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『1999年、7月の恐怖の大王が訪れ、この世は終焉を迎える』

ノストラダムスはこのように予言したが、終焉は訪れることなく2000年を迎えた。

来年には小学生ーー

私は期待に胸を膨らませ、居間のちゃぶ台で自分の渡辺桜という名前を蚯蚓ミミズが這ったような解読困難な漢字で書く練習をしていた。

「とう!」

あどけない子供の科白セリフと共に背中に衝撃が走り、机に前のめりになる。鉛筆の芯が折れてしまった。

「〜〜〜‼︎」

振り返ると仮面ライダーのお面を被って幼児向け雑誌の付録でついてきたペーパークラフトの変身ベルトを腰に巻いた3歳の弟が決めポーズをとっていた。

「でたな!カイジンねぇね!」

私は勢いよく立ち上がって走って逃げる弟を追いかけ、ライダーキックをお見舞いした。弟は転んで泣いてしまった。

「かぁーさぁーん、姉がぁ〜」

弟は走って母の元に駆け寄った。

「桜、また亨をいじめて!コラ、待ちなさい!」

私は母を無視して逃げる。だって、先に殴ったのは亨だもん、と。

きょうだいで同じ遊びをしても、年長者は力が強いから年少の者を泣かせてしまうと決まって年長者が叱られる。どちらかが男の子の場合、たたかいごっこなどのバイオレンスな遊びになるから、私は力の弱い弟をごっこ遊びでては怒られていた。

怒られそうになって逃げても、狭い家の中で母の追跡から逃れるのは不可能だった。結局捕まって、ゲンコツを喰らい弟にごめんなさいをしなければならなかった。悪いのは私じゃないのに、と心の中で不貞腐れながら。

よく言えば“快活“、悪く言えば“お転婆“、否、多動なのか、、、ともかく私はエネルギッシュな子どもだった。


明くる年の4月には父の仕事の都合でH県から九州のN県に引っ越し、そこで小学生になった。

正月に母方のおじいちゃんから買ってもらったピカピカのランドセルを背負って、上級生が植えたチューリップの鉢植えが並べられた体育館へと続くコンクリートの渡り廊下を母に手を引かれて歩いた。


火曜21時のドラマ、観月ありさ主演の『ナースのお仕事』に触発された私の将来の夢は看護婦さんだった。

(看護婦が正式に看護師と名称変更されたのは2003年なので、この頃はまだ看護婦だった※保健師助産師看護師法では2001年)

近所の子や学校の友達とよく看護婦さんごっこをして遊んだ。

山と海に囲まれたこの土地で私はのびのびと育った。


9歳になった頃、母は3人目の子どもを宿していた。

その頃から母は情緒不安定になっていった。

妊娠すると女性がホルモンの関係で情緒不安定になるのはいたってごく当たり前のことだが、母にはこれに加えて慣れない土地での生活、多忙な父へのサポートと幼子2人のワンオペ育児などが重くのしかかった。

母は私たち姉弟の聞き分けが悪いと叫び声を出し、寝込んでしまうことがしょっちゅうだった。

実家の両親を頼ろうにも遠かったし、高齢の両親に心配をかけまいと誰にも相談できずにいた。

そんな母の気苦労も知らず、子どもたちは相変わらず自分勝手で父も仕事が忙しく仕事の日はまだ空が白けている頃に家を出て日付が変わる頃帰る、日曜日しか休みがなく休みは1日中寝ており、育児参加などできなかった。


父と母はこの頃から喧嘩ばかりしていた。

どちらにも相手を気遣う余裕がなかった。

ある夜、母は味噌汁の薬味のネギを切らしてしまっていた。買いに行こうにももう店は開いてない。母はネギ抜きの味噌汁を父に出した。

父はそれを見て激怒し、味噌汁茶碗をひっくり返した。

「こんな味噌汁、ネギがない味噌汁なんて聞いたことがない!桜が嫁に行った時こんな味噌汁を出したら恥をかく!お前はどうするつもりだ!?」

父は母に怒鳴った。

母は悪びれもせず、「なによ、そんなの家庭によって違うんだから。それに今日は、、、」

と言いかけた途端、母の左頬に衝撃が走った。

母はよろけて床に崩れ落ちてしまった。

父は母の頬を平手打ちしたのだ。

「女のくせに、この俺に口ごたえするな!」

父はそう言って箸を放り込投げ、ドスドスと音を立てながら歩き、大きな音で家の戸を閉め家から出て車のエンジンをかけどこかへ行ってしまった。

この大きな音に隣の和室で寝ていた私と弟は起きてきた。

母はただ呆然と床に座り込み、左頬を押さえて玄関を見つめていた。

「お母さん、どうしたの?」

私は何が何だかわからず母のところにしゃがんで顔を見た。

母の目からブワッと大粒の涙が溢れた。母は私と弟を抱き寄せた。


それから『夫に叩かれた』と母は祖母に離婚の相談をしたそうだ。

しかし、祖母は「子どものために我慢しなさい」と言った。

母は狼狽えたが、祖母の言う通り職を離れて10年近くが経っており、医療事務の給料で子ども2人とこれから生まれてくる3人目を養うのは難しいと思った。

だから、諦めた。


それから暴力事件はなかった。

しかし、母はワンオペ育児とストレスのせいで重篤な妊娠高血圧症候群になった。

足は象のように浮腫んで膨れ上がり、妊娠週数がいくにつれて寝込むことが多くなった。私は9歳の子どもなりにできることは手伝ったが、それでも母の負担の軽減するには足りなかった。

その年の夏休み、遊びから帰ると母はおらず、昼間なのに父が家にいた。

どうしたのか父に聞くと「母さんは病院。これから弟が生まれるんだよ。」と言った。

本当は買い物中に子癇しかんを起こし、救急車で病院に搬送されて母子共に危険な状態だったが、父は私たちを気遣って本当のことは云わなかった。

帝王切開で男の子が誕生した。早産だったのでNICUに2週間ほど入っていた。

母も体調が悪く2週間を過ぎて母と末っ子は帰ってきた。


「あかちゃん、かわいいねぇ。」

亨が赤ん坊の頃、私はまだ2歳だったので断片的にしか赤ちゃんがどういうものか覚えてなかった。

しかし、今度はちゃんともの心がついていたので“かわいい“と覚えている。

レイと名付けられたその男の子の授乳やおむつ交換以外は学校から帰ったら私の仕事になった。

目がくりっとした髪に癖っ毛のあるかわいい赤ん坊だった。

泣いていたら積極的にあやした。私がトントンと背中を優しく叩きながら体を揺すり、部屋を歩き回ると玲は私の腕の中ですやすやと眠った。

母は私が玲の世話をしている間、亨の世話をしたり買い物に行ったり家事をしたり忙しくしていた。


そうしているうちに、私は小学5年生、10歳になった。

事件は起こった。

父が会社に大損害を与える(この時会社は海外企業も巻き込んだ大事業を展開していて、事業が頓挫しかねない大きなミスだったそうだ)ミスを犯した後輩を庇って責任を被った。

父は左遷され、解雇こそ免れたものの、地元に帰ることになった。

早々に辞令が交付され、地元の団地に引っ越すことになった。

私も卒業を待たずして転校になった。

仲のよい良い友達がお別れパーティーをしてくれた。

4月の終わりの校庭にはハナミズキの花が咲き乱れていた。


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サキュバスの棲む家 青野あやめ @cerisier07

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