短編集

橘花かがみ

私の小さな主さま

 光が届かず、風も感じられない。そこは、時間が止まったかのような閉鎖的な空間だった。


 華やかな薔薇や清廉な百合、多様な花々が咲き乱れて花瓶に生けられ、目にも鮮やかな布地から丹精に仕立てられた衣服までが部屋いっぱいに掛けられている。閉め切られたそこは薄暗いものの、贅を凝らした絢爛さはこれ以上ないほどだった。


「……?」


 たった今意識を取り戻したばかりのとう彩糸さいしは、状況が把握できずにきょろと視線を動かす。体は何故か動かず、自由になるのは目玉だけ。彩糸は二度ほど部屋を見渡した後、豪奢な部屋に似つかわしくない存在に気づいた。


 顔を上げて、斜め上を振り仰いだ辺り。整った美貌の男が、頬杖を突き彩糸を見下ろしている。目が合ったと思った瞬間に、男は緩やかに浅い笑みを浮かべた。


「――よォ」


 その凄絶さに、圧倒的な凄みに、背中に串を突き刺され竈の火であぶられている魚のような気分にさせられる。


 その男に、彩糸は覚えがあった。記憶より随分と大人になっているが、少なくとも血縁だろうと思うくらいは似ている。烏の羽根のような黒髪、光の加減で青くも見える瞳、こめかみに残る傷跡。ずっと通った鼻筋に、薄い唇が少し歪む様子は酷薄に映った。


「俺はかく紫成しじょう金華きんか国四十一代皇帝の血を引く、はく蒼連そうれん皇子殿下の剣。ああ、お前にはりゅう紫成と言った方が通りがいいか?」


 尋ねる前に名乗った男は、彩糸の返事を待つことなく話を続ける。


「生家の柳家の隅に捨て置かれ、何もかもに飢えていた、哀れな子どもだ。だが、恐れ多くも皇子殿下に拾われる前、学のない獣だった俺に、あれこれ世話を焼いた女が一人だけいてな。なあ? 董彩糸」


 男は指先一つ動かしていないのに、彩糸は絡め取られたように動けなくなってしまった。たらりと背筋を冷や汗が流れた気がする。切れ長の目の奥には、誤魔化しようのない彩糸への憤怒と殺意が結晶して輝いていた。


「忘れたとは言わせねェぞ。よくもまァ、俺をここまで虚仮にできたもんだ」


 処刑台に立たされている。


 とっくに死んだ身だが、今にも射殺されそうな鋭利な目つきに、彩糸は真っ青になって震え上がった。



   ◇◇◇



 彩糸が生まれた董家は、父は民部省の下っ端官吏、母は後宮の掃除婦という、王都の隅に家を借りて細々と生活しているような、いわゆる一般庶民だった。


 周りと少し違うのは、裕福でもないのに何と子どもが七人兄弟で、常に貧乏だったことだろうか。おかげさまでにぎやかさと引き換えに家はいつも余裕がなく、長兄は早々に父の伝手で民部省に就職し、二番目の彩糸も十二で奉公に出ることになった。母の同僚の夫の叔父の娘の友人の紹介で、国内有数の名家柳家の下女として雇ってもらい、四苦八苦しながら何とか働き出したのだ。


 柳家の本邸は、彩糸が暮らす家の何倍かというほどの大きなお屋敷で、釦一つで父の年収に匹敵すると知ったときはひっくり返りそうになった。何とか失くさなかったが。おっちょこちょいな下の妹が来なくてよかったと心から思った。


 仲の良い同僚もでき、それなりに楽しく過ごして一年ほどが過ぎた頃。上司の信用を得られたのか屋敷の中で出入りできる範囲が広がり、彩糸は敷地の隅にある小さな離れに気づいた。彩糸が働く洗濯場がちょうど反対側だったので見る機会がなかったのだ。話題にも上がらなかったし。


 厳めしい旦那様や後継の若様、たおやかな奥様、美姫と評判のお嬢様たちが過ごしている華やかな本館とは違い、古びていて寂しい感じのする離れだった。正門から入ると本館の裏にあり、一見してわからない場所にあるのも気になる。彩糸は興味本位で離れについて先輩に尋ねた。


 仕事には厳しいがお茶目で面倒見の良い彼女は、彩糸の質問にスッと真顔になると、好奇心を注意するように険しい口調でこう言った。


「あそこは、紫成さまがお過ごしになっている離れよ。紫成さまは旦那様方と関係が良くないから、近づくのは絶対におやめなさい。この屋敷で平穏に暮らしていたいなら、必ず守ること。あなたの家族にも塁が及びかねないわ」


 彼女の剣幕に彩糸は神妙な顔で頷いた後、次に噂話が好きな先輩のところへ聞きに行った。


「紫成さま? ああ、大旦那様の忘れ形見よ。あるときどこからか突然連れてきて、跡継ぎだと言って本邸に部屋をお与えになったんですって。大旦那様が亡くなって、旦那様が家を継がれた後に離れに追いやられてしまったって聞いてるわ」


 おしゃべりな先輩はからっとした調子で主家の裏事情を暴露すると、「そんなことより」と同僚の恋模様ではしゃぎ始めた。彩糸は彼女の話を右から左へ聞き流しながら、離れの紫成さまについて考え込む。


 彩糸が屋敷に来る前に亡くなったという大旦那様の子どもなら、旦那様と同じくらいなのだろう。大人の殿方が、あの寂れた離れで従順に生活していると思うと不思議だった。長兄は温厚だが一度言い出したことは絶対に曲げないし、弟たちは言わずもがな自分勝手で騒がしい。兄弟なら一人離れに押し込められることを良しとしないはずだ。


 どんな人なのだろうかと思っても、下働きに過ぎない彩糸が勝手に離れに行くわけにはいかない。面倒見の良い先輩の忠告を無視するほど、彩糸は無鉄砲ではなかった。


 の、だけれど。


 紫成さまの話を聞いた数日後の朝礼、洗濯場を取り仕切る年嵩の使用人が、部屋に揃った彩糸たちを見回して不意に告げたのだ。


「二月後、高貴なるお方のご来訪が決まったそうです。奥様のご発案で模様替えをすることになりましたので、今後の仕事は今まで以上に気合を入れるように」


 柳家で客人のもてなしをするのは初めてではない。奥様がいつも綺麗に保たれている屋敷を模様替えすると言い、厳格な上司が真面目な者が揃う洗濯場で改めてそんなことを言うのは、今度のお客様が皇族だからではないかともっぱらの噂だった。皇族は、名だたる柳家と言えどめったに招けない貴人であり、僅かな不手際も許されない雲の上の存在である。名前が伏せられているのも、暗殺や拉致などの危険に配慮した結果だろう。


「それに伴い、離れの改装も決定いたしました。離れの人員では手が足りませんから、誰か手伝いに行ってくれる者はいるかしら」

「はい!」


 即答だった。上司の言葉尻を食うような勢いで挙手した彩糸は、あっさりと手伝いの許諾を得て、離れに出入りする権限を手に入れたのだ。


 実際のところ、手伝いとはいえ新入りの彩糸が派遣されることになったのは、離れは本館で大きな失態を犯した者の左遷先だからというのが大きかったらしい。彩糸のような下っ端なら給料は大して変わらないが、昇進の見込みはなく、転職するのに必要な紹介状は書いてもらえない可能性が高い、待遇の悪い職場なんだそうだ。一時期手伝うだけならいいけれど、もしそのまま離れに異動させられたら将来が潰えるので、皆やりたがらなかったのである。


 同僚に憐れむような視線を向けられたりもしたが、彩糸は結構楽観的な人物だった。離れの紫成さまを一目見たかったのだから仕方ない、とあっさり自分を納得させる。


 そして翌日、早速離れに向かい、横柄な酔っ払い下男に連れられて、挨拶のために離れの主人である紫成さまにお目通りしたのだ。




「彩糸」


 ぼんやりと何も考えていなかった能天気な自分を回想していたら、妙に甘ったるい声で名前を呼ばれた。紫成は嗜虐的な笑みを浮かべ、僅かに首を左に傾ける。


「返事は?」

「……状況がわかりません」

「だろうな」


 紫成がしれっと頷く。彩糸はムッとした。紫成さまは警戒心が強くてなかなか彩糸の言葉を信じてくれなかったが、こういう意地の悪い考え方はしていなかった。


 彩糸の戸惑いがわかるなら、教えてくれればいいのに。見知らぬ場所で、体も動かず、拠り所は昔の知り合いの面影を残す、自分に怒っている男一人。羅列すると本当に、彩糸はひどい状況にいると思う。


 紫成はやけにさらりとした口調で呟いた。


「十八年」

「……はい?」


「お前。董彩糸が死んでから、十八年経った。俺は今二十三だ。十四の頃に主殿下に見出されて、諸々あって今は殿下にいただいた郭の名を名乗ってる。殿下の命で花翠かすいと一緒に国の暗部をあちこち潜ってたら、怪しい方士連中の間で、蘇魂法そこんほうなる妙なまじないが流行ってるってのを知ってなァ」


「ちょ、ちょっと待ってください」


 滔々としゃべる紫成を止める声が上ずった。


 突っ込みどころが多すぎる。彩糸が死んで十八年? 紫成が王族に仕えているのはさっき聞いた気がするが、今妙な名前が混ざらなかっただろうか。


「花翠って、まさかと思いますが董花翠ですか? 民部省に勤めている、城下の第四地区出身の、物腰穏やかでよく女性に間違えられる私の兄上?」


 紫成が僅かに眉根を寄せる。


「情報が古すぎて覚えてねェが、女に間違われる彩糸の兄貴ってとこはそうだな」

「なんで兄上が紫成さまと一緒に皇子様に仕えてるんですか⁉︎ 庶民ですよ、あの人!」

「血筋に興味ねェ方なんだよ、蒼連皇子は」


 じゃなかったら、俺だっておそばにいられない。


 かすかな溜息と共に明後日の方向を向いた紫成に、彩糸は二の句が継げなくなった。紫成の出生を、彩糸は知っていたから。



 柳家の離れで初めて出会った日、紫成は五つだった。末の弟と変わらない年だ。大人だと思っていた彩糸は度肝を抜かれたし、彼を後継にするという大旦那様の言葉がありながら、無視されて冷遇されている状況を何となく理解した。子どもで、何もできないからだ。特に敵対する大人に悪意があればひとたまりもないだろう。自分の扱いを不当だと認識しているかどうかも怪しい。


 まあ、そんなことよりも、大旦那様の忘れ形見がたったの五歳ということに、彩糸はゾワッとしたわけだが。流石に同年代の奥方との子ではあるまい。大旦那様は何歳のときに、何歳年下の女に手を出したんだろう。顔が引きつってしどろもどろな彩糸の挨拶に、紫成は不機嫌そうに顔を背けて、一言もしゃべらずどこかに行ってしまった。


 大旦那様の名誉のために付け加えておくと、大旦那様は独身時代に契りを交わした身分違いの恋人がいて、紫成は別れた後に彼女がひっそり産んだ息子の子どもだった。要は孫だ。あれを知ったときは体中から力が抜けた。


 大旦那様の昔の恋人は、ちょうど彩糸のように奉公に出ていた庶民の娘で、当時の当主夫人に跡取りである大旦那様との仲を咎められ、身一つで叩き出されたらしい。それからは柳家とは一切関わらずに市井で過ごし、息子を立派に育て上げて再婚も果たしたそうだ。強い人である。


 息子は一般庶民として生活し、同じく庶民の女性と結婚した。子宝にも恵まれて穏やかに暮らしていたところに、何の音沙汰もなかった大旦那様がやってくる。


「大旦那様と旦那様は、反りが合わなかったのよ。考え方が違うというか、よく衝突していて……紫成さまを引き取ったのはそれが理由って言われてたわ。大旦那様は、跡継ぎに対する教育を間違った、一から育て直して当主の責任を果たすっておっしゃったそうよ」


 そんなことをこっそり教えてくれたのは、あのおしゃべりな先輩だ。迷惑な話ね、と彼女もこのときばかりは顔をしかめていた。


 つまり、紫成に流れる青い血は四分の一。血統で価値が決まる貴族社会では生きにくいことこの上ないのに、唯一後ろ盾になり得る柳家は敵なのだ。



「それは……よかったです。皇子様がそういう方で。紫成さまは、いらぬ苦労ばかり背負わされていましたから」

「別に出世なんか望んじゃいない」

「そうでしょうけど。あのお屋敷から逃れられたのは、その皇子様の力があったからではありませんか?」


 ふてくされたような顔をしていた紫成は、少し意外そうに彩糸を見つめた。


「……お前、たまに鋭いよな」

「余計なお世話です」


 鈍いとか、どんくさいとかは散々言われている。指摘されて治るわけでもないのに、これ以上聞きたくなかった。


「そんなことより、兄上です。なんで兄上が紫成さまと一緒に皇子様に仕えてるんですか? そもそも、紫成さまは兄上と面識はありませんよね?」

「いるだろ、目の前に共通点が」

「確かにおりますけども」


 住む世界が違う二人を結ぶ共通項は彩糸だ。それはわかる。


 けれど、彩糸は世間話として二人にお互いの話をしたくらいしか覚えがない。しかも、今日はこんなことがあったという近況報告に人物紹介が必要だっただけで、特段会わせたいとも思っていなかった。


 紫成が花翠との出会いを話し始める。


「彩糸が死んだ後、父親と一緒に遺体を引き取りに来た。罪人を早く持って帰れとか、家族として事態の責任を取れとかいろいろ言われてたな。そうしたら、気の弱そうな綺麗な顔した花翠が、不意に辺りを見回して。なんて言ったと思う?」


「何……?」


 自分が渦中にいると、そわそわ腰が落ち着かない。どこまでも謙虚で人に歯向かわない父はともかく、あの花翠なら間違いなくぶち切れる状況だ。


 想像がつかない。が、絶対怖い。


 怯え始める彩糸に、紫成は愉悦をにじませ、当時の言葉を声色から花翠そっくりに再現した。


「『我が家は兄弟が多く、大変にぎやか……ええ、喧嘩の絶えない家庭です。素直な妹も例に漏れず、少々やんちゃなところがありました。彼の高名な柳家なら、周りの方々を見習っておしとやかに育ってくれるかと、奉公に送り出したのですが……妹が柳家に仕えるという身に余るご光栄に、私の目が曇ってしまっていたようです。まさか、下の子たちと取っ組み合いして余りの団子を手に入れていた妹が、持ち主に断りもせず品を持ち出すようになってしまうとは……。大変、申し訳ありませんでした』」


「うひぃ!」


 妹の罪の原因を向こうの教育不足になすり付けた挙句、柳家全体を盗人呼ばわりして平民の子どもより酷いと侮辱してる! 金華国有数の大貴族を捕まえて!


 いや、場面は遺体の引き渡しなのだから、その言葉を直接聞いたのは貴族ではなく使用人かもしれない。不幸中の幸い、まだマシか。マシと言えるのか……?


 兄上ェ! と絶叫したい気分に陥った彩糸をよそに、紫成は素の声に戻って情報を付け足す。


「花翠はそう言って土下座した。あの光景は傑作だったな。本当に申し訳なさそうに言うから罵倒と理解するまで時間がかかるし、した頃には土下座だし。同席した使用人連中、みんな真っ赤になってたぜ」


 紫成がくっと喉の奥を震わせて笑った。


「柳の使用人と罪人の親族とはいえ、両方平民。土下座までした相手を手を出しちゃ、流石に心象が悪いからなァ。あそこに家の誰かがいたら不敬罪で処しただろうが」

「兄上は? 兄上は無事ですか⁉︎」

「俺と一緒に仲良く殿下の寵臣だって言ったろ」


 紫成があきれたように答える。彩糸は混乱のまま紫成に食ってかかった。


「それで無事とは限らないですよ。ほら、腕がないとか、目玉をくり抜かれたとか!」

「……お前、結構えげつないよな」


 この間肩こりが酷いって言ってたぜ、と紫成が教えてくれた。肩こりに悩む程度の健康状態だということだろう。呑気な話に、彩糸はほっと胸を撫で下ろした。


「その一件で、兄は紫成さまの目に留まったわけですね」

「今の関係までいったのはそうだが、何もなくても声をかけようとは思ってたぜ」


 その言葉に、彩糸はきょとんと紫成を見上げる。瞬間、紫成の目の奥に例の結晶を見つけて硬直した。


 怒ってる。めちゃめちゃ怒ってる。さっきまでは存在を忘れるほど落ち着いていたのに、もう再燃したらしい。メラメラ燃える怒りのかたまりが、今にも豪速球で飛んできそうだ。


「どこぞの誰かが、無計画に坊ちゃん庇って殺されやがったからな。罪人の親族として後ろ指さされる家族くらい何とかしておかねえと、俺がそいつを殺せないだろうが」


 紫成が理性的な口ぶりで呟く。


 彩糸は悟った。鈍ちんを自覚している彩糸でもわかった。紫成は本気で、冷静に、心から、そう言っている。無茶苦茶を言う彼は大真面目だ。


「なんで殺すんですかねえ! 紫成さま、物騒ですよ⁉︎ あと私もう死んでますし⁉︎ 無理じゃないかなあ!」


 命乞いにはいささか真剣みの足りない言葉で喚き立てながら、彩糸は何とか思い止まってもらおうとした。紫成に人殺しはさせられない。すでに死んでいる彩糸の命をどうしたら奪えるのかわからないが。


「……そうだ」


 そこまで考えて、彩糸ははっと我に返った。


「私、死んだんですよね? 死にましたよね? どうして紫成さまと話せているんでしょうか? まさか紫成さまも亡くなってて、ここが天界だからだとか……」

「死んでねえよ」


 紫成は嫌そうな顔で「何度目だ」とぼやくと、おもむろに体を起こして反対の手でまた頬杖を突いた。そういえば彩糸が仕事をしている様子を、横でこうやって頬杖を突いて眺めていたなとふと思い出す。ただ布類を洗っているだけのつまらない光景を、彼は飽きもせず見つめていた。


「だから、蘇魂法だ。死んだ人間の霊魂を、供物を積み上げてこっちに呼び戻す術。あまりにも胡散臭くて半信半疑だったが、いろいろ試したら成功したんだよな」


 まるで苦手な料理に挑戦しただけかのように、紫成が軽やかな口調で世迷言を吐くものだから。彩糸も惑わされて何となくそれを呑み込んでしまった。


「……私、天界から引きずり戻されたんですか?」


 いわゆる幽霊みたいな存在になったのだろうか。だから体が自由にならないのか。これからどうなるのだろう、と困り果てていると、紫成は「さあ」と言った。


 さあ、と言った。


「…………なんですって?」


 もう一度言ってほしい。聞き間違いかもしれない。


 紫成はあっけらかんと答えた。


「適当に片っ端から試しただけだから、原理は知らねェよ。本当に魂が戻ってくるとも、それが彩糸だとも、話が通じるとも思ってなかったし。お前が何なのかはよくわかんね」

「わかっててくださいよ⁉︎」


 呼んだ責任は取って、こら!


「しゃべる行灯をどう判じろと?」

「……行灯?」


 ぽかん、と彩糸はほうけた。


 紫成は不本意そうな表情で片手を懐に突っ込み、手鏡を取り出した。綺麗な竜胆色のそれは、隅に立葵の紋章が彫り込まれただけの簡素な意匠だったが、値打ちの上物であることが彩糸にもわかる。紫成はくるりと姿を映す鏡の面をこちらへ向けた。


 そこに映っていたのは、間違いなく行灯だった。


 飾り気のない手提げ行灯だ。やや年季が入っているが丈夫そうで、四つの側面に貼られた紙の向こうから、暖かな橙色の玉のような光が淡く透けている。


 呆然とした。


「……紫成さま、これに話しかけていたんですか?」

「自分より俺のことが気になるか?」

「一回死んだからですかね……」


 自分は行灯になったのか、中の光がそうなのか、と疑問に思うことはあるが、形はそこまで気にならない。半透明だとか実体がない方が困りそうだ。生前の自分の姿でも、死んだときの格好では洒落にならないと思う。


「死ぬ前からだろ。お前は」


 鏡を懐に戻し、紫成が彩糸を睨んだ。


「いつも俺や、他人のことばかりだ。おかげでお前が生きてた頃、俺は彩糸の話をほとんど知らなかった。同僚のことは兄嫁が飼ってる馬の名前まで聞いたが」


 だから――死ぬんだ。


 ぼそりと囁かれた言葉に、部屋に沈黙が降りる。




 彩糸が離れへ通い始めてわかったのは、紫成がとても劣悪な環境に置かれているということだった。


 まず、使われている部屋が少ないとはいえ、離れの人員が三人しかいなかった。最初に彩糸を案内した酔っ払い下男は、遅刻や欠勤は日常茶飯事で、だいたいいつも酒を飲んでいて使い物にならなかった。側付きの侍女は旦那様に心酔していて紫成へ小さな嫌がらせを繰り返し、料理人は善良だが老齢で、体力的な限界がある。


 とても改装に手をつけられる状態ではなく、彩糸は雑用係と化して離れのあちこちを走り回る羽目になった。当初の紫成は、見慣れぬ彩糸を警戒して遠巻きにしていたが、あるとき突然権力を振りかざし、嫌がらせ侍女を解雇して彼女の役目を彩糸に引き継がせた。


 その後は結構、上手くやれていたと思う。彩糸、彩糸と後をついてくる小さな主は可愛かったし、痩せっぽちの頬が健康的にふくふくし始めて、少しずつ表情が明るくなっていく様は嬉しかった。通常業務と改装を少人数で並行する多忙な身の、唯一の癒しだった。


 ところが。来る高貴な客人の来訪に備え、そろそろ改装が終わるという頃、離れを追い出されたきりだった侍女がわざわざやってきて、紫成や彩糸を前に声高に叫んだのである。


 奥様がまだ令嬢だった頃に、皇女様から下賜された大切な翡翠の腕輪が、本館の宝物庫からなくなった。離れの紫成さまが奥様の名誉を傷つけるために盗んだに違いない、と。


 来訪の予定があった皇族は、どうやら奥様にその腕輪を与えたかつての皇女様で、彼女を出迎えるのに腕輪がなければ斬首もあり得る不敬らしい。


「腕輪がなくなったという数日前から、紫成さまはずっと離れの中で過ごしておいでです。それに、本館の出入り口は衛兵が昼夜問わず睨みを効かせていますでしょう。紫成さまがいらっしゃれば絶対に見つかります。盗めるはずがございません!」


 あらぬ疑惑に腹を立てた彩糸の弁明に、嫌がらせ侍女は鼻白み、今度は紫成の命で彩糸が盗んだと言い出した。


 彩糸は本来、本館の下働きだ。出入りを確認している衛兵は当然いたし、紫成が盗んだという話よりは信憑性がある。主家の人間に盗みの疑いをかけた嫌がらせ侍女も引くに引けなかったのだろう。旦那様に直接裁可をいただくとして、彩糸は一人旦那様の執務室へ引き立てられた。


 気色ばむ嫌がらせ侍女の話を冷静に聞いた旦那様は、衛兵に押さえつけられ床に跪いた彩糸に淡々と問うた。


「彩糸と言ったか。妻の腕輪が消えた日、お前がここに来ていたのは誠か?」


「……はい。私は、本館の洗濯場の下女です。近頃は離れで紫成さまのおそばに侍ることが多いですが、本来はこちらが仕事場になりますので、よく出入りいたします」


「妻の腕輪のことを知っていたか?」


「いえ。存じませんでした」


「そうか。紫成は、妻や私のことを何と言っていた?」


 床に視線を落としたまま、彩糸は一度瞬きした。一瞬、窃盗疑惑に無関係ではないかと思ったからだが、すぐに嫌がらせ侍女が奥様の評判を落とすためと言っていたのを思い出す。ここで間違えてはいけない。


「……いえ、何も。お仕えして日の浅い私にお気持ちを吐露されるほど、紫成さまは率直な方ではございません」


 旦那様が小馬鹿にするようにフッと鼻を鳴らした。


「私を恨みに思い、妻を、ひいては柳家を忠誠心のない反逆者と貶めようとしたのでは?」


「そんなことはございません!」


 彩糸が悲鳴のように声を上げると、旦那様は動じることなく単調に続けた。まるで予期していたかのように。


「では、腕輪の紛失に紫成は関係ないと?」


「無関係でございます」


 信じてくれたのか。彩糸は駄目押しのつもりで、紫成の無実を力強く主張する。ふむ、と考え込むような間の後、旦那様の声が少し優しくなった気がした。


「つまり、お前が私欲で腕輪を盗んだわけか」


「…………は?」


 意味がわからなくて、頭が回らなかった。とっさに顔を上げようとして、衛兵に頭を押さえつけられる。床に額をすりつけられて呻き声を上げた。


「妻も娘たちも宝飾品が好きだからな。あれだけあれば、一つや二つなくなっても気づかれないと思ったか? それで選んだのがあの翡翠の腕輪とは、お目が高いと言うべきかどうか……」


 うっすらとした忍び笑いに、背筋が冷たくなる。違いますと叫んだが、旦那様は聞く耳を持たなかった。


「お前は洗濯場の下女なのだろう? それなら金に困っているはずだ。そんな中で離れに行かされ、紫成に気に入られてしまったことで、困窮して箍が外れたのではないか。貧困が原因なら、余罪もあるかもしれぬ」


 まあ、しかし、それは見逃そう。


 衛兵が焦ったように彩糸を解放して離れていく。金属が擦れる独特な音が鼓膜にこびりつき、彩糸は呆然と顔を上げた。


「皇族から賜った腕輪を盗んだ時点で、死罪では足りぬ咎だからな」


 旦那様が何の感慨もない冷酷な目で彩糸を見下ろす。ちゃき、と剣の切っ先を向けられて、彩糸は凍りついた。無実を叫ぶことも、横暴を糾弾することも、理不尽を嘆くことも、逃げ出すこともできずに、彩糸は――


「その身を以て、贖え」


 あっさり、死んだのだ。




「……紫成さま」

「ん?」


 紫成がこちらに一瞥もくれず返事をする。


 彩糸はあのまま、旦那様の執務室で事切れた。父と兄が遺体を引き取りに来たというからそこまで酷い状態でなかったと信じたいが、馴染みの者が突然死んだことは、小さな主にどれだけの衝撃を与えたのだろう。


 あれから十八年過ぎたという今、なおあれだけ鮮烈な怒りを抱えている紫成を見れば、一目瞭然だった。


「すぐに戻ると申し上げたのに、こんなに時間がかかってしまって、申し訳ありません」


 紫成はそっぽを向いたまま即答する。


「遅い」

「はい。ごめんなさい」


 体があれば、土下座していたところだ。彩糸が神妙な声音で再び謝ると、紫成は彩糸の方に向き直り、片目を眇めた。


「お前が、何を考えていたのかは知らないが。窃盗騒ぎは彩糸が処刑された後、お前の部屋から腕輪が見つかったとかで終結した。お前の小さな主さまは無傷だ」

「そうでしたか」


 ほっとする。状況を理解できないまま剣で首を切られたが、せめて紫成に塁が及ばなかったのは幸いだ。家族には迷惑をかけてしまったようだけれど。


(兄上に、謝らなきゃなあ……)


 苦しい立場に立たされた家族を、厳しい目を向ける世間から守ってきたのは長兄の花翠だろう。過激派なのだ。ああ見えて他人を利用して成り上がることに何の躊躇もない人だから、自ら矢面に立ったに違いない。


「彩糸」

「はい?」


 改めて自分を呼ぶ声に、彩糸はのんびりと返事した。


「お前は何も悪くない」


 ピタリと思考が止まる。


「いろいろ言ったが、彩糸は悪くねえよ。ただ、それが俺の逆鱗を思い切り逆撫でしていっただけだ」

「……本当に悪くないと思ってますか?」


 責められている空気をひしひし感じるが。


「できる限り家族は支援した。庇われた義理は果たしたから、俺がお前をどう思おうと勝手だと思ってる」


 紫成は悪びれず真顔で言い切る。彩糸はちょっと気が遠くなった。紫成の怒りの根源が全然わからない。


「紫成さまは、私があなたさまの代わりに殺されたと思って怒っていらっしゃる?」


 思い切って突っ込んでみると、紫成は考えるような素振りでゆったりと顎を撫でた。


「……そうだなァ」


 紫成のまとう空気に、またもや火あぶりにされるかのようなじりじりとした威圧感を覚える。怖い。行灯でなかったら即謝って質問を撤回している。


「敵方の企みもわかってない侍女が、無計画に庇うほど俺が不出来だと思われてたことと、でっち上げの窃盗騒ぎを真実にして挙句汚名を引っ被ったこと、それで俺の身代わりになった気でいるところ、俺を庇った奴が殺される状況、俺が許してないのに勝手に死んだこと……全体的に、俺を舐めてたお前に対する怒りだな」


 紫成は理由を指折り数え、綺麗に微笑んだ。その微笑は作り物じみていて、結構迫力がある。


(えええー……)


 彩糸はこっそり溜息をついた。無茶苦茶だ。彩糸の行動が結果紫成を傷つけたことは間違いないけれど、後先考えず感情的に動いた彩糸の迂闊さも認めるけれど、紫成は当時五つで、彩糸の主だ。何の罪もない紫成に味方しようとしただけで、舐めてなどいない。しかも連行されたその足で、意味不明な理論を展開され即座に殺されるとは誰も予想できないと思う。理不尽。


 でも、今の彩糸は年代物の古びた行灯であり、表情や身振り手振りは存在しない。話さない彩糸の本音は届かないようで、紫成はえげつない怒気をまとったままだ。


 その姿に、彩糸は奇妙な懐かしさを覚える。昔もあったのだ。彩糸が埃を被った調度品を片付けているとき、幼い紫成が手伝おうとするのを断ったら、凄く怒ってしまってしばらくご機嫌取りに手を取られた。あのときの紫成の言い分も、「できることとできないことの区別もつかないような馬鹿じゃない」だった。一切の手伝いを拒まれたから、舐められていると思ったのだろう。昔から、人一倍誇り高い人だった。


「彩糸。感想は?」

「紫成さま、全く変わられていませんね」

「変わってたら、十八年も一人の女を追いかけるか」

「確かに」


 他人事のような紫成の言葉に同意する。一つのものに費やした歳月は、それに対する執着の簡潔な物差しだ。自分を蔑ろにした相手にはきちんとやり返すまで気が済まない気位の高さは、紫成という人を端的に示している。きっとその矜持で、皇子様の側近にまで到達したのだろう。


「全然、変わられていませんけど、ご立派に成長なさったことはわかりました。二十三歳、おめでとうございます。紫成さま」


 紫成は虚を突かれたように目を丸くする。ぱちくりと瞬きすると、フッと口の端を不敵に歪めた。


「ああ」


 少し、機嫌が良さそうだった。

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