第4話 Sの昇天

四、Sの昇天


 ……Sは眸を開けたまま夢を見ているような人でした。あの人は何処か現実ではない世界を見ながら生きているような感じでした。もしかしたらSその人自体が虚構から抜け出てきた人間なのかもしれません。Sの容貌のせいもあるでしょう。彼は現実を生きている感じがしなかった。整いすぎた顔は人形のようで時折、空恐ろしいようにも思えました。


 Sがこうして死んでしまった今、わたくしは悲しみよりも驚きの方が強くて涙一滴すら出ません。こんなわたくしを非情だとお思いになりますか? 冷淡だと云いますか? でも本当に現実感がないのです。彼が死んだと聞かされても、実際に彼の遺体をこの目で見ても、恰も何かの映画やドラマを見ているようで……何から何まで、全て作りごとめいていて、まるで手応えがないのです。


 だけれども、何時かこのような事態を迎えるかもしれないと漠然と考えていたところもありました。きっとSは普通の死に方をしないであろうと。実際、それが現実のものとなってしまった。


 そう……、わたくしが旅行から戻ってくると家の中は妙に静かでした。Sの姿が見えないので何処かに出かけているのかと思いました。この頃は調子も良さそうでしたから。それなのに何故……、今だって信じられないくらいです。


 え? ええ、そうです。結論から申せばSは愛人と無理心中したのです。


 ……数ヶ月前からSは左手に白い手袋を嵌めておりました。食事の時も、居間で寛いでいる時も、寝室へ退る時でさえ手袋を外すことはありませんでした。……流石に入浴時は外したでしょうけれど。とにかくわたくしの前では白手袋で常に左手は覆われておりました。不思議に思ってどうしたのかと訊ねるとSは「手荒れが酷くてね」何でもなさそうに笑っていましたっけ。


……彼はK町にある絵画教室とN高等学校の美術の講師でした。とは云っても去年の春から体調を崩してどちらも休職をしていたのですが。それでも調子が良い時は自ら絵筆を握って何やら作品を描いてる様子でした。……どうもSは肌質のせいか画材で手の皮膚が荒れてしまうようです。だからわたくしはSの言葉を――手袋をしていた理由を素直に信じておりました。


 Sはある時から寝室でひとり過ごす時間が多くなりました。その時には既に愛人がいたのでしょう。何処でどう知り合ったのか……Sがつけていた日記にもきっと記されているでしょうけれど、とてもそこまでは読む気にはなれません。


 わたくしとSとの間柄ですか? 特段、これといって悪くはなかったですよ。ごく普通でした。これまで関係に罅が入るような諍いがあったわけでもなく、彼の気持ちがわたくしから離れてしまった理由も正直解りません。いえ、そう思っていたのはわたくしだけだったのでしょう。何かわたくしの気に入らない部分があって、それが少しずつSの中に蓄積していったのかもしれません。それとも単純にわたくしに飽いて、やることなすこと目に余って傍にいることすら鬱陶しくなったのかもしれません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはよく云ったものです。わたくしは彼の傍にいながら心変わりにちっとも気がつかないまま……さぞかし滑稽でしょうね。


 Sと暮らした日々はまるで……そう、まるでおままごとのようでした。夫婦というよりは仲の良い姉弟(きょうだい)のようでした。でもそう感じていたのはわたくしだけだったのかもしれません。人の心は解りませんわね。どんなに長く傍にいても、言葉を尽くしても……届かない、見えない領域がある。だからこそ相手を必死に理解しようと、解りたいと一心に望むのでしょう。……わたくしは結局、彼を解することができなかった。


 ……事件は――警察の話ではSと愛人の死因は失血死らしいのです。夥しい切り傷が胸にあったそうで。おぞましい話なのですが、どうもSの心臓を取り出そうとしていたらしい、というのが検死の見解でした。一体何のために、と思うでしょう。初めは無理心中ではなく、殺人事件ではないかと随分と混乱があったようですが、Sがつけていた日記や愛人に宛てた手紙から恐らく無理心中を図ったのだろうと……そう警察の方は仰っていました。


 ……Sの日記はわたくしも必要があって幾つか見せられましたけれど、日々の出来事を綴っているというよりは、ひとつの文学作品のようでした。日記すら虚構めいていました。彼は眸を開けたまま本当に現実ではない何処かを見ていたのかもしれません。いえ、きっとそうです。そうでなければ、このような事態にはならなかったと思うのです。


 見せられた彼の日記には愛人のことばかり書かれていました。それがまた恐ろしくて……左手の薬指を切断しただの、右眼を交換しただのと……。ええ、実際にはそのようなことはありませんでした。これは検死の結果でもはっきりしています。只、寝台の上に置かれていたオルゴールの匣の中には指が――義指がありました。それから眼帯も……。咄嗟には意味が解り兼ねましたが、今では――恐らく二人は、そういう遊びをして楽しんでいたのでしょうね。二人だけの世界に閉じこもって。二人だけにしか見えない世界で……幼いごっこ遊びをしながら、愛し合っていたのでしょう。わたくしにはそんな世界をついぞSは見せてはくれなかった。彼の隣で同じ景色を見たかったのに……彼は別の人を連れて、逝ってしまいました。……すみません、今になって涙が出るなんて……他の誰かを愛したSを憎く思う反面、やはりわたくしは彼を愛しているようです。


 ……ええ、きっと今回の事件もこの遊びが発端だったのでしょうね。でも何故死に至るような真似をしたのか……誤ったというには行為がいきすぎていますし……もしかしたら、痴情のもつれ、というものなのかもしれませんわね。口にしてしまえば陳腐で酷く莫迦々々しいようですけれど。


 今はとてもやるせない気持ちです。


 でも、それでも。


 わたくしもSが見ていた世界を少しでも垣間見ることができるなら――狂うことも、厭いません。


                           (了)

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喪いゆく躰 椿蓮子 @renko619

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