第11話 黄泉がえりの娘にも怖いもの④


「忘れているかもしれないが、三日後は、おまえの婚約者との会食の約束がある。生き返ってくれて不幸中の幸いだ。会食の日までは本家で礼儀作法を学ぶように」

 居間の椅子に座した藍思影らんしえいは、反論は認めないとばかりに話を切りだした。

 客人がよく訪ねてくる本家の居間は広い。透かし欄干や美しい衝立を備えた風雅な部屋で、磨かれた黒檀の卓子が漏窓の前に置かれている。

 漏窓は庭の風景を見せるために作られた飾り窓で、窓が額縁で、風景が絵のようなものだ。客に美しい景色を見せながら商談をするというわけだ。

「言っておくが、先方から嫌われるようなことは慎むように。代書屋をしていると言うことも、当然だが、三日間死んでいたことも秘密だ。わかったな」

 強く念を押されて、夏月はそこでようやく自分の時間感覚がずれていることに気づいた。

 しまったと焦りながらも、念のために確認する。

「婚約者との会食……ということは、今日は九日でしょうか」

「そのとおりだ。いいか、おまえの婚約者・朱銅印しゅどういん殿は三男とは言え、朱家の血筋で、これはとてもいい縁談なのだからな。くれぐれも粗相のないように」

 父親の小言を聞きながらも夏月の目は、暦に釘付けになっていた。

 その主の様子を見て、いち早く事態を察したのは可不可だ。

「あっ、今月の十日は確か……」

「そのとおりです、可不可。お父様、もちろん、朱銅印様との会食、忘れておりませんわ。でも、ちょっと日にちの感覚が失われておりまして……ええ、ちょっとした仮死状態だったようなんですけど」

 本当は多分死んでいたが……と思ったことは伏せておく。

 三日も死んでいたのだから時間がずれて当然だ。夏月のなかでは、冥府にいたのはせいぜい一日くらいで、予定の日はまだ先だと思っていたのだから。

「ですが、明日は重要なお仕事が入っておりまして……」

 揉み手をしながら、そこのところはどうにかなりませんかと父親の機嫌をうかがってみる。しかし、今日の父親はいつになく、強硬だった。

「そう言って先日も逃げたばかりではないか。寝こんでいたのだからなおさらだ。仕事の予定は取りやめにして、自分の部屋でおとなしくしていなさい」

 ようするに軟禁だ。今日から家を一歩も出してもらえないという圧力を父親から感じていた。

「それはその……部屋でゆっくりと休ませていただけるのは、もちろんありがたいのですけど、このお仕事はちょっと特別で、断るわけにはいかなくてですね……」

 父親に頭が上がらない夏月が苦しい言い訳を繰り返していると、背後に控えていた可不可が助け船を出してくれた。

「おそれながら、旦那様。明日の仕事は紫賢妃しけんひの依頼で、後宮にて代書屋を開くことになっております。外から人を入れるのに紫賢妃が役所に届けを出し、国王陛下の許しもいただいているお仕事ですので、さすがにこれをなしとするのは、紫賢妃のお立場もありますし、難しいかと存じます」

 可不可はとうとうと、流れるように藍思影に訴えた。

 後宮という言葉には、いくら頑固な父親でも眉を動かすくらいの効果があったが、本当に顔色を変えさせたのは、『紫賢妃』という名前のほうだった。

 腕を組んだ藍思影は唸るような声をあげる。

「紫賢妃……秀曲しゅうきょくの依頼か」

「さようでございます。紫賢妃が差配し、紫賢妃の恩恵で後宮勤めの女官たちでも故郷に手紙が出せると、大変、評判がいいらしいのです……夏月お嬢様の代書屋は」

 念を押すように可不可が付け加える。

 その台詞が父親の心を動かすのは、紫賢妃というのが藍秀曲という名で、つまりは夏月の姉だからだ。

 後宮入りした姉は国王の覚えがめでたく、無数にいる妃のなかで頭角を現し、その結果、藍家の権勢にも繋がっている。

 言ってしまえば、夏月の婚活などより、紫賢妃が後宮で安泰の地位を築くことのほうが、藍思影のなかでは、ずっと重要なはずだった。

 ちらりと背後に視線をやった夏月は、互いに目線だけで合図をする。

 ――可不可、いい助け船でしたよ。

 ――おまかせください、お嬢。

 息が合った主従のやりとりである。

「うむ……確かに後宮での仕事ともなれば、急に断っては紫賢妃の立つ瀬もないだろう。準備なさい……ただし、明明後日の昼は、必ず、朱銅印殿との会食に行くのだぞ」

 父親としての威厳を見せつける藍思影に対して、夏月は手と手を重ねる礼――拱手をして答える。

「はい、お父様」

 神妙な顔をする腹の底で、

――やはりあと店に行って、紙を用立ててもらう必要がありそうね……。

 などと算段していたのだった。

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