第2話 右眼

二、右眼


 ――美しいものだけを見て生きたい。


 情事に乱れた蒲団の上に彼は胡坐をかいてしきりに右眼を擦っていた。わたしがどうかしたのかと顔を覗き込むと「眼がチクチクするんだ」瞬きを繰り返す眼は痛ましく充血していた。


「塵か睫毛が入ったのでしょう」


 見せて御覧なさいと下瞼を引っ張って涙の膜が張った漆黒の眸をしげしげと眺めてから眼だけを上に動かすように云うと、現れた血走った白目の部分に太い睫毛が一本、貼りついていた。じっとしていてください――わたしは両の手で彼の頭を固定するように押さえつけると舌先で眼の中の異物を掬い取った。彼の眼は微かに透った海の味がした。穏やかな、明るい、南方の碧瑠璃色の味。


「取れましたよ」


 舌に載った睫毛をちり紙に包んで塵箱へ放り込む。


「ああ、ありがとう」


 彼は云いながら幾度か瞬きを繰り返して、ぽろりと一雫、海の欠片を落とした。感情による涙ではないけれど、彼がこんなふうに泣く様は花開いた白椿が落ちるようだった。この人はどんな表情であっても美しいらしい。只、黙って坐っているだけでも一枚の絵になる。額縁を持たせて立たせたならば、どんなに面白かろう。生きた絵画、即席の美術館。鑑賞者はわたしだけが良い。


「後で医者に診せた方が良いでしょう。眼が真っ赤だ。傷がついているかもしれない」


「これくらい何ともないよ」


「そうですか?」


「うん。ところで、僕の指は元気かい?」


 わたしは思わず噴き出してしまった。すると彼は何か変なことを云ってしまったのかと怪訝そうに首を傾げる。何処か稚気のある仕草が可愛らしい。


「あなたの云い方が何だか可笑しかったから。犬猫じゃあるまいし」


「そうかな。愛玩と云う点では似たようなものじゃないかな」


「犬や猫より、わたしはあなたが良い。――指は元気ですよ。変わりありません。わたしの指も元気ですか?」


「ああ、勿論。オルゴールの匣に大事に仕舞ってあるよ」


「ずっと仕舞い込んだままですか」


「さて、どうかな」


 彼は謎めいた笑みを片頬に浮かべる。だけれどもわたしには解っていた。彼がわたしの薬指で秘密の遊びをしていることを。わたし自身、切り取った彼の指と毎晩、戯れているからだ。指を使った遊戯は不思議な錯覚、あるいは幻覚を齎す。目の前に彼が現れてわたしを愛撫するのだ。きっとその時は彼も同じように、わたしの薬指を自身の素肌に滑らせて享楽に耽っているのだろう。


 隔たりながら相手の存在を感じることの幸福。


 しかしこうして実際に逢うと、やはり生身の彼が一番好ましい。触れれば体温があり、近づけは匂いを感じ、声をかければ応えてくれる。彼の些細な仕草、細やかな動作、呼吸のリズム、脈拍の強弱まで。彼の生命(いのち)をまるごと感じられるのは今この瞬間だけだ――何もかもが惜しくなってわたしは彼を蒲団の上に押し倒すと痩躯を引っ繰り返して、腿の上に乗り上げた。それから剃り跡が清潔に青々しい項に噛りついた。彼の細い肩が僅かに跳ねる。


「急に、どうしたんだい」


 彼は左頬を蒲団につけながら右眼でわたしを見上げる。やや驚いたように眼を丸くして。


「桜を見たくなりました」


「桜?」


「ええ、わたしだけが鑑賞できる桜です」


 云いながら彼の白い襯衣(シャツ)を剥ぎ取る。釦を留めないでいたので脱衣は容易だった。


 障子を透かして入る冬の白く濁った陽射しは肉の薄い彼の背に柔く落ちて、日に焼けない白磁の肌に隆起する骨や筋肉の陰影を作る。わたしが一等気に入っている肩甲骨は折り畳んだ翼の如く皮膚の下で静かに息づいていた。その様は孵化を待つ大型の鳥類、あるいは目醒めるのを待つ聖なる有翼人種――彼の背中を見ては何時か皮膚を突き破って真白き羽根を広げやしないかと愚にもつかぬ夢想を繰り返した。または真っ直ぐな背骨に沿って肉が左右に割れて、極彩色の蝶が羽化する様を思い描くこともあった。


「あなたは自分で見ることは適わないでしょうけれど、のぼせると背中一面が薄紅色に染まるのです」


 唇を寄せて素肌に痕を散らし、情を込めて睦言を鼓膜に流し込めば形の佳い耳郭に朱が燈る。敷布(シーツ)を握り締める彼の指先の色が抜けていた。脇腹の辺りをそろりと愛撫すると肌が小さくさざめいて、色情を微かに孕んだ吐息が薄く開いた唇から零れた。


 わたしは知っている。彼の官能の在り処を。慾望の在り処を。どのように触れれば彼がその肉体をわたしに明け渡し、委ねるかを。


 滑らかな、無防備な白皙と戯れる。指先で、掌で、唇で、舌先で。素肌を味わう度に彼は息を詰めて躰を慄(ふる)わせる。耳を染める色が濃くなって充血した右眼が訴えかける。これ以上は、と。


「――桜は見られたかい」


「いいえ。まだ、もう少し……」


 項にゆっくりと指を滑らせて頸椎を数える。此処は七番目の頸椎だろうか。


「真冬に桜を見ようだなんて酔狂だね、君は」


「物狂おしくさせてるのは、あなたですよ」


「それは光栄だ。そろそろ襯衣を返してくれないか。寒い」


 身を捩って起き上がろうとする彼を押し留めて、


「桜を見せて貰うまでは駄目ですよ」


「でも寒いよ」


 そう云う彼の肌は躰を交えた時と同じ温度を持ち始めていた。背中一面に薄紅色を咲かせたくて項に柔く歯を立てて脇腹を撫で上げる。無駄な肉がない躰は何処を触れても骨の在り処が良く解った。かと云って貧相な印象とは皆無で、均整の取れた、しなやかな躰付きだった。腰骨の方へと掌を這わせると彼は小さく喘いだ。


 彼の裡に眠っている官能の導火線に火を着けるのは容易い。朱が差す耳殻を唇で食むと彼も観念したかのように脱力した。わたしは執拗に耳を愛撫する。触れる息が擽ったいのか、時折、彼は感じ入ったように目を閉ざした。


 暫くして傾けていた身を起こすと見下ろす背には薄紅色が満開に広がっていた。わたしだけが咲かせることができる徒花、わたしだけが見るに能う艶(えん)な色。


「もう、良いだろう」


 顔が見たい――言葉に従って腰を浮かせると彼は仰向けになった。漆黒の底に情火を揺らめかせた双眸がわたしを見上げる。視線が出会って彼は嬌笑を唇に刷く。


「君から貰いたいものがある」


「何ですか?」


 左手が伸びてきて、わたしの右頬に触れた。慈しむような手つきで親指の腹が下瞼をなぞる。不意に半身を起こすと顔を寄せて、口付けられる――そう思った刹那、下瞼を引っ張られて赤い舌尖が眼球の表面を柔く撫ぜた。


 視界いっぱいに彼の微笑が広がっていた。


 彼が望むものをわたしは悟った。


 **********


 鏡の前に立って身なりを整える。洗面台に身を乗り出して己の顔――眼を凝視する。左眼は色が濃く、真っ黒だが右眼はそれに比べてやや薄い。光の加減で左右の色に違いがあるわけではない。本来の持ち主が違うためだ。この右眼は先日、あの人から譲り受けたものだ。虚ろになったあの人の眼窩には私の右眼が収まっている。


 微妙な眼の色の違いは余程じっくり観察しない限り解らない程度のもので、他人には明らかにならない差異が私に秘密を有する背徳的な高揚感と優越感とを抱かせた。


 入れ替えた眼は視力に何の影響もなかったが、左眼を閉じた時に自分が今見ている光景とは全く違う映像が映し出された。これは全くの偶然から発見された不可解な現象であった。一体これは何であろうと暫し考えていたが、やがて理解した。右眼だけに映るそれは、あの人が今見ている光景なのだ。覗き眼鏡を見るような不思議さがあった。そして時々、自分の意志とは無関係に右眼から涙が出ることがあった。あの人が泣いている――直感的にそう思った。理由が解らない故に心苦しく、どうにかして慰めてあげたいと思った。直接逢って言葉をかけられない代わりに、オルゴールの匣に仕舞ってあるあの人の薬指をそっと慰撫した。そうしながら只、零れる雫が喜びの涙であることを願うばかりだった。


 私は煩わしい家人を遠ざけて自室に籠もると椅子に深く沈み込み、左眼を眼帯で覆った。長時間、右眼だけ開けておくには眼帯を使用するのが一番具合が良かった。


 見えてくる光景は一面の碧だった。碧は陽光に煌きながらうねり、慄いて、逆巻き、打ち寄せて、白く砕け散った。音は聞こえないが耳の奥で濤声が鳴るように錯覚した。


 あの人は今、何処かの海にいるらしい。天候が良さそうなのに海が荒れているのは強風のせいだろうか。明るい海の色を見ると北の方ではなくて、南の方なのだろうと漠然と思った。旅行に出かけているのか、仕事でこの地を訪れているのか。あの人は何も云ってはいなかったから判然としないが、あの人が私のためにこの海を眺めているように感じられた。


 私は海景が映し出されている間、自室にいることを忘れ、見入った。碧は尽きることなく打ち寄せては砕け、遠のき、また打ち寄せ、激しく脈動していた。巨大な生命が無声のままに絶叫していた。


 どのくらいの時間が経ったのか、突然視界が動いた。眩しい天を刹那、映したかと思うと次の瞬間には見知らぬ人物の顔が見えた。これと云って特徴のない平凡な顔立ちだった。あの人とどういう間柄なのか窺い知れないが、右眼の視野に広がる没個性的な容貌は随分と親しみを込めた笑顔を浮かべていた。


 私は眼帯を取り払った。左眼の視力が正常になると椅子から立ち上がって窓辺に寄り、レースの窓掛(カーテン)を捲って生垣として植えられている椿を見遣った。


 薄曇の下に佇立する椿は濃緑の葉を鈍く光らせながら色鮮やかに咲く花をつけていた。赤すぎる椿は開いた花弁の奥から血を零すように思われた。私とあの人とが流した血が混じり合って純白の敷布を汚したように。生々しく開いた傷口が咲いている――花に顔を埋(うず)めれば血の匂いが香りそうだった。


 血は迸る命の色だ。


 躰を巡る血の温かさは生の体温だ。


 赤は美しい。


 美しい、あの人に相応しい色彩。


 この花をあの人に見せたいと思った。私に真っ青な海を見せてくれた、あの人に。


 私は美しいものだけを見て生きたい――只、あの人のために。

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