第14話 後宮の代書屋さんは大繁盛!?③

 秘書省とは王室の図書館のことだ。

 文字に呪力があると信じられている琥珀国では、秘書、つまり書物というのは、国王の力の源であり、大切に保管すべき宝だった。

 紙の生産が増えたことで、民間でも書物が流通するようになっているが、国王の権威を持って集めた書物というのは、やはり格別だろう。

 秘書省の書庫というのは、夏月にとってはそれだけの威光があった。

「そうですね。そういうことでしたら、代書屋の延長と言うことで、引きうけて差しあげるのもやぶさかではありませ……――」

 目の前に好物をぶら下げられた夏月が、思わず官吏の誘いにうなずこうとしたときだ。

 可不可から耳打ちされた。

「お嬢、お嬢……正気に返ってください。あの方、朱銅印しゅどういん様じゃないですかね?」

 ひそひそと、なにやらまずいものを見てしまったという声音に気を引かれて、はっと我に返る。

 可不可の視線の先を見ると、そこにはもうひとり、外廷の官吏が巻物を手に抱えて立っていた。

 上着の色が違うから、違う部署の官吏なのだろう。こちらも髪を巾で包み、顔立ちのいい青年だったが、夏月がしまったとばかりに表情を変えたのは、またしても官吏が現れたからではなかった。

「……洪長官。申し訳ありません、私の手違いで弘頌殿を抑えていたのは明日からになっておりました」

 聞き覚えのある声、間近で見ても見覚えのある顔立ちに、夏月は血の気を失った。

 ちらりと向けられた視線には、夏月のしていることを見咎める色がはっきりと浮かんでいる。

 まさかと思ったが、可不可の台詞に間違いはなかった。

 夏月の婚約者・朱銅印がその場に立っていたのだ。

「しゅ、朱銅印様……この代書屋はその……姉から頼まれてやっているだけでして……」

 自分でもなにを言いだしたのかわからないが、ともかくごまかさなくては、と言う方向へ頭が回った。父親から厳重に釘を刺されたばかりだ。ここで婚約者に愛想をつかされたらまずい。

 重ねて言うが、琥珀国の一般的な基準では婚約者が仕事をしていたり、書を嗜むことはよろしくないとされている。仕事として書を嗜む、まさにその現場を抑えられたと言っても過言ではない。

 ――まずい……役満でまずい状況なのではないでしょうか……。

 しかし、冷や汗を掻いている夏月をよそに、朱銅印は官吏といくつか話をして手にしていた巻物を部屋の奥に運んで、そのまま去っていってしまった。

「なんだ、代書屋さんは朱銅印の知り合いか?」

 夏月の行動が不審だったせいだろう。洪長官と呼ばれていた官吏から冷やかされた。

「……婚約者でございますよ」

 隠すようなことでもなし、端的に朱銅印との関係を告げる。

「婚約者? お嬢さんが朱銅印の? それは……こう言っては失礼だが、とても朱銅印の嫁に収まる字ではないな」

 ――初対面の相手から言われることだろうか。

 夏月は口答えしたい気持ちをぐっと抑えて耐えていた。むっとさせられてはいるが、相手は官吏だ。ここで揉めて姉や父親に迷惑をかけるわけにはいかない。

「下々の人間は流されるようにして生きているのです。官吏の嫁くらい、なってしまえば、なんとでもなります。そろそろ代書を依頼したい女官が来ますから、外廷のお役人様は向こうへ行って顔を出さないでください。万が一、後宮の女官に間違いでもあったら首が飛びますよ」

 脅しではなく単なる事実だ。

 普段、宦官以外の男性を見ないせいか、女官たちはその場に男性がいると言うだけで色めきたつ。可不可が手伝いで控えていると、それだけで熱い視線を向けられることもあるため、聞きとりのときは、なるべく顔を出させないように気をつけているくらいだ。

 しかし、こちらの注意など、初めから理解していたらしい。

 官吏は、背後からのぞきこむことをやめて、板敷きから土間へとするりと下りた。

「流されるように生きる娘が、わざわざ代書屋を営み、異国の本の話を聞いて目の色を変えるとは思えないが……まあ、いい。首が飛んでは一大事だからな。仕事に戻ることにしよう」

 そのまま行ってしまうかと思った官吏は、思いだしたようにふと振り向いた。

「ああ……代書屋のお嬢さん、私は秘書省付き写本府長官の洪緑水こうりょくすいと申します……名前をおうかがいしても?」

 先に名乗られて初めて、夏月は自分が名乗っていなかったことに気づいた。

 普段、灰塵庵などという寂れた場所に引きこもって、あまり人付き合いをしていないせいだろう。対人関係をすんなりとこなす技に欠けるのだ。

「これは失礼いたしました、洪長官。代書屋『灰塵庵』の藍夏月と申します」

 名前を呼ぶときは、役職があれば、役職をつけて呼ぶのが通例だ。

 役職がなければ、あざなという通称で呼びあう。名前には呪力があり真名を明かすことで、相手に支配されるという考えがあるせいだ。『夏月』というのは、書家の雅号としても使っている字だった。

 夏月が書いた書には、すべて『夏月』と雅号を書き入れている。

「藍夏月……ということは藍家のものか。ああ、それで後宮で代書なのだな」

 国王の寵妃が藍家の出だと言うことを知っていたらしい。閑職の官吏だと言ったが、最近の派閥争いを理解していたようだ。

「それはそれは……藍家という後ろ盾があるならなおさらいい。もし、気が変わって女官をしてもいいとお思いになったら、いつでもご連絡ください。では……また縁があればお会いしましょう」

 勝手な誘いを言い残した官吏は、今度こそ出ていった。あれほど注意したのに、女官と遭遇してしまったようだ。きゃあきゃあと弾んだ叫び声が、遠くから響いてくる。

「お嬢……」

 気を遣ったような呼びかけを片手で制した。

 可不可に慰められなくても自分が一番わかっている。

 ――『流されるように生きる娘が、わざわざ代書屋を営み、異国の本の話を聞いて目の色を変えるとは思えないが』

 洪緑水の言葉は多分、当たっているのだ。

 夏月としては普通にふるまっているつもりなのに、婚約者から煙たがられてしまう。

 その理由を薄々と感じながらも、見ないふりをしている。久しぶりに突きつけられると、鋭い刃のように胸を突き刺された心地になるのに、この痛みにさえ、もう慣れてしまった自分がいた。

 父親の言うように、結婚していいと思っている自分はいる一方で、

 ――結婚したら……もう、深夜の客を迎えることはできない……。

 拗ねた子どもが我が儘を言うように、ささやかな抵抗を診せる自分がいるのも事実だ。

 深夜に軒に吊す看板と朱色の鬼灯ほおずきが頭を過ぎると、どうしても夏月は代書屋をやめることができなかった。

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