第3話 心臓
三、心臓
――胸骨の中の海、〇.六六一ポンド。
二月に入って間もないその日は珍しく寒気が緩んで、固く閉ざした紅梅の蕾も柔くなって膨らむような、開花を促す陽気だった。少し躰を動かせば、汗ばむくらいである。陽射しも麗らかで少しずつ季節が移ろうていることを感じさせた。そんな冬日和の上天気に反して、わたしの足取りは些か重かった。向かう先は彼の自宅であった。
その日、初めて彼の自宅に招かれた。正直に云えばあまり嬉しくはなかった。彼の私生活を見たくなかったので。見てしまえば、二人きりの閉じた世界に亀裂が入り、綻びが生じるような気がしたのだ。わたしと彼との関係は秘匿しなければならないこともあって、今まで彼と逢う時はお互いの生活が見えない場に限られていた。それがどういうわけか、彼が日時を指定して自宅へ来るようにと手紙を寄越したのである。
彼を訪ねることについて幾日も逡巡し、考えているうちに当日がやって来てしまった。家を出る直前まで迷っていたものの、結局わたしは同封されていた手書きの地図を握り締めて彼の家に赴いたのだった。彼の日常を目にしたくないと思いながら、わたしはもっと彼を知りたいと心底で欲していたのである。彼を愛しすぎていたために。
若干の不安を抱きながら約束の時間に彼の住まいを訪うと、家主は「いらっしゃい」にこやかに出迎えてくれた。自宅で寛いでいたためか、彼は稀に見る軽装でわたしの眸(め)には新鮮に映った。広い玄関はすっきりと片付いていて彼以外の存在を感じさせなかった。彼によれば家人は二泊三日の旅行に今日から出掛けているとのことだった。だから家に呼んだのかと安堵したような、落胆したような、複雑な感情にわたしはひっそりと息を吐いた。
「迷わずに来られたかい」
「ええ、お陰様で」
「それは良かった。上がって」
促されてお邪魔しますと上がり込むと通されたのは彼の自室だった。部屋に入った途端、眸を惹いたのは画架(イーゼル)にかけられた画布(カンヴァス)だった。縦三十センチ横二十センチ足らずのそれは一面の碧色で満たされていた。碧色は様々な青の寄せ集めだった。わたしは近付いてつぶさに見た。
青、紺碧、青藍、瑠璃、青碧、群青、浅葱、蒼色、藍色、濃紺、天色(あまいろ)……それぞれの色彩はぶつかり合いながら溶け合い、混じり合って鮮やかに飽和していた。画布に置かれた碧色達は静まりながら躍動していた。しかし何を描いたのかは知れなかった。抽象画だろうか。筆跡がうねる絵の具はまだ乾ききっていないのか濡れた艶を帯びていた。彼に絵を描く趣味があったとは驚きである。
それからわたしの興味を惹いたのは棚に並んだ書物だった。大判の西洋絵画の画集や異国の風景写真集、鳥類や鉱石の図鑑、それに混じって『循環器学』と題した本が一冊あった。場違いのように棚の中に収まっている医学書が不思議に思われて、わたしは手に取った。頁を開くと心臓の解剖図がカラーで載っていた。解りやすく赤や青で色分けされた臓器が自分の中にもあるのだと意識すると妙な心持になった。
不意にドアが開く音がして振り返ると彼が「お待たせ」とトレイを持って現れた。香ばしい湯気を立てるカップを小さな座卓の上に並べながら彼はわたしの手元を見て「興味があるなら君にあげよう」と云った。
「興味というか、この本だけ何だか他と趣が違って見えたから開いてみただけですよ。循環器について勉強しようとしたのですか?」
勧められた座布団に腰を落ち着けながら本を閉じ、着たままでいた外套を脱ぐ。室内は暖房がよく利いていて少し暑いくらいだった。
「勉強はしないよ。只、心臓の解剖図が良かっただけさ。こんなにも美しい臓器が自分の中にもあると思うと何だか不思議な心地がするね」
「心臓にも美醜があるのでしょうか。人の容貌のように」
「僕はあると思う」
「あなたの心臓はさぞ美しいでしょうね」
「取り出して見せようか」
「ええ。取り出したら記念にわたしにください」
彼が悪戯っぽく笑んで頷いたので、わたしも微笑み返す。ざらついて毛羽立っていた心が凪いでゆくのを覚えながら、気になっていた画布について訊ねた。
「あれは海だよ」
「海?」
なるほど、確かにそう云われれば海に見えなくもない。
「何処の海です?」
「君が眺めていた海だよ」
告げる口調は何処となく投げやりで、素っ気なかった。不機嫌そうな気色が漆黒の眸(め)の奥に見え隠れしていた。彼がこんなふうな態度を見せたのは初めてだった。しかし何が彼の気分を害したのか解らなかった。彼はわたしの言葉を待っているのか表情を失くしたまま、カップに注がれた珈琲を口にした。気まずい沈黙のうちに手をつけた飲み慣れない珈琲は酷く苦かった。落とした視線をちらりと正面に向けると彼は画布を無感動な眸で見詰めていた。何か背筋がうそ寒くなうような眸だった。
彼が露にした感情とわたしが此処へ招かれたことの意味とを考えずにはいられなかった。だが思考を巡らせても容易に解は得られない。何と云ってよいものか、言葉を捜しているうちに彼が徐に口を開いた。
「いや、よそう。すまなかった。――つまらない嫉妬だ」
「嫉妬?」
予期せぬ台詞に首を傾げて問うと彼は困ったような、はにかむような表情で頷きながら「今のは忘れてくれ給え」とすまなそうに云うのでこれ以上、追及することを諦めるより他なかった。久し振りに逢ったのだ。雰囲気を損なうのは双方にとって得策ではない。わたしは釈然としない気持ちを胸底に沈めたまま、話題を転換した。
「あなたへのプレゼントです」
持参した緑色の小さな紙袋を卓上に差し出した。
「開けても?」
「どうぞ」
彼はそっと紙袋の口を開けて中身を取り出す。
「貝殻……?」
彼は眸を瞬かせて、掌の上に載せた貝殻を矯(た)めつ眇(すが)めつ珍しそうに眺め遣った。
「綺麗でしょう。これはハッキ貝です」
ハッキガイは卵円錐形で長い棘がある特徴的な造形をしている。殻は硬く、全体的に淡黄色から白色で刻まれた螺旋状の溝があり、ところどころが淡い褐色に染まっていた。
「此処まで綺麗な形を残したハッキガイを海で拾えるのはかなり珍しいのです」
「そんなに貴重なものを僕が貰って良いのかい?」
「ええ。あなたにあげたくて探したのです」
「どうもありがとう」
彼は喜色を頬に咲かせて、これでようやく波音が聴けると画布に目を向けた。わたしも倣って碧が群れる油彩画に視軸を転じる。
「貝殻を耳に当てて欹てると波の音がするだろう? でもそれは貝殻から聞こえてくる音だけじゃないんだ。人の躰の中にある海からの声でもあるんだ」
「躰の何処に海があるのですか?」
「心臓に」
休むことなく、絶え間なく動き続ける心臓は、打ち寄せては遠ざかりまた打ち寄せては引いていく、激しく脈動する海そのものだと彼は云う。
「この複雑な形をした巻貝も、躰の一部だ」
白い指先が卓に置かれたハッキガイの輪郭を滑る。わたしは貝殻を見てあれは彼の耳だと思った。美しい形をした彼の耳。鼓膜の奥で眠っている蝸牛。貝殻は耳の名残だから耳に宛がうと海の声が聴こえるのだ。
彼の海はどのような色彩を持っているのだろう。波音は穏やかなのだろうか。それとも逆巻くように荒々しいのだろうか。彼の海に身を浸して溺れたい――。
「わたしに、あなたの海を見せてください」
**********
寝台の上に広げてみせる。展翅板の上に展開される美しい蟲のように僅かに躰を慄(ふる)わせていた。私は腰の辺りに馬乗りになりながら晒された裸の胸部に触れる。と、ひくり、と白い喉が鳴る。静脈が青く透けて見える胸は静かに息づいていた。
「心臓の位置はこの辺りだね。中央からやや左側……胸骨と第二、第三、第四、第五肋骨の間にある。心臓を守るようにして左右に肺があって下は横隔膜が接している。大きさは握り拳より少し大きいくらいで重さは約三〇〇グラム。〇.六六一ポンドだ」
人間の海はささやかですねと笑う。
「そうだね。でも激しさは実際の海以上だ」
秘められた感情に荒れ狂い、昂ぶり、戦慄き、壊れるのではないかと恐怖するまでに鼓動する臓器。激情の坩堝である心臓には熱い血が滾っている。
「心臓が約三〇〇グラムなら魂の重さは何グラムだろうね? ああ、そう云えば、魂の重さを測ろうとした医者だか科学者だかがいたように思うけれど」
私の心臓を天秤にかけたら罪に重たく傾くだろう。
光線のせいか、蒼白い顔色の頤を捉えて囁く。
「――君の望む海を見せよう」
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