十六話 影の鳥、竦む足

「ここは……」


 着地したのは、数ある隠り世の一つの様だった。無論見覚えは無い。妖街道とは違う様だ。


 緋月はペタと耳を伏せ、警戒しながら周りを見回した。まるで妖街道の様な暗い空、異様な色の葉をつけた木々が立ち並び、よどんだ空気が充満している。


「この嫌な空気……既に鬼神に転じててもおかしくねぇな、急ぐぞ緋月!」


 気持ちの悪い空気は紅葉も感じ取ったようだ。彼女は頬に冷や汗を流しながら、焦った様に叫んだ。


「分かってる!」


 そう言葉を返しながら、緋月は耳をピンと立てた。耳に意識を集中させる。遠くで微かに聞こえる、低く唸る様な怨嗟えんさの声。


「――あっち!」


 音を捉えたのは左耳。緋月は短く叫ぶと、転がる様に走り出した。紅葉も間を置かずに後を追う。


 二人は制服が汚れるのも構わず、木々の隙間を縫う様に駆けていく。整備されているはずの無い不安定な足場を蹴って、一早く呪いを断ち切る為に駆けて、駆けて、駆ける。


 駆けて、駆けて、駆けて、二人はようやくひらけた場所へと出た。

 そんな時、不意にヒヤリとした物が背筋を撫でた。


『――っ、止まりぃ』


 瞬間、隠形おんぎょうしていたハクが鋭く声をかけ、同時にその姿を現す。彼女はすぐ先のひらけた空間のを睨み付けていた。

 それは敵である。それは一目見た瞬間から緋月も理解しており、毛を逆立てて同じ様に真っ直ぐ前を睨んでいた。



 ひらけた空間のその中央――歪な巨木のすぐ下に、七尺二メートル程はある大きな黒い塊が鎮座していた。


『――――許サナイ』


 それから発せられた声はねっとりとした響きを持って、鼓膜を叩いた。恨み、怒り、全ての負の感情をまとった様な冷たい声は、心臓をついとなぞって緋月たちをその場に縫い止めた。


『許サナイ』


 それは繰り返し呟いていた。無意識のうちに緋月は後退あとずさる。嫌な汗が頬を流れていった。


『ドウシテ』


 それはゆるりと首をもたげた。


『ドウシテ』


 それは翼を広げた。


『ドウシテッッ!!』


 それは――闇を纏う怪鳥は甲高く鳴き声を上げた。

 ギョロリとした黄色く濁った瞳がこちらを睨む。


『見ツケタ、見ツケタ、見ツケタ! アベノ、アベノ――アベノ、ヒヅキッ!!!』


「――っ!?」


 それは緋月の名を知っていた。


 怪鳥の怨嗟えんさを乗った声に名を呼ばれた緋月は、心臓を鷲掴みにされた様な心地に陥った。紅葉は、顔を真っ青にした緋月の手を引いて守る様に抱きすくめた。


 それはけたたましく鳴き叫びながら、大きな羽を動かし風を起こす。妖気を伴った風の刃が四方八方へと撒き散らされた。


「くっ、金剛爪こんごうそうっ!」


 ハクは真っ先に二人と怪鳥の間へ躍り出て、神気の爪で飛んで来た風の刃の妖気をかき消した。風が吹き荒れて、緋月と紅葉は抱き合ったまま耐え忍ぶ。


「なんだよアイツ……!? くそっ、平気か緋月っ!?」


「ご、ごめん! ちょっとびっくりしちゃっただけ……もう平気!」


 どうしてあの怪鳥は、自分の名を知っているのだろうか。緋月の中の疑問は無くならない。だが、ここで立ち止まっている訳にも行かないのだ。


妖魔縛々ようまばくばく急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 緋月は術を唱えながらハクの隣へと飛び出した。同時にダンダンと目の前の地面がせり上がり、吹き荒れる風と刃の雨を防ぐ。


火刈かがりっ! 力を貸してくれ!」


『――えぇ、お安い御用よ!』


 緋月が風とその刃を防いでいる隙に、紅葉は式の鬼火を呼び出した。火刈はいつもの如く揺らめいて現れると、異常な状況を即座に把握して返事をした。


『集え、業火よ!』


 即座に放たれた火刈の術は、飛び回る怪鳥の姿をあっという間に捕らえ、その身を焼き尽くさんと怪鳥の全身をねぶった。


『――――!』


「なっ……効いてない!?」


 しかし、怪鳥がわずらわしそうに身震いするだけで、すぐにその炎は四散した。紅葉は目を見張り、絶望を滲ませた声で叫んだ。


『いけない紅葉様! アイツ、私と同じ火行なんだわ! 私の力が効いてな――きゃあっ!』


 焦った様な火刈の声は、土壁の隙間から飛んで来た風の刃にかき消された。そのまま風に仮の姿ごと消されてしまい、彼女との通信はフッと途絶える。


「っ、しまった! 火刈っ!!」


 消されたのは仮の姿とは言え、再度彼女を呼び出せる様になるまで時間がかかる。


「くそ……っ! 見てるだけなのかよ……っ!?」


 今、紅葉に出来ることは何も無い。紅葉の中にが蘇り、彼女は脂汗を滲ませる。ぎゅっと握った拳が冷えていくのを感じ、紅葉は一人身を震わせた。


『――――!』


 その間にも怪鳥は甲高い鳴き声を上げ、暗い空を飛び回り風を起こす。神気の爪で飛んで来た風の刃を弾きながら、ハクはイライラと吐き捨てた。


「チッ、空中におられるとウザったいんよっ!」


 まるで咆哮にも似た神気の攻撃がビリビリと空気を焦がす。怪鳥は一瞬だけ怯んだが、すぐさま調子を取り戻して同じ様に邪気を放ってきた。


「――! 緋月、足場だ! 足場を作ってハクを援護しろ!」


 結果的に一歩後ろからその様子を見ることになっていた紅葉は、状況を打破する方法を閃き即座に指示を出した。


「あ、足場ぁ!? それなら……えーっと、妖魔縛々ようまばくばく急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」


 その指示に緋月は驚きつつも、咄嗟に機転をきかせて土壁の階段を作り出した。

 それを見たハクは、にやりと口の端を釣り上げると「助かるんよ」と言いながらその階段を駆け上がって行く。


「――そんじゃ、ちょいと落ちててもらうんよっ!」


 怒りをたずさえた猛虎は怪鳥の真上に飛び上がると、その場で一回転――そして強烈なかかと落としを怪鳥の背へとお見舞いした。怪鳥の巨体はかかと落としの重圧に耐えられず、そのまま地面へと叩きつけられる。


「……えっ!? わっ! 何っ!?」


 その瞬間、今まで壁や足場として利用していた緋月の術が動き出し、地に落ちた怪鳥をしっかりと捕縛する。羽根を封じられた怪鳥は苛立った様なけたたましい鳴き声を上げていた。


「えっ……えぇっ!? どうなってんの!?」


 怪鳥は突然のことに困惑しもがいている様であったが、困惑しているのはそれのみでは無かった。術を行使した当の本人である緋月も頭の中を疑問符まみれにし、ただただもがく怪鳥を見つめているのであった。


 実は妖魔縛々ようまばくばくというのは、ただ単に地面をせり上がらせ足止めの壁を作るだけの術では無く、壁に触れた相手を捕縛するという術なのであった。だが、この術自体あまり使うことの無かった緋月はそれを知らなかったのである。


「まさかお前……妖魔縛々ようまばくばくがどんな技か知らずに使ってたのか!? その術は――」


「このまま決めるんよっ! 金剛爪こんごうそう!」


 解説をしようとした紅葉の声は、重力に従って落下してきていたハクの声に遮られる。彼女は特大の神気の爪をまとうと、重力を味方につけたまま怪鳥の無防備な背中へと振り下ろした。


『ァァアアァアアァアァアァァアアッ!!』


 怪鳥は甲高く叫ぶ。まさに断末魔だ。怪鳥の体はずうんと地面へと沈み込む。ハクは怪鳥の体から爪を抜くと、後ろへ飛んで警戒を続けた。


「……倒した、の?」


 緋月は動かなくなった怪鳥を見つめながら小さく呟いた。しかし、何やら様子がおかしい。それに緋月の直感は気を抜くなと訴えていた。



「――あかん! まだ生きとるんよっ!」


 ハクがそう叫んだ途端、事切れたかと思われた怪鳥の体を何処からか飛んで来た沢山の光の玉が包み込んだ。その体が淡く光る。


『……マダ、マダ終ワラセナイ』


 瞬間、怪鳥はピクリと羽根を動かした。その体により一層濃い闇がまとわりつく。負荷に耐えきれなくなった緋月の術はボロボロと崩れて行った。


『終ワラセナイ、終ワラセナイ――許サナイッ!!』


 それは再び羽ばたいた。邪気をまとった風が辺りへ吹き荒れる。怪鳥は高く大きく金切り声を上げて、先程よりも激しく風の刃を舞い踊らせた。


「っ、クソ! 何なんださっきの光!?」


 緋月が慌てて出した土壁の裏へと逃げ込み飛び交う刃を避けながら、紅葉は苛立ちを声として吐き捨てる。

 先程の光が怪鳥を回復させたのは一目瞭然だ。しかし、その正体は依然として不明。恐らくあの光を何とかしないと怪鳥は何度でも復活するだろう。

 まさに不死鳥を相手している気分になり、紅葉はぎりと奥歯を噛み締めた。


「緋月、紅葉! あいつはウチに任せてさっきの光を調べてきて欲しいんよ!」


 同じく壁の裏に退避していたハクは、ぽんと二人の肩に手を置いて言った。二人は驚いて彼女の顔をまじまじと見つめたが、返ってきたのは真剣な視線のみであった。


「それ、って……」


 紅葉は思わず問い返したが、その意味はハッキリと理解していた。

 逃げろ、とハクの表情が物語っている。危険な役目は自分が全て引き受けるから、その隙に光の謎を突き止めてくれ、と彼女は言いたいのだろう。


 ――きっと、自分が約立たずだから……。


 戸惑う紅葉の隣で、ハクの言葉に緋月は瞳を震わせる。言葉は出ない。一度目を閉じて、ゆっくりと深呼吸をした。


「――分かった。信じてるからね、ハク!」


 再度目を開いた時に、緋月の瞳に迷いは無かった。

 主が口にした「信じてる」という言葉に、ハクはフッと微笑んだ。記憶は無くとも、固く結ばれたえにしに変わりは無かった。


「……大丈夫。行こう? 紅葉」


 緋月は黙り込んだままの紅葉の手を引き、立ち上がらせる。紅葉は戸惑った様な視線を緋月にぶつけた。だが、緋月は大丈夫とその手を引いて走り出してしまう。



「――っ、くぁッ!!」


 そんな時、紅葉の耳に悲痛な叫びが飛び込んで来た。堪えきれずに緋月の手を振りほどいて振り返る。紅葉の目に、鮮血を撒き散らしてよろめくハクの姿が映り込んだ。


「――ぁ」


『おねぇちゃん! おねぇちゃぁん!!』


『大丈夫だ……ッ! 紅葉は逃げろ!』


 ごうごう、ぼうぼう。燃え盛る炎。泣き叫ぶ幼子。その目に映っているのは、守る様に立ちはだかる少女の背と、禍々しいものに転じた鬼。


姫様ひいさまを守れンなら本望だっての!』


『いや、いやだぁっ!!』


 響く絶叫。手を伸ばしても届かなかった、今はもう見ることが出来ない兄貴分の式の後ろ姿と最期の言葉。


 紅葉の脳裏に思い出したくない記憶が次々と思い浮かんで、目の前の景色が、思考の全てがひび割れていく。


 自分が戦えないせいで、ハクが更に傷付いたら?

 ダメだ、自分に出来ることは何も無い。


 ――方法が一つだけあるじゃないか。

 ダメだ、あの力は……。

 でも、自分が戦わなかったせいで、最悪の結果に辿り着いてしまったら?

 ダメだ、余計なことを考えるんじゃない。


 でも――あの時の様に、なってしまったら?


「ぃや、だ」


 自問自答を繰り返し、無意識に口が動いていた。足はその場に縫い付けられたかの様に動かない。この感情は何だろう。得体の知れない何かが、紅葉をその場に留めていた。


「……緋月、先に行け、行ってくれ」


 真っ直ぐ前を向いて、紅葉は青ざめた顔のまま呟いた。


「――俺は、やり残したことがある」


 そう言うと紅葉はかんざしを抜き取って、静かに髪を解いた。

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