此れから
月日が経ち、あの不思議な春の夜の出逢いと別れから、一ヶ月以上が過ぎた。季節は
楓の耳にそろそろ聞こえてくるのは、大抵が薔薇や
サクヤの
返事はなくとも、こんな時、彼ならどんな風に答えるだろうか……と考えながら、独り言のように口にすると、次第に気持ちが落ち着き、慰められていく。
そして何より、帰る時……彼女を見送るように、空から細かい霧雨が降り注ぐ瞬間が、たまらなく嬉しかった。すぐ近くに彼が
そんな、とある休日の暮れ時。学校の同じグループの子と、人気だというカフェに行った帰りだった楓は、あの祠に向かっていた。最近は友達との交流も意識し、少しだけでも自分のことを話すようにしている。だが、やはり緊張したからか気疲れしてしまい、サクヤに会いに行く事にしたのだ。
――そう
今日もだったが、最近は暑いぐらいの晴れが続いている。そんな時は何をしているのか聞いていなかった事に、ふと寂しさを感じた。
おしゃれな流行りのカフェに行くのならと、張り切って履いて来た慣れないサンダルが、疲れた足にダメージを与え出していたが、気にならない。
頭上からそよいで来る涼しい風が、少し汗ばんだ身体に心地よかった。石段の最後の段を上がり、夕闇に染まりかけた目印のソメイヨシノに向かう。
今はすっかり新緑にあふれた大木に、あの薄紅の可憐な花の面影は無い。四月上旬にやって来た長雨で、元々、葉桜に変わった彼らは完全に散りゆき、薄紅の
そんな光景を思い出し、少し切なくなった楓は、振り切るように
それより、何よりも楓を揺さぶったのは、彼が纏う空気だ。ぴん、と張り詰め、背が引き締まるように凛とした、覚えのある……
忘れてない。忘れる訳がない。ひどく懐かしくて、切ないぐらいに安心する、誰よりも大好きな……
「あ、の…… こんばんは……」
考えるより先に、口にしていた。いつもの人見知りの自分なら、あり得ない行動だ。
遠慮がちな楓の挨拶に、その青年はゆっくりと振り向いた。色白で涼やかな目をした……知らない顔。だが……
「こんばんは。参拝ありがとうございます。最近、この町の管理部に就職しました。まだ新人ですが……」
ずっと、ずっと、忘れられなかった。もう一度だけでも聞きたかった。深夜のように静かだが、どこか優しさを含んだ、あの淡々とした響きの、
「あの…… 前に、
期待と確信が入り交じり、歓喜で上ずった声で問いかける。全身がふるふる、と微かに震えているのがわかった。膝に力が入らない。
そんな楓を柔らかな眼差しで見ていた彼は、少し照れ臭そうに微笑を浮かべた。ぎこちない仕草で、ゆるり、と右手を差し伸べ、結ばれた口を開く。
「――
確かな
「こちらこそ…… 今度、水辺に行きましょうか……?
差し出された大きな手を、
目頭が熱くなり、いつかの夜と同じく、楓の両の
そんな彼女に少し戸惑い、咲夜はもう片方の手で、その
「……水、というのは、こんな
ふは、と思わず笑みがこぼれ、泣き笑いみたいな顔になった楓は、握手した方の手に力を込める。ふっ、ふっ、と拙く
少し困った
そんな様子を見て、ほっ、と安堵した後、咲夜はそのままその手で、そっ、と彼女の頭を包み抱いた。気恥ずかしそうに顔を反らし、自分の胸元に涙顔の楓を押し付ける。
シャツに彼女の涙が染みた瞬間、二つの心臓が早鐘のように鳴り出した。身体の温度が急に上がり、汗ばんで、熱い――
「……人間というのは、色々騒がしいな」
「……です、ね」
知っていくのだ。この人と、一緒に、こんな風に、少しずつ。自分を、人間を、この世という、
これが、花と雨が導いた、不思議な物語。これからは、彼と彼女――二人の冒険譚になってゆく。
【完】
花散る雨、里に恋しなりゆく 伏水瑚和 @coyori_F
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