じられないほど軽く、熊の胃袋を満たすだけの肉がその体に残っているのかどうかは疑問であった。その身が軽い分だけ、彼の魂は天国の門を通り抜け易くなるのではないかと想像して、私はほんの少しだけ自分を慰めた。

 残りはわずかに三人。容赦無い運命が伸ばして来る手を感じながら、我々は粗末な墓の前に黙って立っていた。次に狙われるのはいったい誰になるのか、三人ともがそれに思いを馳せていたに違いない。その沈黙の中を、我々の背後でがしゃりと何か重い金属性のものが動く音がした。全員が一斉に銃を抜いて振り返った。しかし背後にあったのは枯れた落ち葉の集積と、冷たい風がその間を抜けて行く寂しげな林の醸し出す無機質な空間が広がっているだけであった。

 我々には判っていた。その音は以前にも聞いたことがあったから。グスニーオ要塞の北の一角で夜の歩哨に立ったことのあるものならば必ず聞いたことのある音。グスニーオ要塞を今でも守り続ける幽霊騎士の立てる足音であった。そしてそれは、もはやその存在を隠すでも無く、我々を見張っていることを明らかにした死神の立てる音であった。

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