喪いゆく躰
椿蓮子
第1話 薬指
一、薬指
彼の細く形の佳(よ)い左手の薬指の根元は赫(あか)い糸できつく縛められていた。出血を抑えるためである。先程まで氷で冷やしていたこともあって縛られた指は鬱血して変色し、その指だけ何か別の生き物のようだった。
わたしは彼の向かいに坐して卓の上に置かれた相手の左手を凝視する。これから行われる行為に室内は張り詰めて、思わず固唾を呑んだ。しかし当の本人は何とも思っていないふうで普段と変わらぬ、落ち着いた様子だった。それどころか恍惚とした法悦の光を両の眸(め)に宿らせているように見受けられた。
「此方へ」
促されて立ち上がると彼の背後へと回り、無造作に投げ出された右手の傍らに転がる小刀を手に取った。そっと鞘から抜けば白刃が電燈の下に鋭く光閃いた。慄く手に小刀を握り締め、身を屈めて彼を後ろから抱きすくめるように腕を伸ばすと、卓の上で静かにその時を待っている左手の薬指へ刃を宛がった。と、彼がわたしを振り仰ぐ。間近で眸(ひとみ)が合うと「怖いかい」ふっと彼は美貌を綻ばせた。微塵の恐怖も感じていないらしい。わたしは素直に頷く。まだこれからだというのに、心臓が莫迦みたいに鳴っていた。
「だって、痛いでしょう」
「充分、冷やしたから大丈夫だろう。それに。痛いから、良いのさ。ずっと憶えていられるからね」
彼はそう云ってわたしの腕を掴むと僅かに引き寄せて唇を重ねた。不意の口付けは強張った躰を解きほぐし、緊張する心を優しく宥めた。乱れていた胸がすう、と凪いでゆく。
唇が離れると彼は莞爾(かんじ)して手元に視線を落とした。わたしも倣って見遣る。
今からこの美しい手を傷付けるのだ。
指を、切り落として。
先に薬指を強請ったのは彼の方だった。
――薬指は一番、心臓に近い指だからね。
そう告げた時の彼の微笑を、わたしは忘れないだろう。恰も眸を開けたまま夢を見ているような、陶然とした面持ちはベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』の如く美しく、酷く官能的であった。
彼は痛いから良いと云った。それは聖人や殉教者が体験した神秘的な、神と云われるものとの、この上なく甘美な交歓と等しいのだ。指の切断は神の御前で宣誓する、神聖な儀式なのだ。
わたしの右手に彼自身のそれも重なり、温かく包まれる。馴染んだ体温が切なく皮膚(はだ)へ伝わって静まっていたはずの鼓動が俄かに強まった。
「さあ、やってくれ給え」
ぐっと上から圧力が加わって、鋭利な光を反射した白刃が彼の薬指の根元へとめり込んでゆく。後ろから切りかかっているために彼の表情は窺い知れない。痛みを堪えるような呻吟さえ聞かれない。呼吸の乱れもない。寧ろわたしの方が激しい痛みを感じているように顔を歪め、息を詰めながら下唇を噛み締めていた。
やがて血が細く流れ出し、卓上に赫い小さな水溜りを作る。完全な止血は難しいらしい。
ぶちぶちと神経や腱を断つ手ごたえの後に硬いものにぶつかる。骨だ。刃が進まなくなって一旦、彼の手によって小刀が引き抜かれた。その瞬間、僅かに彼が呻いた。生々しく開いた傷口からじんわりと血が溢れ出し、脂肪、筋、微かに覗いていた骨が血汐に没していく。白雪に赤椿が落ちた如く、白刃から一滴(ひとしずく)血が垂れて彼の左手の甲を汚した。わたしは怯んだ。だが、此処まできたらもう引き返すこともできない。最後までやり遂げるしかない。
「……大丈夫だ。続きを」
彼は深く息を吐くとわたしを振り仰いで微笑んでみせる。白く秀でた額には薄く汗が滲み、暗夜を湛えた眸は潤んで妖しく輝いていた。それらは苦痛というよりは閨で見せる悦楽に染まった表情と酷似していた。艶めかしい貌(かんばせ)にわたしは無性に彼が欲しくなってしまった。
わたしは彼の手から小刀を取ると血に濡れた指目掛けて一思いに振り下ろした。
**********
切断された薬指を掌の上に乗せて眺める。少し筋張ったような長い指先の、爪の形が綺麗な薬指である。爪の色は喪われず、桜色に染まったまま、艶かしい光を弾いていた。桜貝を磨いて嵌め込んだ芸術作品と云われても全く遜色のない、美しい爪であり、指だった。
私は何時もひとりで使っている寝室で就寝前にあの人の薬指をオルゴールの匣から取り出して気が済むまで弄んだ。家人にも、誰にも明かすことのできぬ秘密の愉しみであった。
私の左手の薬指も欠損して、今はあの人の下にある。あの人が最後、私の指を切断したのだ。躰を貫いた激痛はえも云われぬ程、甘美なものだった。初めて肉体を番(つが)った時の痛みに似て。恐らくあの人も私と同じようにして薬指と暮らしているに違いない。
愛玩動物を可愛がるように薬指を指先で撫でたり、舌尖で突いたり、口に含んだりして、共にした閨の、交わした情を辿ってあの人と逢えぬ日々を、孤独な時間を慰めた。
私は寝台に横になった。目を閉じて、紅を差すようにあの人の薬指で己の唇をなぞれば、口付けを思い出す。舞い落ちる花弁を唇で受け止めたかのような、軽やかな接吻は敬虔なものを含んでいた。合わせる唇は何時も瑞々しく、ふっくらとして可憐であった。
薬指は私の皮膚(はだ)を這う。唇から顎先、首筋、胸元へとゆっくりと下りてゆく。寝間着代わりの浴衣の前をはだけて心臓の上に薬指を宛がえば直接脈打つ臓器を握られる心持がした。このまま体内へ、心臓の中に埋まっていきはしないかと夢想して血が官能に滾った。
途端にあるはずがない薬指が痛み出す。ドクドクと行き場を失った血が途切れた末端から噴き出す錯覚はやがてあの人と私を結びつける赫い糸へ、静脈へ、臍の緒へとなり変わる。
この痛みの共有、共鳴があの人の存在を私の傍らに齎した。
あの人と繋がっている――私は已まない痛みを愛した。痛みが強ければ強い程、情愛も深まった。
あの人を愛する限り、またあの人が私を愛する限り、肉体の欠損は増えていくだろう。
躰を喪いながら、私達は充たされてゆく。
全ての形をなくすことができたなら、それは永遠だ。
私は今夜も瞼の裏にあの人の優しい白い面差しを映して眠りにつく。
あの人の欠片を、握り締めて。
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