一話 ︎︎夢?(一)

『――――――緋月』


 どこか遠くで自分の事を呼ぶ声がする。

 この優しく呼びかけてくる声は一体誰の声なのだろう。聞き覚えがあるのに、思い出したくても思い出せない。


 緋月は奇妙な感覚に陥ったまま、ふわふわと微睡みの世界を漂っていた。


『――――緋月』


 こちらの名前を呼びかけ続けるその声は、徐々に徐々に近付いてくる。


『――緋月』


 呼びかける声は遂に真近くまで来た。ぐわんぐわんと反響する声と共に、まるで誰かに揺さぶられているような大きな振動が緋月の体へと加わって……。




「――き、おい緋月っ! 起きろっての!」


「……んぅぇ?」


 呆気なく緋月の微睡みの世界は終わりを告げた。


 未だぼんやりと霧がかかったような頭を振って、緋月はゆるゆると顔を上げる。

 緋月が目を覚ましたのは椅子の上。どうやら机に突っ伏して寝ていたようだ。


 未だに状況が飲み込めない緋月は、ぱちくりと瞬きを繰り返しながら辺りを見渡した。


「……くれ、は?」


 そうしているうちに、呆れたようにこちらを見つめるツリ目と目が合った。


 目の前で緋月を見つめていたのは、紺を基調としたメイド服を身にまとった少女――緋月の従姉妹である紅葉くれはであった。


 どうやら緋月を揺さぶり起こしたのは彼女のようだ。


「ったく、お前なぁ……。ちゃんと店じまいしとけって言ったのに、何呑気に寝てんだよ?」


 紅葉がやれやれと頭を振れば、お団子にした焦げ茶の髪に刺さる、もみじのモチーフが付いた簪が見えた。


 紅葉は緋月と同じ齢で十二ほどだが、緋月より遥かにしっかり者で厨房や会計なども任されるほどであった。


「くぁ……と。……あたし、寝ちゃってたんだ」


 緋月は眠い目をこすりながら大きな欠伸を一つ。のんびりと思い浮かんだ事を口にした。


「寝ちゃってたんだ、じゃねぇよ! あのなぁ、看板も外に出たままだったし、札も開店中のままになってたんだぞ?」


「うぇ!? ご、ごめん……」


 依然として呑気な緋月の言葉に、紅葉はツリ目を更につり上げて憤慨した。

 あまりの勢いに緋月は身体をびくりと震わせると、目を泳がせつつ手を合わせた。


 紅葉は心底呆れ返ったようなため息をついて、一体何をやってたんだと聞いてきた。


「え? えっとねぇ、確かお客さんが来て……それから…………」


 緋月は寝る前の行動を思い出していた。

 確か陰陽亭を閉める直前に客が来たはずだ。丁重にもてなしをして、何かを話したあと客人は――。



「……あれ?」


 緋月は首を傾げた。

 最後に客が来てもてなした覚えはある。だがしかし、どうにもその客を見送った覚えがないのだ。


 みるみるうちに青くなっていく緋月の顔色を見た紅葉は、なんだか嫌な予感がして、緋月? と小さく声をかけた。


「……あ、あたし……接客中に寝ちゃったかも……」


 紅葉の予感は的中、緋月は真っ青な顔のまま静かに呟いた。緋月の頬から、たらりと冷や汗が滑り落ちて行った。


「……はぁ!? んなお前っ……バカじゃねぇの!?」


 緋月の衝撃的な発言に、紅葉は目をひん剥いて驚いた。

 あまりの衝撃にどうやら言葉が続かないようだ。紅葉はまるで空気を求める金魚のようにはくはくと口を動かしていた。


「あぅう〜、ごめんってばぁ〜!」


 緋月はすっかり涙目になって紅葉にすがりついた。その耳はしゅんとしたように垂れ下がり、緋月の心情を事細かに表していた。


「お、俺に謝っても仕方ねぇだろっ!? てっ、てかお前っ……! ホントに接客中だったか!? 思い出せ緋月っ!!」


 紅葉はあたふたと慌てながら緋月の肩をガッシリ掴んで、眠る前の行動を更に思い出させようとする。


「えぇと確か……お茶出してお話しして……!! それからそれから……えっと……!」


 緋月はぐらぐらと揺さぶられながら、順々に自身の記憶を呼び起こしていった。


 お茶を入れた事や客人と話をした覚えはある。肝心なのはその後だ。

 確か、お茶を飲み終えた客人は――――。



『妖街道は滅びるよ』



「……ぁ」


 しわがれた声が頭の中にこだました途端、緋月の顔からサッと血の気が引いた。


 緋月は思い出したのだ。客人として現れた老婆がそう残して緋月に術をかけていった事を。


「……っ!! そ、そうだ……聞いてよ紅葉っ!!」


 緋月は言われた言葉を紅葉に伝えようとして、自身の肩に伸ばされている彼女の腕を掴み返した。


「っ! どうしたっ!?」


 腕を掴まれた紅葉は驚いたように身体を震わせる。鬼気迫る勢いの緋月につられて、紅葉の声も大きく切羽詰まったものになった。


「大変なの……! 妖街道が滅びちゃうっ! あたし、おばあさんにそう言われたのっ!!」


 緋月がそう告げると、陰陽亭をしんと静寂が襲った。紅葉は、は、と小さく息を吐くと目を丸くしたまま呟いた。


「な……そ、それって……」


 そのまま紅葉は信じられないというように、信じたくないというように首を振りながら数歩下がる。


 そしてしゃくり上げるように息を吸い込んで――



「ぜぇってぇ夢じゃねぇかぁっっ!!」



 思い切り爆発させた。静かだった陰陽亭の空気が、紅葉の怒号でびりびりと震えた。


「びゃーっ!?」


 耳のいい緋月はその声の大きさと振動に飛び上がって目を剥いた。


「ったく、お前なぁ! 接客中に寝ただ何だ言い出したと思えば! どう考えてもそんなん夢じゃねぇかっ!? もーいい俺が馬鹿だったっ! ほら開店の準備すんぞっ!!」


 紅葉は鬼の形相を緋月にズイと近づけると、額に青筋を浮かべながら怒りの言葉を連ねていく。

 そして最後の言葉と共にピンと緋月の額を弾くと、紅葉は厨房へと去っていってしまった。


「あいたっ!? ……ってちょっとぉ! 夢じゃないってばぁっ!! ちゃんと聞いてよ紅葉ぁ!」


 全く聞く耳を持たなくなってしまった紅葉を追いかけようと、緋月はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。



「……うわっ」


 と、その瞬間、明らかに椅子が誰かにぶつかったような感触と声が伝わった。

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