大人しく抱かれてください


 その日、ちずるはいつも通り、贔屓にしている見習い商人兼友人の穂高を自室に招き入れたはずだった。


 それが何故、二人で寝台に入る羽目になるのか。


「いや、待って、まッ……」

「いやではありません。贄になぞなりたくないと言ったのは貴女でしょうが」

「それはそうなのだけど……!」


 ジタバタと暴れるちずるに伸し掛かり、穂高が呆れたように言う。片手でシャツの喉を緩めながら、するりと頬を撫でる指は骨張っていて、ドキリと心臓が跳ねた。動揺しきりのちずると違って、暴挙をやらかした穂高は至極冷静で、流されまいと必死で言葉を探す。


「で、でもおかしくはない? 嘘か本当かもわからない言い伝えの犠牲になるのはいやだとは言ったけれど、その返事が『では、契りましょうか』というのはさすがに脈絡がないのではなくて?」


 ちずるの故郷は、大都市から遠く離れた辺境の片田舎だ。余所者が訪れることも滅多にない閉鎖的な村で、村長たる父や部下達が全てを取り仕切っている。


 娘のちずるは父の庇護の下、屋敷からほとんど出ることなく適齢期まで過ごしてきた。礼儀作法や勉学は家庭教師に教わり、花嫁修行をしながら父の決めた相手に嫁ぐのだろうとぼんやり思っていたところに、突然、父から村の森深くにある泉のあやかしに捧げる贄になるよう伝えられたのである。


 泉に棲む悪いあやかしは人喰いで、普段は寝ているが百年に一度起きだして村を襲うのだ、という言い伝えはちずるも乳母から聞かされて知っていた。それを防ぐためには、あやかしの好物である若い娘を先に差し出さねばならない。


 村人を救う健気な娘として名を挙げられたのはちずるだった。同年代の若い女は他にもいたが、父が自ら娘を指名したのだという。村を守る長の責務だと言って。


 嗚呼、正妻や母の違う兄弟を溺愛する父に、妾の娘がいることをもっと怪しむべきだったのだと乾いた笑いも出なかった。


 連鎖するように生まれた理由を知ったときのことを思い出して、ちずるはため息を洩らす。何も気づかなかった愚かさが恨めしいと思いながら目を伏せると、ぐ、と腹の上に体重をかけられた。


「念のため尋ねますが」


 穂高の声に、過去に囚われていた心がいまへ引き戻される。


「贄はどのような人間ですか?」


 ちずるは眉根を寄せた。それはいま、あえて尋ねることだろうか。


「若い女でしょう?」

「嫁入り前の純潔の娘です」


 穂高がしれっと答える。


 じゅんけつ。


 一度では言葉を呑み込めなくて、ちずるはぽかんとした後に、とっさに寝台の上で身をよじった。当然逃れられるはずもなく不自然に身動ぎしただけに終わったが、頬が燃えるように熱い。対して穂高は顔色を変えず、ちずるを見下ろしている。心なしか頭が痛そうにしていた。


「契りましょうと言われるより、こうして組み敷かれるより恥ずかしいことですか」

「だ、だって……」


 子供じみた言葉が口をつく。穂高を真っ直ぐ見ることができずに、おろおろと視線が辺りを彷徨った。


「どういうつもりなのか、よくわからなかったのだもの。理由がわかれば、実感も湧いて……」


 突拍子もないと、タチの悪い冗談かと思った発言は、ちずるの望みを叶えようとした根拠あるものだった。感覚が違うのは当たり前だろう。


 穂高はしばらく固まっていたが、当初の目的を思い出したらしい。理解したなら結構と意識を切り替え、ゆっくりとちずるの体を服の上から撫で上げた。


「というわけなので、同意いただけますか」


 腰に触れる温もりにぞくりとする。穂高の目の奥に知らない熱が灯り、皮膚の下を透視されているような錯覚に囚われる。落ち着かなくて、袖を握る手に力がこもった。


 このまま身を任せれば、ちずるは贄になる資格を失う。


 助かるのだろうか。生まれる前に持たされた運命から、鳥籠のようなこの家から、用意しておいてよかったと安堵した父の目から、逃げられるのだろうか。


「……駄目よ」


 穂高の胸を押して起き上がる。存外すんなりと場を明け渡した穂高に、泣きそうな気持ちで微笑んだ。


 いま、穂高に身を委ねれば、あやかしに喰われる未来は消える。冷たい泉の中に沈められずにいられる。動揺を押し殺す娘の前を素通りした父に一矢報いられる。


 魅力的なお誘いだ。


「そんなことをしたら、お前が責められるわ」


 贄になるために生かされていたちずるは、贄の資格を失えば何者でもない。


 指名した娘が役目から逃げ出して、顔に泥を塗られた父はちずるを、穂高を許すだろうか。村人は許すだろうか。代わりに差し出される娘は、その家族は、果たして誰になるだろうか。


 次の贄が決まるまで、あやかしは待ってくれるだろうか。


 この村は幾度となく贄を差し出してきたが、一度だけ、嫌がった娘が森に入るふりをして逃げたことがあるのだという。誰も気づかぬまま三日が過ぎ、身を犠牲にした娘を祀る行事が催された四日目の夜、異形のあやかしが村を襲撃した。村人、特に女子供はことごとく喰い散らかされ、屋敷は壊れ、畑は踏み荒らされ、あちこちが赤く染まって、無事なものは何一つなかった。


 口伝しか残っていない大昔の話だ。父から贄という言葉を聞くまで、ちずるはあやかしを信じていなかったし、いまも本気にしているとは言い難い。けれど、大の大人が雁首を揃えて議論して、人間を差し出すのだ。ちずるが知らないだけで、何らかの証拠がないとも限らない。


 言われなければ考えなかったけれど、役目を与えられて、いるはずがないと一笑に付せられるほどちずるは外の世界を知らない。ちずるの代わりを考えないほど浅慮ではない。明日を無事に生きる保証もなく、いま生きたいと願うほど強くない。


「責められる、ねえ」


 穂高はつまらなそうに呟いた。


「折檻か処刑の間違いかと」


 過激な言葉に納得する。やはり、定期的に屋敷に出入りする商人の、息子でしかない穂高の立場でもそう思うらしい。父はあれほど愛している家族にさえ厳しくて、気に入らない、意に沿わない者に容赦がない。


「そう思うなら離れなさい。 お前がこれ以上、負担する必要はないの」


 穂高の父は、商談相手の機嫌にとても気を遣っている。 非嫡出子として扱いの異なるちずるには近寄らず、父や正妻、直系の子の嗜好に合わせることで、上手く取り入り贔屓の商人の座を獲得していた。しかし無視するのも外聞が良くないから、同い年で見習いの息子をちずるのところに向かわせている。


 箱入りのちずるに気安く話せる友人ができた事情だが、それは穂高にあまり好ましい影響がないものでもあった。


 穂高が露骨に顔をしかめた。


「貴女が村のためと入水自殺するのと、何か違います?」

「言い換えないでちょうだい。気が滅入るから」


 ちずるは憂鬱になって穂高に頼むが、彼は不貞腐れたような仏頂面のままだ。お互いの主張をぶつけるように見つめあい、やがて穂高の方が先に目をそらす。


 視線を落とした先のちずるの手を取り、手持ち無沙汰に弄んだ。


「諦めませんか」


 不意に、ぽいと手を宙に放り出される。驚く間もなくずいと距離を詰められ、視界いっぱいに穂高の顔が広がった。


 懇願するような切実な瞳に、吸い込まれる。


「こっちは譲歩したつもりですよ。貴女が費をどう捉えているか知りませんが、一度も外に出さず屋敷で飼い殺しにした家に、何の恩があるんです? 柵に綻びを見つければ家畜だって逃げ出しますよ、お嬢様」


「かちく」


「そもそもね、あやかしが本物だとして、ずっとここに住み続ける意味がないでしょう? 討伐する努力もせずに何人もの女を犠牲にして、慰霊祭だって食って飲んでのどんちゃん騒ぎです。愛する女やその間に生まれた子が可愛いから、別の女を攫って子供を産ませて、挙句取り上げて軟禁して。そんな男を長にする村なら鹿の群れの方が余程優秀で倫理的ですよ。比べようなんぞ烏滸がましいくらいです」


「しかのむれ」


 穂高が、ものすごい。


 意外と口が悪いのは知っていたつもりだったが、もしかして遠慮していたのだろうか。本題とは別のところで目を白黒させるちずるに向けてかどうか、忌々しげな舌打ちが聞こえた。


「先に蔑ろにしたのは向こうです。見限って捨てたってちずるのせいではありませんし、村人連中に罵られようが殴られようがあやかしに喰われようが自業自得ですから。最後まで好き勝手に殺されたいですか?」

「殺されたいとは思っていないけれど」


 父とちずるが違うように、村人もまたみな違う。一括りにしてしまうことに抵抗があった。ちずるは村人と面識がないから、贄にちずるが選ばれたことも知らない人もいるだろう。


 死にたくないけれど、死なせたくない。何より、この期に及んでも強行するのではなく説得を続ける穂高には、どうか遠く離れたところで平穏に暮らしてほしいと願う。


「私は、穂高がいれば幸せなの」


 ちずるの意志を聞いてくれた、ただひとりの友人。


 このまま流されてしまえば、ちずるだけでよかったものに穂高も巻き込まれるかもしれない。


「お願いだから、首を突っ込まないで。いつも通り、お望みの品物を用意すると言ってよ」


 耳を塞ぎたいような気持ちで頼み込む。けれど穂高は言葉を躊躇わなかった。


「だから、契りましょうと言っている」

「そんなもの、いらないわ。貴方が商売で成功して、気立の良いお嫁さんでももらって幸せに暮らせば」

「貴女の望みが、俺の幸せだと言うなら」


 穂高が声を荒げる。


「貴女が死んだ後に用意したって仕方ないでしょう!」

「天国に届けてくれればいいわ」


 ああそう、と穂高は不機嫌に怒りを露わにした。


「あやかしなんて幻を信じるお嬢様らしい理屈だな」


 その言い草に、ムッとして言い返す。


「貴方が私をお嬢様と呼ぶときは、私を馬鹿にしているときだって、私もわかるわよ」

「いい加減にしてください」


 穂高が無理やり、怒りを抑え込んだような顔でちずるを睨む。売り言葉に買い言葉の口喧嘩が強制的に中断され、ちずるは大きく息を吐いて気持ちを宥めた。


「いい加減にするのは貴方の方よ」


 全然落ち着けていなかった。


「貴方の提案は、あやかしの費を私から誰かに押し付けた末に、私も貴方も助かる見込みのない最悪のものよ。やる意味がないと理解なさい」


  反省した分、理路整然とした主張ができただろう。これで大人しくなるに違いないと満足して穂高を見上げれば、彼は何もかも鬱陶しいとばかりに顔にかかった前髪をかき上げた。


「だからなぜ、この村に生まれただけの貴女が命を捨てなければならないのかと聞いている。あやかしの好物が若い女だとか、村長としての責務だとか、贄にするために産んだとかそんなことはどうでもいい」


 叩きつけるような口調で、穂高はどこへともつかない憎悪を吐き捨てる。


「全員の危機をたったひとりに押し付けて、それで解決した気になるような村はさっさとあやかしに喰われて滅んでしまえ」


「穂高、」


 見たことのない友人の態度に、驚いて名を呼ぶ前に、苛烈な光を宿す穂高の目がちずるへ向いた。


「貴女が、自分が無意味に死ぬだけだとしても、代わりの誰かを死なせたくないとか、村人を見捨てられないとか、人殺しになりたくないとか、どうしても良心が痛むとでも言うのなら、俺が地獄でも何処でも行きますよ」


 貴女がいないと、とてもじゃないけどお望みの品は用意できそうもないんで。


 先程の勢いを嘘のように失った、その囁きに呼吸を忘れる。


「ねえ、ちずる」


 もう一度聞きますと、穂高はゆっくりとちずると目を合わせた。




 貴女の望みは、と。



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短編集 橘花かがみ @TachibanaKagami

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