雨と犬と愛

2ka

雨と犬と愛

 不意に集中力が途切れて顔を上げる。

 耳を澄ますとかすかな雨音が聞こえた。日中は外出を躊躇うほどの雨だったのにと時計を見れば、時刻は日付を越えようかという頃で、思わず苦笑してしまう。我ながら立派な集中力だとは思うが限度というものがある。かれこれ十時間近くも机に向かっていたらしい。

 我に返ると急激に腹が減った。身体が忘れていた時間が猛スピードで戻ってきたかのようだ。

 寂れた商店街にはファミレスや牛丼屋は勿論、二十四時間営業のコンビニだってない。腹が空いたなら家の備蓄に頼るほかないのだが、生憎と我が家の冷蔵庫はからっぽだ。インスタント食品を買い置く習慣も俺にはない。

 仕方ない、米でも炊くか。立ち上がり首を曲げると、ボキボキボキと十時間分の音がした。

 二階の書斎から一階へ、古い家には珍しくもないやたら急な階段をゆっくりと下りていく。最後の一段に足をかけたとき、ふと思いついて、俺は台所へは向かわず庭に出た。

 小糠雨の中、しばらく手入れをサボっていた庭の緑が俯くように濡れている。無精して置きっ放しにしていた傘を差したのだが狭い庭だ。数歩のうちに茂った葉に触れた身体が湿気た。下駄をつっかけただけの足も濡れたが、どうせあとで風呂に入るからかまわない。

 裏口から路地裏へ出る。傘を差したまま二人すれ違うことができないくらいに狭い道だが、近所の人間は頻繁に使う。しかも自転車で。工務店の三代目と肉屋の馬鹿息子だけ原付で通る。

 朝と夕方には中高生が颯爽と結構な速度で通り抜けて行く。指定通学路でもないこんな細い道を通るなんてと言い出す保護者がいそうなものだが、その保護者を含めた大人たちが便利に使っているのだから注意などできるわけがない。

 かち合ったらどうする気だといつも思うのだが、不思議とそういうことが起こったという話は聞かない。俺も学生時代はその不思議に甘えていた一人だ。減速などしたことがない。

 さすがに車は通れないから事故もないし、騒音等の苦情もない。外灯がなくて夜間通るには危ないから、各自裏口に電気をつけないか。そんな提案に近所中が賛同するような、愛着も利便性も兼ね備えた路地裏だった。

 さすがに深夜、しかも雨の日に自転車で通ろうという馬鹿はいないので、遠慮なく傘を差して立つ。すでに全身湿っぽいとはいえ、塀にもたれるのはやめておいた。煙草が欲しいところだったが、わざわざ取りに戻るのも面倒だ。

 ただぼんやり突っ立って雨音に身を委ねる。煙草も時計もないので計りようがないが、長く待つつもりはない。

 やがて湿った空気の中にコツコツという硬く小さい音が聞こえて、俺は「当たりだ」と口の中で呟いた。口角が上がっているのは自覚している。

 彼女に関してだけ、俺の勘は高確率で当たるのだ。会えそうな気がすると思ったときには、八割くらいの打率で会える。それは別にこの路地裏に限ったことではない。

 ずいぶん離れたところで足音が止まった。あえてそちらは見ない。

 少しの間のあと、またコツコツという規則的な音が再開する。音は近づいてくるので、方向転換はされなかったらしい。彼女の盛大な仏頂面が目に浮かぶようで、俺は笑い声が漏れそうになるのを堪えた。

 幾分歩調が遅いのは、足音が響かないよう気を遣っているためだろう。靴音くらいで目覚めるほど繊細な神経の持ち主はここいらには住んでいないのに真面目なことだ。

 コツリ、と足音がすぐそばで止まった。

 振り向くと、そこには予想通りの女が、しかし予想とは少し違う顔でこちらを睨みつけていた。

「どいて」

 俺の挨拶も待たずに投げつけられた言葉にも違和感を覚えた。

 深夜だというのにまるで崩れていない化粧は、女の端正な顔立ちを引き立てている。けれど、そんなのはいつものことだ。『外』で会う彼女の身だしなみには一寸の隙もない。化粧も服も仕草も言葉も、すべてが『大人の女』として完成されている。『社長秘書』というのが彼女の仮面の名だ。

 しかし、ここは『外』ではない。今ここには俺しかいないのだ。俺と彼女しか。それなのに、その中途半端な顔はなんだ。

 形の良い眉が寄って眉間に数本の皺ができているが、その程度では不機嫌のうちにも入らない。嫌悪という言葉を辞書で引いたらこの顔の写真が載っている、と表しても過言ではない表情が彼女の標準装備であり、俺に対するときのデフォルトだ。

 言葉だって「どいて」なんて言うはずがない。そんな丁寧な言い方はあり得ない。「どけ」もしくは「邪魔」だ。

「よお。終電でお帰りとは珍しいな」

「聞こえなかったの? そこをどいて」

「男か」

「関係ないでしょう。帰るんだから通して」

「雨の夜中に女を一人で帰すなんて、碌でもない男に決まってる」

「ロクデナシ代表の男に言われたくない」

「やっぱり男か」

 彼女の眉間に皺が増える。けれど舌打ちは聞こえなかった。まだ足りない。

「酒のにおいがしないな」

「この雨でもにおいがわかるなんて犬みたいね。褒めてあげたいところだけど、あいにく餌の持ち合わせがないの」

 言葉遣いはまだだが、口調に鋭さが戻りつつある。

 ニヤリと笑って皮肉を躱すと、彼女が眦を吊り上げた。悪くない。

「なるほどな」

「……なに」

「わざわざ帰ってきたってことは男の家か」

「なにを根拠に」

「ホテルなら泊まりゃあいい。歯磨きもシャワーも済ませてきたんだろう。番った帰りか」

 バンという鈍い音を立てて、彼女の鞄が俺の肩に命中した。弾みで傘が傾いで塀にこすれた金具がザリと耳障りな音を立てる。

 命中と言っても、彼女は俺の顔面を狙ったつもりだったのだろう。小さな舌打ちが聞こえた。何が入っているのか知らないが、そんな重そうな鞄で横っ面をひっぱたこうとするなんて酷い女だ。

「図星か」

「黙れ変態。私がどこで誰と何をしようとお前には関係ないだろう」

「つれないことを言うな」

「お前に優しくする理由も必要もない。早くそこをどけ」

「幼馴染みだろう」

「だからなんだ」

「たまに会ったときくらい愛想良く相手してくれてもいいんじゃないか」

「なんのために?」

 取り付く島もない、とはまさにこのことだ。

 しかし、これでもまだ足りない。口調は随分と素に戻ったが、表情がどうにもお綺麗過ぎる。おかげで全体的にちぐはぐで酷く見苦しい。ずれない彼女の仮面はまるでしつこい黴のようだ。

「どういうつもり」

 ため息と共に彼女が言う。なんだ、その自分を落ち着かせるための嘆息は。

「なにがだ?」

「こんな時間にわざわざ待ち伏せして何がしたい」

「待ち伏せとは失礼な。偶然だ。自意識過剰め」

「ぬけぬけと……!」

 もう一発くるかと思ったが、彼女はグッと鞄を持つ手を握りしめただけだった。持ち手に彼女の細い指が食い込んでいる。恐らくいい革でできているだろう鞄は、雨粒の染みで半分くらい色が変わっていた。

 さっきのよりも大きな舌打ちと共に彼女が踵を返した。すかさず手首を掴んで引き留める。反動で傘から落ちた水滴が、パタパタと音を立てて鞄に新しい染みを作った。

 振り向きざまに俺を睨む女の瞳には期待した輝きがない。怒りだけはストレートにぶつけてきた彼女はどこへいったのか。

「夜中に女を一人で帰すような男、捨ててしまえ」

「お前には関係ないと」

「結婚なら俺とすればいいだろう」

 何か言いかけた口がそのままの形で止まり、「は」と間の抜けた音を吐き出した。大きく目を見開いて、眉間の皺さえ消えている。

 なるほど、こういう顔もするのか。長いつき合いだが初めて見た。悪くない。

 彼女の珍しい表情は、しかしほんの二秒のうちに消えた。

「場を和ませたつもりか? だったらもう少し気の利いた冗談を考えろ」

「冗談じゃない」

「なら私を一層怒らせたかったのか。よかったな大成功だ」

「なんでそうなる。本気だってことだ」

「からかうにしても言って良いことと悪いことがある」

 俺の本気のプロポーズは言ったら悪い方に入るのか。わかっていたこととはいえ、随分と嫌われたものだ。

「俺にだって結婚を申し込む自由くらいはあると思うが」

「何もかもが自由なくせに図々しい。恋愛でくらい相手のことを考えろ」

「考えた結果、俺にしとけと言ってるんだ」

「私のことじゃない!」

「俺は独り身だぞ」

「嘘を吐くな。先週、二人で歩いているところを見た」

「先週……? ああ、あれは出版社の人間だ。仕事だよ」

 まあ仕事以外のこともするが。恋人ではない。

 彼女がまた舌打ちした。お前の顔なんか見たくないとばかりに俺から視線を逸らす。限界まで寄った眉根のせいで、苦しげにさえ見える彼女のしかめ面。

 今のは何に対する舌打ちだろうか。

 俺に特定の恋人がおらず、プロポーズをするに何の問題もないということに対してか。

 それとも、俺に恋人がいると誤解していた自分を晒したことに対してか。

 後者ならいいのに。

 俺に美人の恋人がいると知ったとき、お前は何を思った? それを問われることを恐れているから、そんなに苛立っているんだろう?

 そんなことを考える俺は、結構可愛いと思わないか?

「俺の何が気に入らない」

「すべてだ」

 刹那の切り返し。僅かも躊躇しなかった彼女の頭の中に、今このときだけは俺しかいないと思うと愉快でたまらない。

 キスしたいと思ったけれど、生憎と傘が邪魔だった。さすがに高そうなスーツにまで雨の染みを作るのは気が引ける。

「俺はお前のすべてを愛してるのに」

「気色の悪いことを言うな」

 つくづく容赦がない。

「真心を込めた愛の言葉に対して気色悪いとはあんまりだな。そんなこと言われた男がこの世に何人いると思う」

「何が愛だ。そんなつまらない嘘をヘラヘラと口にして、文句が言える立場か」

 嘘じゃないさ。全部、本心だ。

 刃のように鋭い言葉で武装した、愛想など母親の子宮に忘れてきたかような美人の持ち腐れ。中学生のときにはまった時代小説の影響で、言葉遣いが古風を通り越してややおかしい。

 そのままのお前が、心底いとおしいよ。

 けれど、まだ、それは口にしない。ただ苦笑して、掴んでいた手を離す。

 俺の表情に戸惑いを覚えたのか、「プロポーズしたい女性がいるなら、その軽薄な見た目をどうにかしろ」と、彼女は早口で言った。どうやら俺が本気で悩んでいるとでも思ったらしい。頭はいいくせに的外れな女だ。

「軽薄とは失礼だな」

「アパレル関係の仕事をしているわけでもないくせに、いい歳して金髪の男なんかと結婚しようと思う女はいない。いたとすれば物好きか、ただの馬鹿だ」

 もういいだろう、と言わんばかりに彼女が一歩足を踏み出したので、俺は路地裏から自分の家の敷地内へ入った。

 俺との会話のあいだに遠慮を忘れたらしく、カツカツとヒールの音を響かせながら、彼女は路地裏を早足で帰って行く。振り向く素振りはまるでない。

 やがて雨に吸い込まれるように聞こえなくなった硬質な音を、俺は未練がましく耳を澄ませて探した。

 まるで恋に不慣れな思春期みたいだな、と今の自分を滑稽に思う。それでも、俺はきっと早々に黒染めのヘアカラーを買いに行くんだろう。

 不自然に黒くなった髪の自分を想像して、俺は「悪くない」と笑った。

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