陰陽亭〜安倍緋月の陰陽奇譚〜
祇園ナトリ
第一章 妖街道編
プロローグ 滅びの予言
濃紫色の空を疎らに泳ぐ赤紫の雲たちが、ポツンと浮かぶ青白い月を覆い隠している。
雲の隙間からもれ出た月の光が、下に広がる街道を静かに照らしていた。
ここは普通の世界では無い。妖怪や物の怪と呼ばれるような怪異たちが集まる、隠り世と呼ばれるような数ある世界の内の一つだ。
この隠り世の名は
ここは、そんな妖街道の一角である壱番街道と呼ばれる場所。
沢山の店が立ち並ぶ妖街道一活気づいた所だが、今はほぼ全ての店舗に「準備中」という旨の看板がかかっていた。
妖街道には朝も昼も来ない。常に夜だけがこの世界に存在している。
しかし、ここにいるほとんどの妖怪が元々は現し世で暮らしてきた者たちだ。
その身に刻まれた現し世の時間が、妖街道での暮らし方にも反映されているのである。
現在は現し世で言えば朝の時刻だ。夜の住民である妖怪たちは皆寝静まる時間帯で、それが故にほとんどの店舗が店じまいをしているのであった。
そんな「準備中」の札が集まる中、『
この『陰陽亭』という店はいわゆる“便利屋”だ。それに加え食事処も経営している為、毎日大勢の客で賑わっている店なのである。
とは言っても現在は妖達にとっての夜であるが故に、店内に客と見られる影は一つも見られなかった。
すると、その店内から少女が一人、亜麻色の髪の毛と緋色の装束を揺らし、楽しそうに鼻歌を歌いながら現れた。
少女の名は
どこか楽しそうな緋月は店の前に置かれた看板を持ち上げ、扉にかかる「開店中」と書かれた札に手を伸ばした。
「――もし」
だがその矢先に、しわがれた声をかけられて緋月は弾かれたように振り向いた。いつから居たのか、そこには老婆が一人。
「わっ!?」
緋月は驚いて小さく声をあげると、ぱちくりと瞬きを繰り返して老婆をみつめた。老女の顔は白く艶の失われた長い髪で覆われていてよく見えないが、少なくとも見覚えのある者では無い。
いくら広いとは言え、妖街道は閉鎖された隠り世だ。故に、緋月はある程度の妖怪とは顔見知りであったのだ。
「まだ、いいかな」
老婆は不思議そうな表情の緋月を気にすること無く腕を持ち上げ指さすと、表情を変えずに淡々と問うた。緋月もそれに合わせて指された方向を振り返った。
「……あ」
そうして振り返った緋月の目に入ったのは「開店中」の札だった。どうやら老婆は、未だこの札を掲げていた陰陽亭を見て話しかけてきたようだ。
「あ……えっと……ごめんなさい! 今丁度お店終わっちゃって、今あたし一人しかいないの」
しかし今は間が悪かった。
もうすぐ妖街道は夜中。その影響で客の流れが途切れた為、緋月は丁度店を閉めようとしていたのだ。
その上現在陰陽亭には緋月一人。何を隠そう緋月は基本接客や便利屋の担当である為、料理というものが一切できないのだ。
それが故に老婆に料理を提供することは不可能に近いのであった。
「……そうかい、そりゃすまなかったねぇ」
困ったような緋月の返答を聞いて老婆は首を横に振る。そして少しの間の後、静かに謝罪の言葉を呟くと、おもむろに踵を返して歩き始めた。
どこか寂しそうにゆっくりと遠ざかっていく背中。
それを見た緋月はとても申し訳ない気持ちになって、去りゆく背中に思わず声をかけていた。
「……っ、あの! あたしお料理とかできないからお茶だけしか出せないけど……、それでも良かったらどうぞっ!」
緋月はそう言うと、扉を開けて老婆を招き入れる様に手を差し出す。
陰陽亭のモットーは「お客様第一」なのだ。営業時間を少し伸ばすくらいなんてことない。
老婆にもその言葉が届いた様だ。彼女はぴたりと足を止めると、ゆるゆると身体ごと振り向いた。
「あぁ、そうかい。すまないねぇ、ありがとねぇ」
そして心無しか嬉しそうな声で礼を告げると、ゆっくりとこちらまで歩み寄ってきて、そっと緋月の手を取った。
「いえいえ! ……いらっしゃいませ! 陰陽亭へようこそっ!」
緋月はニパッと明るい笑顔になると、老婆の手を引いて陰陽亭へと招き入れた。老婆の歩く速度に合わせてゆっくり、ゆっくりとカウンター席へと案内する。
「今お茶入れてくるからちょっと待っててね!」
緋月はパタパタと自由扉を抜け厨房へと駆け出すと、真剣な顔になり慣れない手つきでお茶を入れ始めた。
普段、緋月がお茶を入れることはない。その為、失敗しない様にといつも
そんな緋月の様子をカウンター席の向こうから静かに見守っていた老婆は、緋月に触発され、何かを思い出したようにポツポツと話を始めた。
「……お前さんを見ていると、昔にいた陰陽師を思い出すねぇ」
「ほぇ、陰陽師?」
「そうさねぇ、大昔の話だよ。ある所に一人の陰陽師が居たんだ。そいつは天性の才能持ちでねぇ、どんな事でもすぐにやってのけたのさ。その上人間にも妖怪にも分け隔てなく優しくてねぇ、皆から“
まるでその陰陽師を見た事があるかの様に語る老婆に対し、緋月は目を輝かせ、ふんふんと鼻息荒く相槌を打ちながら聞いていた。
「うわぁ、すごい! 昔にはそんなすごい人が居たんだね! ……でも、どうしてあたしのことを見てその人のこと思い出したの?」
緋月は聞いているうちにお茶を入れるという使命をすっかり忘れ、興味津々に老婆の話に聞き入っていた。
「そいつはねぇ、自分がやると決めた事はどんなに小さな事でも真剣な顔をしてやっていたのさ。お前さんが真剣に茶を入れているのをみたら、何だかその陰陽師の事を思い出しちまったんだよ」
老婆はそんな緋月をみて微笑むと、まるで昔を懐かしむかのように言葉を連ねた。
それを聞いていた緋月は自分がお茶を入れていたことを思い出し、老婆の言葉にハッとして慌ててお茶を注ぎ始めた。
「……それに、そいつが凄いのはそれだけじゃあないさ。他にも悪さをしていた妖怪を懲らしめたり、大地が干上がっちまうって時に雨を降らせたりしてねぇ。本当に強かったのさ、その陰陽師は」
老婆は髪を揺らし、片目をつむって更に話を続ける。ゆっくりゆっくりと紡がれる言葉は、まるで読み聞かせを行っているかのように丁寧に並べられていた。
「えぇっ! すごーいっ!」
老婆が話す間にお茶を注ぎ終えた緋月は、目をキラキラとさせつつ相槌を打った。既に緋月の頭の中は、凶悪な妖怪たちを薙ぎ倒す強くて格好いい陰陽師の姿でいっぱいなのであった。
「いいなぁ、あたしもなれるかな? きだいの陰陽師っ!」
「おや、お前さんも陰陽師になりたいのかい? あいつ――あの
――安倍晴明。
その単語を聞いた途端、緋月はハッとして目を見開き、ピコと耳を動かして老婆を見つめた。
「あべの……せいめい?」
「おや、聞き覚えがあるのかい」
目を
「うん、あるよっ! あのね、あたしも安倍っていう名前なの! だからね、あたしその人の名前も聞いたことあるんだーっ!」
緋月は元気よく答えると、その場でビシッと自身が格好いいと思う構えを取った。気分はまるで凄腕の陰陽師だ。
「そうかいそうかい……お前さんならきっと、晴明よりも凄い陰陽師になれるよ。そうに違いないさ」
老婆はそう言いながら目を細めると、しわがれた声で小さく笑い声をあげた。その様子はまるで、孫を姿を優しく見守る祖母の様であった。
「本当!? えへへ、嬉しいなぁ〜!」
老婆の手放しの褒め言葉に、緋月はその場でぴょんぴょんと跳ねて喜びを表現した。
「……さて、もうお茶、貰ってもいいかな」
しばらく喜ぶ緋月を見守っていた老婆だったが、注がれたままになっているお茶を見て、やれやれと苦笑しながら声をかけた。
「はっ! ご、ごめんなさい! はい、どーぞ!」
自身が
「どうもねぇ……うん、美味しい」
老婆は静かにお茶を飲み、しみじみと呟いた。それを聞いた緋月はホッとしたように息を吐いた。どうやら自分にも上手くお茶は入れられる様だ。
「……さて、そろそろお暇しようかねぇ」
そうして老婆はゆっくりとお茶を飲み干すと、そう言いながらおもむろに立ち上がった。
「あ、お茶だけだからお代は大丈夫だよ!」
緋月はそう言うと素早く厨房を後にし、笑顔のまま老婆に歩み寄る。
「……あぁそうだ。最後にもう一つ、話をしようかねぇ。お茶の礼だよ」
老婆が扉に手を掛け外に出ようとしたその瞬間、彼女はふと思い出したように足を止めて緋月の方を振り向いた。
「――! なになに? 何のお話?」
緋月はその言葉に、また嬉しそうに老婆に駆け寄った。また何か面白い話が始まるのかと思い、しっかりと老婆の顔を見つめ、彼女が言葉を発するのを待っていた。
「いいかい、よく聞くんだよ。ちょいと大変な話だが、お前さんにとっても大切な話だからねぇ」
老婆は今までとは違う空気をまとい、一度忠告を挟んで話を切った。その言葉にただならぬ何かを感じ、緋月も真剣な顔になってスっと背筋を伸ばした。
「――ここは、妖街道は近いうちに滅びるよ」
「――ぇ」
淡々と突きつけられたのは、突拍子も
突如降って湧いた思いもよらぬ話に、緋月は言葉を失ってふらりとよろめく。老婆はそんな様子の緋月に目もくれず、静かに話を続けていく。
「なに、今すぐ滅びるって訳じゃあ無いよ。このまま何もしなければ、の話さ」
「な……、なんで……!? どうして!?」
緋月は動揺したまま老婆へと詰め寄って、その勢いのままに問いただす。先程までの和やかな空気はどこにも無い。ただ老婆の言葉が、冷たく緋月に刺さるのみであった。
「静かにおし」
老婆は詰め寄ってくる緋月の顔にそっと骨ばった手を添えると、空いてるもう片方の手でふわりと術をかけた。
「――っ!」
瞬間、頭にもやがかかり体はぐらりと揺れ始める。咄嗟に老婆の腕を掴まなければ、恐らく緋月はその場に倒れてしまっていただろう。
「急ぐ必要はないと…………だろう……とにかく……まで……を…………」
老婆はそのまま言葉を続けたが、術にかけられ急速に意識が遠のき始めた緋月にはもう、その言葉を聞き取ることすらできなかった。
「……今は……眠り………安倍……の…………」
「…………な……」
緋月は懸命に老婆の紡ぐ言葉を聞き取ろうとしたが、思いも虚しくそれよりも先に体の限界が訪れ、そのまま老婆にもたれ掛かるように倒れ込んでしまった。
老婆の言葉はもうハッキリと聞こえない。遠く離れたところで、声だけがふわふわと響いているのみだった。
『――――緋月』
不意に、遠のいていく意識の中で老婆では無い誰かが自分の名前を呼んだのを聞いた気がして、緋月は微かに目を開けた。
「……っ…………」
その声に聞き覚えは無い。なのに、どうしてか懐かしい。
――誰が、あたしを呼んでるの……?
そんな奇妙な気持ちに囚われたまま、緋月の世界はプツリと暗転するのであった。
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