第13話 後宮の代書屋さんは大繁盛!?②
当然のことながら、可不可の声でもない。聞き知った声なら、さすがにわかる。
驚いた夏月が顔を上げると、そこには外廷の官服を着た男が巻物を抱えて立っていた。
城勤めの官吏は役所近くの官舎に寝泊まりしており、基本的に朝出仕して、夕方には帰る。運京のなかでも官舎がある区画の治安はよく、歩いて通勤するものが多い。だから、この城市の住人は、官吏の身なりをよく知っているし、夏月も例外ではなかった。
黒い巾で髪を包み、水色の長衣を纏っている。なかは交領の着物に帯を締めて、すっきりと着こなしていた。よく見かける官吏の身なりだ。
「失礼ですが、どなたでしょう?」
夏月はあくまでも穏便に問いかけた。
突然、上から目線に自分の字を判断されて、印象は悪い。今日の弘頌殿は代書屋をするために貸し切りにしてもらっているはずだ。
なのに、断りもなく入ってきて、我が物顔をされたのだから、官吏というのは身勝手なものだと呆れてしまった。
――なぜ、外廷の官吏が後宮にいるのかしら……。
弘頌殿は迎賓を目的とした建物とは言え、ここはすでに後宮だ。
内廷(後宮)と外廷の間は、築地塀と門とに仕切られており、簡単に行き来できないようになっている。
夏月が後宮で代書をはじめてから、弘頌殿で官吏を見るのは初めてだ。
それなのに、悪びれなく話しかけられたのは、どういうことだろう。
忍んできたふうでもなし、堂々とその場にいる官吏を上から下まで見たあとで、
「女官ではありません。代書屋です」
と夏月は簡潔に言葉を返した。
見た目はずいぶんと整った顔の青年だ。背も高く、立っている姿がすらりとしている。
どこの部署の官吏かまではわからないが、女官が目にしたら黄色い声を上げて騒ぎそうなほどの色男だった。
「代書屋? おい、そこの宦官は……後宮のものだな。秘書省と六儀府で、弘頌殿を使いたいと申し入れていたはずだが」
官吏は、夏月たちの見張りと手伝いをしていた宦官を捕まえて、丁寧に問いかける。
おや、と夏月は思った。
外廷の官吏のなかには宦官に対して威圧的な態度をとるものが少なくない。
やさ男のわりに他人に対してへりくだることができるのか、などという感想は偏った見方かもしれないが、夏月としては、いいほうの評価をつけたつもりだった。
――なるほど、官吏のほうでも弘頌殿を使用する許可をとろうと思えば、とれるのですか。
漠然と、官吏は後宮へとの立ち入りを禁止されているのだと思っていた。
そのくせ、妃の親族が挨拶にやってくることもあるのだから、夏月のなかでは後宮の規則をよく理解できていない。
――身分の違いなのでしょうか、単なる抜け穴なのでしょうか……。
わからないことはわからないままに。下手なことに首を突っこむと命が短くなる。
夏月は今回の企画を執り仕切ってくれている宦官に、すべてを任せることにした。
まだ若い宦官は夏月の姉――紫賢妃に仕えていて、名前を
「本日は、紫賢妃の口利きで、こちらの代書屋が使う許可が下りております。夕方までですので、そのあとでしたら秘書省が使って問題ありません」
真面目な衡子は、夏月の権利を守ってくれようとしたらしい。官吏は途方に暮れた顔をして、巻物をひとつ取り落としていた。
夏月は土間に下りて、落ちた巻物を拾ってやる。手にしてわかったが、古い巻物だった。
ざらりと汚れた手触りがしたから、上質な紙のわりに状態があまりよくなかったらしい。
どこから持ってきたかは知らないが、このまま放置しては、書が痛んでしまうだろう。
「もしかして、虫干しの場所が必要なのですか? 代書は手前のほうだけ使えればいいので、奥のほうは使っていただいても問題ありませんけども……それでは不自由でしょうか」
聞きとりのときに近くにいられるのは困るが、弘頌殿は広い。民家なら、三軒続きになっているほどの大広間だから、端と端にいれば、声は届かないはずだ。
「悪いがそうしてくれると助かる。こちらにも衝立と見張りを用意して、迷惑をかけないようにする」
おや、ともう一度、夏月は意外に思った。
代書屋ごとき、しかも女だからと、居丈高な態度に出る官吏を見すぎたのかもしれない。
まともな扱いを受けたことで、一転して、官吏への評価をあらためてしまった。
――ここまで準備したのだから追いだされなくてよかった……でも、変わった官吏ですこと……。
宦官と部下を呼んで、衝立の準備をさせながら、自分は夏月と可不可のやることをじっと見ている。
やりにくいな、と思いはじめたころ、官吏は唐突に口を開いた。
「女官ではなく、代書屋だと言ったな。それなら、うちで働かないか? 実は字の読み書きができる女官を探しているのだ」
「お断りします」
間髪容れず、即答だった。
その返答の素早さが逆に相手の興味を誘ってしまったことに、夏月が気づく由もない。
「普通は少しは考えるものではないか……代書屋というのはそんなに儲かるのか?」
「儲かりません。赤字です」
これは可不可が勝手に答えた。日々、幽鬼の依頼を断るように言ってくる優秀な執事は、金勘定にうるさいのだ。
おまえは黙ってなさいと視線で窘めて、整理用の番号札を持たせてやる。人が来たら順番に渡すための札だ。ずっと並ばせておくと女官が仕事をしないと苦情を言われたことがあり、いまは時間帯で分けた札を配るようになっていた。
夏月は不躾なほど官吏の顔をじろじろと眺めて、正直な感想を述べた。
「女官など、お役人様が募集すればいくらでも来ると思いますが……そんなに条件が厳しいのですか」
――この顔で女が釣られないわけがあるのだろうか?
どう考えてもおかしい。そうでなければ、なにか裏があるとしか思えない。
夏月だって年ごろの娘である。顔がいい男に黄色い声をあげる同年代の娘の気持ちが、わからないでもない。
官吏という給料とりで顔がいいとなれば、それだけで出会い目当ての娘が応募してきそうなものだ。
不思議そうに首を傾げていると、官吏は悲愴な顔になった。
「字の読み書きができる女官と言うだけで、すでに条件は厳しいのだが……」
それはそうだろう。文字の読み書きができるのは良家の子女が多いから、女官になるものは少ない。ただでさえ、琥珀国では、書を嗜み、学を持つ女性を嫌がる風潮が強い。
娘が文字の読み書きができることを、大っぴらにしたがらないくらいだから、女官にだってしたがらないだろう。
「秘書省のなかでも写本府は閑職だからと女官に特に人気がなくてね……おまけに先日来たばかりの女官も結婚が決まったから辞めたいと言いだして……」
「はぁ……」
――なるほど、人気のない部署なのですか。
閑職というのは、いわゆる出世街道を外れた部署ということだ。
後宮とは違い、外廷の女官として務めたがる娘の目的は、給金より官吏のほうだ。
まだ下っ端役人のうちに仲よくなって、結婚したあとで出世してくれるのが一番効率がいい。
名家の子息では手が出ないが、ほどよい出世をする下っ端役人というのはたまにいる。なにせ勤め先と言えば官吏くらいしかないし、女性はまともな職がない。婚活というのは、就活と同じくらい重要なのだった。
もっとも、仮にも藍家のお嬢様である夏月には関係のない話である。親から婚約者に愛嬌を振りまけと言われることはあっても、官吏を婿として捕まえてこいと言われたことはない。
誘いはうれしいが、ほかを当たってくださいと社交辞令を返そうとしたときだ。官吏の独り言のような言葉にぴたりと動きを止めた。
「秘書省の文倉には珍しい書物がたくさんあって読み放題だし、字の読み書きができるものには楽しい職場なのだがなぁ……」
わざとなのか、偶然なのか。官吏のその台詞は夏月の心の琴線を大きく震わせた。
「珍しい……書物? た、たとえば異国の書物とか?」
ごくり、と夏月ののどが鳴る。官吏の服を掴んで思わず顔を寄せて問いただしていた。
官吏のほうもこれは脈があると思ったのだろう。
興が乗った様子で詳細を話してくれた。
「もちろん、渡来品の書物もあるし、流行りの絵草紙もひととおり収めてある。時間に余裕があるときは眺めることもできるぞ」
――それは見たい。
瞳が期待にきらきらと輝いてしまう。
夏月は書物に目がなかった。藍家は遠方まで商売をしているから、父親の伝で変わった書物を手に入れられる。金に糸目をつけないから、変わった本は向こうから売りこんでくるし、運京に市が立つときは定期的に珍品が出ていないかを巡回している。
夏月の変わっているところは、読めない本でさえ欲しがるところだ。
書を嗜むもののなかには、美麗な文字で書かれた本しか興味のないものが多い。しかし、夏月は琥珀国周辺で使われる漢字の書だけでなく、みみずがのたくったような文字で書かれた本も手を出さずにいられなかった。
国内外を問わず、見たことがない本を読みたいという欲求に逆らえない。
――黒曜禁城の秘書省と言うからには、きっと見たことがない珍らかな書物が山ほどあるに違いありませんわ……。
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