第7話 一人が風邪を引いて 四人になった
少佐のくれた袋の中に入っていた指輪を売って、我々は食料と一夜の宿を買った。このような隙間風の入り込む納屋を借りるにしては、その宿代は信じられないほど高かったがその大部分は口止め料で、これで少なくとも敵に捕まることなく一晩眠ることが出来る。本来はここは盗人のための宿であり、宿の主人も我々をそう見なしていた。
季節はすでに秋に向かっており、外の闇の中ではこれから訪れる厳しい季節を予告するかのような冷たい雨が降っている。我々はようやく納屋の藁の上へと疲れ切った体を横たえることが出来た。家主にばれないように小さな火を起こして、久しぶりの食事を噛みしめていると、自分達のおかれた状況の余りの情けなさに涙が出そうになった。
それは部下達も同じ気持ちらしく、惨めに打ちのめされた表情を隠すでも無く、食い物を口に押し込んでいる。ここで私が泣き出せば部下達の張り詰めていた精神が崩れ、この小さな納屋の中でおいおいわんわんと皆で止めどもなく泣き続けることになるに違い無く、またそうなってしまった場合、体中の水分が全て出尽くしてしまうまで泣き止めることが出来ないのでは無いかとの非科学的ではあるが確信に満ちた恐れがわずかながらにあったため、私はかろうじて泣くのを踏みとどまることが出来た。
あの指輪は軍人精神の塊とも言うべき少佐のような人が持つにはあまりにも女性的で、推測して見るにそれは恐らく少佐の親しい人の忘れ形見か何かを、故人を忘れまいと少佐は肌身放さず持っていたに違い無かった。それを我々に恵んでくれたのはやがて少佐の部隊自体が敵に全滅させられることを少佐も十分に理解していたためであり、そうなると見も知らぬ敵兵達に死体を探られて結局はその指輪も持ち去られてしまうことになるからである。それぐらいならばこの惨めな集団を助けてやるのに使った方が良いとの少佐の考えであり、また一つには我々を自分達の死に場所に受け入れてやることのできないという罪悪感へのせめてもの慰めでもあったのだろう。
しかしそれでも私は、あの急ごしらえの要塞の中で死ぬことの出来る少佐を羨ましいと思った。ここで奇跡が起きて、ようやく生き残ったこの部下達とあの懐かしきグスニーオ要塞に帰り、いつまでもいつまでもそこを守り続けることができたならばどれほど幸せなことだろうとも思った。現実には我々はこの敵地の中で雨に打たれて冷えきった体を凍るような隙間風にさらしているわけであり、それはここしばらく続いていた食料不足で弱った体をひどく鞭打つことでもあった。
悪い予感というものはすぐに現実となるもので、グスニーオ要塞で要塞砲の砲撃要員を務めていた小柄な隊員の一人が青い顔で倒れるとそのまま起き上がれなくなった。全身が激しく震え、その額が恐ろしく熱いので、これは肺炎にかかったなと思ったが、持っている薬と言えば私の精神安定剤ぐらいのもので、医者も当然この規模の街にはまずおらず、例え居たとしても恐らくは敵軍の厳しい監視下におかれているのは間違いが無かった。戦争状態にある以上、全ての医者という医者には不審な人物を報告しろとの命令が出ているはずで、言葉になまりのある人間は真っ先に通報される可能性がある。取り敢えずの気休めとして、私の薬を少し飲ませた後は、様子を見ることにする以外に打つ手は無かった。
俺にこのグスニーオ要塞の要塞砲を使わせれば、どんな敵でも一撃で葬り去ってやると日頃から豪語していた男であり、またそれだけの技量を持った男でもあった。その技量も今の状況には全く役に立たず、それを言うならばグスニーオ要塞を出て以来、この男にとっては手足をもがれたとでも言って良い状態だったのだな、と思い当たった。この男だけは軍隊でつま弾きにされてグスニーオ要塞に送り込まれて来たのでは無く、時代遅れになったためにグスニーオ要塞送りとなった要塞砲についてやって来た男であった。
この男はグスニーオ要塞を出る時に、命をかけて愛していた自分の要塞砲を他の整備要員と一緒にネジの一本に至るまで奇麗に磨いてから出て来ていたが、きっとその砲もこの長雨の湿気を受けて、徐々に徐々に錆始めているに違い無く、それならばこの男の死と共に、長い間使われて来た要塞砲も今頃はグスニーオ要塞の中で死を迎えているのだなと私は勝手に納得した。
夜半、どこかで砲撃の音が小さく鳴っているのに気付いて、私は目を覚ました。高熱にうなされている男の呟きと、ぽんぽんと聞き方によってはクリスマスのクラッカーのようにも聞こえる小さな砲撃の音が、奇妙なリズムでお互いに相づちを打っているのを聞きながら、ああ、あれは少佐の部隊が砲撃を受けているのだな、と感じた。恐らくは少佐の歩兵部隊が夜襲に討って出た帰りを、待ち構えていた砲兵部隊に狙い撃ちされているに違い無く、これほどの距離を置いても砲撃の音がはっきりと耳に捉えられる以上、現実にはあの山は今頃、山の形が変わってしまうほどの砲弾の嵐を受けているはずであった。運良く闇に紛れて要塞までたどりつけたにしろ、如何に天然の障壁を形作っているとは言え、急ごしらえの要塞にそれほどの耐久力があるはずも無く、このままなすすべもなく重砲の苛烈な連続射撃を受け続けていれば、少佐とその部隊が朝までも生き残っていられる道理は無かった。
やがて、薄い雨雲を通して夜明けの光りを感じ取ることが出来る頃、遠くで鳴り続けていた大砲の音が消えると共に、それに相づちを打っていた病人の男の呟きも消えた。
こうして我々グスニーオ要塞守備隊の生き残りは四人となった。
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