十九話 ■■■(二)

 緋月は瞳を震わせた。

 知っている、知っている。鎖で雁字搦がんじがらめになってしまっている目の前の少女の名を。

 いいや、記憶には無い。しかし、確かに知っている――そう言う感覚が緋月をしかと包み込んでいた。


 思い出せ、思い出せ。それはだ。忘れてしまえば、目の前の少女の存在は無かったことになってしまうではないか。彼女は、自分に名を与えられて初めてのだから。


『それじゃあ貴女の名前は――』


 どこか、頭の遠いところに記憶に無い自分の声が蘇った。そうだ、そうだった。彼女に名を与えたのは自分だ。確か、彼女の名は――


「――ゃ」


『ソレニ触ルナッ!』


「うわぁっ!?」


 直後、この場に現れるはずの無かった怪鳥が飛来し、緋月の思考ごと緋月を吹き飛ばす。咄嗟に受け身を取った為、身体は無事だ。しかし、記憶の奥底から出てこようとしていた言葉は再び奥底へと引っ込んでしまう。


『コレハ渡サナイ……ッ!』


『――!』


 鎖に縛られた少女は目を見開いた。怒り狂う怪鳥の鉤爪かぎづめが彼女を捕らえ、その姿はまるで蜃気楼しんきろうの様に消えてしまった。


「あっ……!」


 悔しい。こんな時になっても、記憶の奥底へ潜り込んでしまった言葉は戻って来なかった。緋月は悲痛な面持ちのまま、少女がいた痕跡が一切消えてしまった巨木の幹を見つめていた。


「――緋月ッ! 無事かッ!?」


 一呼吸置いて、怪鳥の後を追っていたらしい紅葉とハクが広場に駆け込んで来る。彼女の姿は酷く痛々しい。紅葉の制服など所々が切り裂かれている様にも見えた。


「あ……紅葉、ハク――」


「――あかん緋月っ! 上!」


 何かを言わんと口を開いた緋月の言葉を遮って、ハクは焦ったように叫ぶ。その言葉に弾かれた様に上を見上げた緋月の目に映ったのは、鋭利な鉤爪かぎづめで緋月を捕らえんとする怪鳥の姿だった。


「――っ!」


 突然のことに身体が動かない。紅葉もハクも、一目散に駆け出して緋月に手を伸ばそうとするが、間に合わない。

 ダメだ、終わりだ。目の前に迫る鉤爪かぎづめに、緋月は思わずキュッと強く目をつぶった。




「――――?」


 しかし、恐れていた衝撃と痛みは襲って来なかった。緋月は恐る恐る目を開ける。


「ぇ……」


 そして、驚きに支配された様に目を見開いた。怪鳥の動きが眼前で止まっていたのだ。まるで怪鳥は金縛りにあった様に動きを止め、怒り狂った様な鳴き声を上げている。


『何ヲスル! オマエ、オマエェェエエッ!』


『させませんよ……っ! そんなこと……!』


 怪鳥の中から先程の少女の声が聞こえてきて、緋月は更に目を丸くする。どうやら怪鳥の動きを、先程の少女が中から留めている様であった。


「なん、で……」


『主を傷付けようとしているやからを見逃す式が……、一体何処にいると言うのですか……ッ!?』


「――!」


 その瞬間、今まで朧気であった少女の顔がハッキリと見えた。もちろん本物の少女は、依然怪鳥の中に取り込まれたままだ。しかし、緋月の脳裏にはしっかりと彼女の顔が浮かんでいた。


 まるでからすの羽根を模した様な長髪に、いつでも自信と元気に満ち溢れた凛々しい表情。動き安さを重視した装束に、そこから覗く程よく筋肉の付いた健康的な身体。


 そうだ、思い出した。

 彼女の――貴女の名前は。


『貴女は八咫烏やたがらすの――』


「――ゃ、た。やた、ヤタ、ヤタぁっ!」


 まるで記憶の中の自分と共鳴する様に、緋月は脳裏に浮かんだ少女の名を口にした。


 八咫烏やたがらすのヤタ。それは、緋月のもう一柱の式神で、大切な友達の一柱ひとりであった。


「――嗚呼、やっと呼んで下さいましたね」


 少女は――ヤタは静かに呟く。その瞬間、ピキリと怪鳥の黒い身体に亀裂が走った。その亀裂は留まることなく、それの全身へと広がっていく。


『ァ、ァアッ――』


 怪鳥は苦しそうに呻いた。しかし亀裂は増える一方で、その勢いが収まることは無い。


『アアァァアァアァアアアアアッッッ!』


 バキンと一際大きな音が響いた。そして、怪鳥の断末魔と共に、その身体を突き破って一柱ひとりの少女が飛び出して来る。

 緋月は知らず知らずの内に微笑みを口に浮かべていた。


「すいませんね緋月……長らく隣を空けてしまいました」


 少女はスタッと緋月の目の前に降り立つと、羽根のような黒髪を揺らして不敵に微笑む。


「さぁ、ヤタさんが来たからにはもう、緋月には指一本触れさせませんよ!?」


 少女は――ヤタはそう言うと、ひび割れた身体を引きずって呻く怪鳥へと堂々宣言した。

 爽やかな神気が爆発する――それこそが反撃の合図だった。

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