一話 ︎︎夢?(二)

 緋月が慌てて振り返ると、いつの間にいたのかそこには自身の兄である十六夜いざよいが立っていた。


「……あ、おにぃ!? ご、ごめんっ! 大丈夫だった?」


 慌てて謝った緋月に、十六夜は気にしないでと端正な顔を優しい微笑みに染めた。


「それより、二人とも大きな声なんか出して何かあったの? ……もしかして、喧嘩?」


 どうやら彼は後から来たようで、先程の一悶着を見ていなかったようだ。兄は心配したような表情で、先程まで響いていた紅葉の怒声の原因を問うた。


「喧嘩じゃないよ! 紅葉があたしの話聞いてくれなかっただけ!」


 十六夜の問いに、緋月はふるふると首を横に振って否定する。少し怒ったように頬を膨らませれば、十六夜はキョトンとして首を傾げた。


「話? 何かあったの?」


「き、聞いてくれるのっ!?」


 完全に聞く体勢になった十六夜を見て、緋月は耳をピンと立て驚きを表現する。


「……? うん、聞くよ。聞くだけならいくらでもできるからね。……それに、可愛い妹の話なら尚更だよ」


「お、おにぃ……っ!!」


 まるで聖母かのように微笑んだ兄に、緋月は喜びと尊敬の入り交じった視線を向ける。


 しかし次の瞬間にその視線は、焦ったような困ったような真剣なものになりそのまま言葉を続けた。


「あのねあのね、あたしおばあさんに言われたのっ! ここが、妖街道が滅びちゃうって!」


「…………、ここ……が?」


 まるで百面相のように表情が変わる緋月を静かに見守っていた十六夜だったが、緋月の言葉を聞いて伏し目がちな黄金色の目を軽く見開いた。


「そうなのっ!!」


「……、そっか。それは……大変だったね」


 勢いよく肯定した緋月の頭を、心配そうな表情で撫でる十六夜。


「お、おにぃ……っ!」


 緋月はその眼を嬉し涙に湿らすと、気持ちよさそうに目を閉じて十六夜の掌から伝わる体温を感じていた。



「ごめんね、もう少し仕事減らすから……。ふふ、お疲れ様」


 そう、遠回しに、疲れているのだね、と言われるまでは。


 先程まで聖母かのように見えていた兄の微笑みは打って変わって、何処かイタズラ好きな小悪魔の微笑みに見えた。


「えぇっ!? お、おにぃまで〜っ!! ちゃんと聞いてよぉ〜っ!」


 小さく笑いながら優しく落胆する緋月の頭をぽんぽんと叩いて、紅葉と同じく厨房に去っていく十六夜。

 緋月は先程と違う感情で瞳を濡らしながらそれを追いかけた。



「お前……一体いつまで夢の話してんだよ……」


 兄を追いかけ厨房までたどり着いたところで、先に準備を始めていた紅葉が呆れたような声をかけた。


「ゆ、夢じゃないよぉっ!」


 悲しげな涙目で否定する緋月を見て、紅葉はやれやれと頭を振った。


「はいはい、分かったからお前、外の掲示板見てこいよ。多分なんか増えてると思うし」


 紅葉は呆れ顔のまま、緋月に外に置いてある掲示板を見てくるように言いつける。


 この掲示板というのは、陰陽亭への依頼を貼り付けておくためのものだ。

 もしかすると、ここに自分が言われたような内容の依頼が貼ってあるかもしれない。


「……はっ! そうだ、掲示板! わかった、ありがとう紅葉っ!」


 緋月はその事に気がついてハッとすると、嬉しそうに紅葉に礼を告げて駆け出して行った。


「何がだよ……」


 紅葉は何故礼を告げられたのかわからず半眼になって静かに呟く。

 十六夜はそんな二人の様子を優しく笑いながら見守っていた。



***



「えーと妖街道が滅びる、妖街道が滅びる……」


 緋月は不穏な言葉を繰り返し呟きながら、目当ての依頼を探していた。


 しかし、ここにある依頼は失せ物を探して欲しいだの暇な時に手を貸してほしいだのの緊急性の無いものばかりであった。


「…………うぅ、やっぱり無いかぁ」


 それもそうだ。緊急性のある依頼は基本、直接陰陽亭に持ち込まれる。

 だから『妖街道が滅びる』などという超緊急の依頼がここに貼ってある訳がないのだ。


「おい緋月ーっ! いつまでも見てんなよーっ! さっさとこっちも手伝えーっ!!」


 未練がましくいつまでも掲示板を見ていると、陰陽亭の中から再び紅葉の怒号が飛んできた。


「うわぁっ! ご、ごめん今行くーっ!」


 緋月は慌てて返事をしてから、最後にもう一度掲示板を眺めた。

 当然のように求めた文字はどこにもない。


「……はぁ、やっぱり夢……だったのかな」


 緋月は視線を落として小さく呟くと、再三紅葉の怒号が飛んで来る前にさっさと陰陽亭の中へと引きあげたのだった。

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