十七話 鬼の影、勇み足

「紅葉っ!」


 緋月は知っていた。そのかんざしを抜くという行為が何を意味するのかを。そして、それが紅葉にとってどれだけ覚悟が必要なことなのかを。


「ぅ、ぁ……ぁああッ」


 心配する緋月を他所に、呻く紅葉の姿が徐々に変化していく。

 見慣れた耳はツイと長く尖り、口元には牙が覗く。そして、額には一本の角――そう、それはまさしく鬼だ。それこそが、紅葉の本当の姿であった。


 ――呑まれるな。


 同時に、紅葉の心を様々な感情が支配する。


 ――呑まれるな。


 それは、怒り。それは、未練。


 ――呑まれるな。


 そしてそれは、恐怖。

 まさに、恐怖。

 果てしない恐怖、恐怖、恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖――


 ――呑まれるな!


 ドクンと心臓が脈打った。その度に熱いものが身体中を巡っていくのを感じる。

 失ってたまるか、傷付けてたまるか。


「もう二度と、あの時の悲劇を繰り返してたまるかぁッ!」


 紅葉の心を支配していた感情は、全て湧き上がる闘志に塗り替えられていく。その覚悟に呼応する様に、手にしていたかんざし大槌おおづちへと変化する。

 柄も頭部も漆器しっきの様な黒。所々が金飾で縁取られており、それはまさに国宝の様。頭部には、彼女を表す紅葉もみじの柄が浮き出ていた。


水紋みなもッ! 緋月に付いてけ!」


『――えぇ、承知しましたわ!』


 声をかけられると共に水紋は飛び出して、緋月の元へと揺らぎ寄る。いつもより何倍も反応が速い。

 それは紅葉が本当の力を解放しているからだ。地獄の鬼の力を解放しているが為に、いつもより地獄へ声が届きやすくなっているのであった。


『行きましょう緋月様、どうか紅葉様を信じて下さいませ!』


「――うん、分かった! またね、紅葉!」


おうッ!」


 水紋に急かされ、緋月の声は遠ざかっていく。後ろは振り返らずに返事をした。


「……いけるか、火刈かがり


『もちろんよ、さっきは油断してごめんなさい。それより――いいのね、紅葉様』


 紅葉はそのまま。先程より苛烈な熱さをまとったほむらが空気を焦がした。

 今なら、今の力なら、二人とも難なく呼び出せる。紅葉は知っていたのだ。自分がこの力を使いさえすれば、二人の式の力をさらに引き出せると。


「あぁ、この鬼の力は……弱い俺が使う資格は無いと思ってた。でも、そうじゃないよな。この力は――弱虫の言い訳にしちゃいけない」


 それをしなかったのは、絶望と恐怖から。

 自分がこの力を持ってしても敵わない相手が居て、周りを犠牲にしつつも生き延びてしまった経験があるから。

 弱い自分が、この力を使う資格など無いと思っていたから。


 ――もう一度この力を使って、絶望したくなかったから。


 たかがそんな理由で、緋月を、ハクを――大切な人たちを傷付けてどうする。

 どうせ同じ弱者なら、果敢に立ち向かって、大切な者を守って、散る――その方が、きっとずっと良い。もちろんそんなことをすれば、一番大切な相棒は泣いてしまうのでそうするつもりは無いが。


「行くぞ、火刈。俺は――守られてるだけの存在じゃないんだッ!」


『……その覚悟、しかと受けとったわ。紅葉様』


 主の覚悟を目の当たりにした火刈はふわりと揺れて、主が手にする大槌おおつちの頭部へと宿る。ぼう、と力強い炎が燃え上がり、辺りをてらてらと包む様に照らした。

 その姿は、まさに地獄の勇猛な鬼――警備隊と呼ばれる、強大な力に屈することの無い戦士の様。


 紅葉は大槌を持ち直し、下段構えのまま駆け出した。目標は、依然ハクへと猛攻を仕掛ける怪鳥。それは高い高い空を飛び回っているが、紅葉には関係の無いことだ。

 近付いて、近付いて、怪鳥は目と鼻の先。グッと足に力を込め、高く高く飛び上がる。それと同時に大槌を振り上げ、撃墜の構えをとる。


「落ちろぉぉおおおッ!」


 力強い叫びと共に、全力の鉄槌てっついは振り下ろされた。


****


『――助けて』


『――苦しい……助けてくれ……』


『――お願い、助けて……!』


 緋月は駆けながら耳をピクリと動かした。紅葉たちと別れてから聞こえていた声たちが、徐々に大きくなっているのを感じる。


『緋月様っ! こちらですわ!』


「うん……っ! 聞こえてるっ!」


 先導する水紋みなもは声を張り上げた。この場に水精の気配は無いが、彼女は別の何かを捉えている様であった。彼女は魂を導く役目を持つ鬼火――つまり、何者かの魂が彼女に訴えかけているのである。

 その声は緋月にもしかと聞こえていた。声は複数、年齢も性別もバラバラだ。その中に一つ、一際ハッキリと聞こえる声。緋月は一度も会ったことが無かったが、きっとこれがなのだろうと確信していた。


『あぁ、秋奈と千里は無事? お願い、無事でいて……』


 現し世で出会った、緋月の二人の友を呼ぶ声。苦しい、助けて、と言う悲痛な思いを訴える声たちの中、一つだけずっと二人の安否の心配だけをし続ける声。


「待ってて、今助けるから――百合子ゆりこちゃん!」


 緋月は全速力で駆けた。目の前で揺れる水紋の後を追いながら、聞こえ続けている助けを求める声に心を痛めながら。


『助けてっ!』


「――!」


 今までで一番大きく声が聞こえた。緋月は転がり込む様にその場所へと飛び込む。顔を上げて、ハッと言葉を失った。

 先程まで戦っていた場所とまるで鏡写し、開けた広間には歪な巨木。そこにはりつけにされた、たくさんの人々。


「何……これ……」


 人々は苦しそうに呻いている。ずっと聞こえ続けていた声たちの主は、紛れも無く彼ら彼女らだった。時折彼ら彼女らからほわ、と白い光が抜けて、どこかへ飛んでいく。


『いけませんわ緋月様……! この方たちはみな魂、そしてその生きる力を絶え間無く抜かれ続けている……!』


 あまりにも非道な光景に、水紋は声を震わせながら叫んだ。その声を震わせたのは怒りか恐怖か、どちらにせよ今ここで助けなければ、いずれ彼ら彼女らは死に至ることは明白であった。


 緋月は頷いて巨木の元まで駆け寄った。人々の魂をはりつけにしている釘を取り去ろうとして――そして、弾かれる。


『っ! 結界が……!』


「もうっ! 邪魔っっ! こんなものっ……割れちゃえぇぇっ!!」


 水紋の驚愕を他所に、緋月は結界へ両手を叩き付けながら感情のままに叫んだ。その瞬間、パキンと音がして結界が崩れ去った。緋月の強い感情に、周りを漂う微弱な精たちが共鳴したのだ。


 普段は「急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう」と唱えなければ力を貸さない微弱な精たちも、強い感情には共鳴し、思わずその力を貸す。

 それは、その道を極めた術師しか知りえないこと。もちろん緋月は、そんなことの理解はしていない。ただ、囚われた人たちの魂を助けたいという一心で行動しただけなのだ。

 水紋は緋月のそんな姿にを感じて、静かに言葉を失った。


「お願い、外れて! 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 今度はしっかりと術を唱え、緋月は人々の魂をはりつけにしていた物を浄化した。魂たちは解放され、ふわと地面へと着地する。


「……助かった、のか?」


「身体が動く! もう苦しくない!」


「あぁ、やっと解放される……苦しかったんだ、ありがとうお嬢さん!」


 解放された人々は、弱々しくも安堵した様な声で口々に話し始めた。突然のことに驚く者、座り込んだまま泣いて喜ぶ者、嬉しそうに緋月に声をかける者……皆反応は様々であった。


「……あっ!」


 緋月は一人一人に「もう大丈夫」と声をかけながら、ある人物を探す。そして、ぼんやりと木にもたれかかって自身の手を見つめている、その少女を見つけた。


「百合子……ちゃん?」


「――! どうして、私の名前を……?」


 その少女――百合子は、赤ぶちのメガネの奥の瞳をしばたかせ、驚いた様に緋月を見つめ返す。


「あっ……え、えっと……あたし、あきちゃんとちさちゃんにお願いされたの! 百合子ちゃんのことを助けてって!」


「えっ……?」


 突如、見覚えのない少女から親友たちのあだ名が飛び出して、百合子はさらに目を見開いた。


「だから、助けに来た! もう大丈夫、お家に帰れるよ!」


 見たことの無い、同じ制服の少女はそう笑って手を伸ばしてくる。百合子は当惑に包まれたまま、おずおずとその手を取る。


「――!」


 瞬間、少女は手を引いて百合子をしっかりと抱き締めた。しばらく感じることの出来なかった温もりを感じて、ようやく百合子は助かったのだと理解した。


「ぁ……あ……! ゎ、わたし……私……っ! こわくて……こわ、くて……っ!」


 そう理解した瞬間、百合子の中で何かがプツリと切れて、ボロボロと涙が溢れ出した。少女は百合子を抱き締めたまま、よしよしとその頭を撫でる。その少女は百合子よりもかなり小さかったはずなのに、何故かとても大きな存在の様に感じられた。


「うん、うん! すっごく頑張ったね、百合子ちゃん! もう大丈夫! あたしが絶対、あきちゃんとちさちゃんにも会わせてあげるからっ!」


 そう言いながら少女は――緋月は、力強く笑った。

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