第10話 黄泉がえりの娘にも怖いもの③

 黄泉がえりの娘――そんな不吉な渾名あだなをつけられていると知ったのは、空腹のあまり酒楼に馬車を横付けし、さんざん食べ尽くした翌日のことだった。

 自分が暮らす庵の布団の上で、今度はここちよい安眠を貪った夏月を待ち受けていたのは、父親からの呼び出しだった。

 当然のことながら、夏月の父親――藍思影らんしえいは娘が死んだと思って葬式の手続きを進めていた。なにせ、医師から死亡の診断をもらい、石棺の上に三日も横たわっていたのだ。

 三日というのは長い時間ではないが、娘が死んだと諦めるには十分な時間だ。その眠るように死んでいたはずの娘が、酒楼で大量に飲食をしていたという噂を聞いて、目が飛びでんばかりに驚いたのも無理ないことだった。

「お嬢、店のほうに先に顔を出すなんてまずいですよ」

 大路のほうへ向かおうとする主に気づいて、可不可が声をかけた。

 藍家の家屋敷は貴族街にあり、同じ城市のなかにあっても、『灰塵庵』からはずいぶんと離れている。運京をつらぬく大路を通りぬけようと思うと、自然と商家が軒を連ねる繁華街を通るため、つい実家が出資している店のほうへと足が向いてしまうのだった。なにせ、父親と会えば、小言を言われるのはわかりきっている。

「大丈夫よ。店ではそろそろ新しい紙を仕入れているころでしょう? 番頭に言って少し用立ててもらわないと紙が足りなくなりそうなのよ」

 建前のように赤字を引き合いに出したけれど、怒れる父親が待つ藍府に行くのを、少しでも遅らせたいという気持ちも、もちろん混じっている。さらに言うなら、代書屋の赤字は幽鬼の客のせいとばかりは言えなかった。ろくに客も来ないくせに、夏月が大量に本を買ったり、高い硯を買ったりするせいで、『灰塵庵』は今月も赤字なのだ。

「ごめんください。番頭はいるかしら……」

 店の敷居を跨いだ夏月は、長年奉公している使用人の顔を探そうとして、その場に固まった。店の奥――番頭がよく座っている帳場の前にいたのは、いつも紙や油を用立ててもらう番頭ではない。怒りを露わにした藍思影だったのだ。

「いい年をした娘が………結婚もせずに代書屋の真似事なんてしていたかと思えば、倒れて死んでおり、そうかと思えば黄泉がえって街をふらつき、黄泉がえりの娘などと呼ばれていると言う……夏月、そんな父親の身にもなってみろ!』

 まるで商品を売るときの口上のようだ。壮年の父親にしては一息に、滑らかな口調で罵られた。むしろその、滑らかな話しぶりにこそ感嘆し、思考ごと凍りついてしまう。

「お、お父様……まぁ……お店のほうにいらしていたんですか」

 不意を突かれたあとで、夏月にしてはよく立て直したと褒めてほしいくらいだ。いきなり父親と出くわすなんて、完全に油断していた。本家の屋敷より先に実家の商いのほうへ顔を出し、お金を用立ててもらおうなどと考える娘の行動などお見通しだったらしい。

 夏月の父親・藍思影は名家の跡取りながら商才があったようで、手広く商売をやっている。本人は官吏の役職で店にいないことが多いが、実家の商売は繁盛していた。

 いくら紙や墨が高価だと言っても、『灰塵庵』は客が少ない、寂れた店だ。店で使う分の紙と墨を少しばかり用立ててもらったところで、実家の身代が傾くことはない。しかし、そもそも夏月が代書屋をしていること自体が問題視されており、番頭からこっそりと金をもらうのも限界があった。

 しかも、三日も死んだあとだ。

 生き返ったと知らされたなら、すぐに本家に顔を出すと思われて当然だろう。

 ようするに、藍思影としては娘の死に動揺し、生き返ったと聞いたあとは、すぐに屋敷に来るかと待っていたら、当の娘は酒楼で飲食するのを優先させたとあって、心配を通りこして怒りに変わってしまったのだった。

「お父様、申し訳ございません。このとおり、夏月は海より深く反省しておりますわ。でも、ずっとなにも食べてなかったので、とてもとてもお腹が空いていたんですの。夏月の辛い気持ちもわかっていただけませんか」

 しおらしい素振りで頭を下げる。

 正直に言えば、夏月としては自分が死んでいた、という感覚があまりない。なにせ、冥界ではひたすら禄命簿の書き入れをして働いていたのだ。必死に作業をしていたせいで、飲食を忘れていたと言うのはあるにしても、いま思えば、冥界ではお腹が空かなかったのだろう。

 しかし、現実には三日の時間が流れており、身動きしていなくても、夏月の体は空腹を訴えていた。精神の疲労と体の空腹が現実となったとたん、激しい飢餓が夏月に襲いかかってきたのだ。

「そう……まるで飢餓地獄のごとく、耐えがたい空腹の衝動だったのです。なんて怖ろしいことでしょう……」

 かつてないほど酒楼で食べたが、今度はお腹が痛くなってしまった。昨夜の夏月は、額を打ちつけたのとは別の意味で唸っていたのだった。

 ここで神妙な顔をして謝ってくる娘に絆されるような父親であれば、話はもっと簡単だったろう。しかし、藍思影は、娘の型にはまりきらない気質をよく心得ていた。

 ただ、店の外に目をやり、遠くに視線を向けて、深いため息を吐く。

「いったいなぜ、私は死んで黄泉がえったあと、親に顔さえ見せない娘を養っているんだろうな……」

「ごもっともで」

 ぼそりと、父親に同意したのは夏月の背後に控えていた可不可だった。

 廟堂での驚きようから察するに、彼もまた夏月が死んだと思って、ずいぶんと胸を痛めていたのだろう。

 ――仕方がないことですけど……四面楚歌です。今日は味方がどこにもおりませんね。

 ひたすら謝るくらいしか夏月にできることはない。

「ともかく、私は娘と話があるから、店のほうは頼んだぞ、番頭」

 父親は店の奥にいた番頭に声をかけると、夏月の首根っこを掴んで、店の外へ――賑わう大路へと引きずっていったのだった。


 藍家の屋敷――藍府は屋敷町の一角・洞門路とうもんろにあった。

 貴族の屋敷が建ちならぶこのあたりは、一見すると塀ばかりが目につく、面白みのない通りだ。お屋敷はすべて大きな屋根付きの塀に囲まれた内側にあり、盗賊でさえ、簡単に近づけないのだった。

 それぞれの家の門構えは貴族の格を表しており、鋲の打たれた朱門は名門だけが設えることができる。

 藍家の朱門をくぐるというのは、それだけで誉れなのだと言えた。

 ――父親に引きずられるようにして連行されるのでなければ、ですけど……。

 門をくぐったあとに目隠しのための影壁、そのあとに玄関と続くのは、伝統的と言えば聞こえがいいが、古めかしい造りである。

 馬車で乗り付けができる外門はともかく、玄関から先は、ひたすら框を乗り越えて家の奥へと進まなくてはいけない。夏月はいつになく慎重に大きな横木を跨いで、四合院造しごういんづくりの奥、中庭に面した部屋へと入ったのだった。

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