アオハル3Days~記憶喪失の幽霊は和歌を詠む~

千賀春里

第1話

『春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも』


まだ冷たい春の風が吹き込む日、茜色の光が差す夕方の窓辺に空気に溶け込むような声で歌が詠まれた。



『彼』は突然現れた。



〈一日目〉


 三年生が卒業し、桜の散る頃に新学期を迎えた春香は高校三年生になった。中学からソフトテニス部に所属し、練習の成果もあり人よりも上手だった春香は高校では一年生でレギュラーに選ばれた。

 

 しかし、それを快く思わない一学年上の先輩達から嫌がらせをされたり、次第に同級生からは無視されるようになった。部活内での風当たりは日に日に強くなり、春香は部活に居づらくなった。部活に出なければそれを責められる。


 ある日、顧問の先生に呼び出された。

 何か辛い事があったら言えと。

 その若い男の先生は春香の様子がおかしいことを気にして、心配してくれていた。

 

 そこで素直に打ち明けられれば良かったと思う。

 だけど、先生や親を巻きこんで大事にしたくなかった。


 無理しなくていい。一緒に考えるからと。

そう言われて心が揺れた。だが今年離任して学校を離れてしまった。


 春香自身も、大好きなソフトテニスを辞めたくなくて、ここまでしがみついて来た。


「でも、もう限界よ」


 、今の部に自分の居場所はなく、受験勉強に集中したいと言えば今の顧問は止めないはずだ。


 放課後の教室で退部届に自分の名前を書く。

 

 その時、どこからか視線を感じた。


『春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも』


 ふいに窓の方を向くと少年が空気椅子に座り、興味深そうにこちらを見ていた。


冷たい風が入り込む窓の外に少年の姿がある。

しかも浮いているし、身体も少し透けている。


『あれ、ひょっとして俺のこと見えてる?』


残念ながら視える。

おかしい。自分にそんな能力はないはずなのに。


『ちなみに今のは大伴家持が霞たなびいて物悲しい春の野に夕暮れの光の中で鶯が泣いているのを詠った。覚えとけ』


 味のある歌だ、とまるで自分が考えて詠んだかのように少年は言う。


 いきなり古典の知識をひけらかされた。古典の授業でなんとなくは知っている歌人よりも気になることが多すぎる。


とりあえず、宙に浮いている理由を教えてくれ。


『お前、部活止めるってことは暇だろ?』


ずいっと顔を近付けて少年は言った。

垂れ目が印象的な優しそうな顔は愛嬌があり、整った少年の顔に思わずドキッとしてしまった。


『俺が誰だか調べてくれないか?』


それが幽霊、木村との出会いだった。



〈2日目〉


「あんた、本当にこの学校の生徒なの?」

『それ以外考えられないだろ?』


 そう言って木村は自分の着ている制服を指す。

 間違いなくこの学校の男子制服である。ご丁寧に上履きにまで木村と書かれている。


「何か覚えてることはないの?」

『部活はしていた気がするんだよな』


 木村には記憶がない。気付いたら体育館にいたらしい。

  

 部活に未練のある幽霊なのかしら。


 手掛かりを得るために春香は図書室でここ数年の卒業アルバムを片っ端から捲っていった。

 しかし、木村という生徒は一学年に十人以上はいるありふれた苗字でこの学校の卒業生の木村はかなり多い。


 卒業写真に木村の姓を見つける度に、目の前の木村と比較してみるが、明らかに該当しない。目の前にいる木村は顔がかなり整っている。

 垂れ目だが目鼻立ちがはっきりとしていて、きっと生前はかなりモテたと思う。


『ん? 何だよ?』

「何でもないわよ」


 しっかりしなさい、春香。相手は幽霊なのよ。


 春香の視線を感じて振り向く木村から慌てて視線を逸らす。


 去年の分から遡って十五冊目、未だに見つからない。


 古株の先生を捕まえて、亡くなった生徒がいなかったか訊いてみたが無駄骨であった。みんな欠けた生徒は多いけど在学中に亡くなった生徒はいないという。


『俺って本当に誰なんだろうな?』

「知らないわよ」


 こんな顔が良ければすぐに見つかると思っていたのに甘かった。

 春香は休憩を兼ねて机に突っ伏し、項垂れた。


 春香がこんなに頑張っているというのに、木村は本棚を眺めては感嘆の声を漏らす。


『森鴎外の舞姫は読んだか?』


「現代文の授業で少しだけなら……」


『あれはいいぞ。出世と恋の狭間で揺れる男の苦悩が読みやすく書かれてるからな』


この幽霊、木村は自分のことは覚えていないのにこうした一般教養はしっかりとしていて、作家に詳しい。


東野圭吾や三浦しをんの名前が資料集に乗っていることも知っていた。

ちなみに春香は知らなかった。


春香は大きく息をつき、背もたれに寄り掛かる。


天井付近を浮遊する木村を見上げて、呑気そうな彼の振る舞いに毒づきたくなった。



「春香」


 春香が机に突っ伏していると、声が掛かる。


 そこには同じソフトテニス部の亜理紗がいた。

 何か物言いたげな目でこちらを見ている。

 

 以前は部活で一番仲が良かった子だ。だけど、先輩と一緒になって自分の悪口を言っていた所に遭遇してしまい、それ以降は口を利いてもらってない。



「何?」


「前の顧問だった木村先生いたじゃない?」


 そう言えばあの先生も木村だったなと思い出す。確か古典の木村翔太先生だ。


 やはり、木村姓は多いのだ。


「事故に遭って意識不明の重体で入院してるらしいの。一緒にお見舞い行かない?」


 驚きの一言に春香は目を丸くする。


 絶句したままの春香に、亜理紗は続ける。


「それと……部活来ない? また一緒にやろうよ。私達、春の大会で終わりでしょ? 最後に思い出を一緒に……」


亜理紗の言葉を遮るように春香は立ち上がる。


「随分と虫がいいのね。私のこと孤立させて、みんなで無視しててくせに」


 春香の一言に亜理紗は泣きそうな顔をする。

 そんな亜理紗の顔を見ると自分が悪いことをしている気持ちになり、居たたまれない。


 悪いのはそっちじゃない! 私の事が嫌いだから無視してたくせに、今更なんなのよ。


 心の中で悪態をつき、広げた卒業アルバムを閉じた。


「先生のお見舞いは一人で行く」


一緒にはいかない、そう言って図書室を後にする。


『おい、あの子泣いてたぞ。良いのかよ』

「泣きたいのはこっちよ」


 自分の居場所はあの部にはない。彼女達が私をあそこから追い出したくせに今更戻ってこいだなんて虫が良すぎる。


『お前、いじめられてたのか?』

「そうよ。一個上の先輩にいじめられて、同級生には無視されてたわ」

『でも今は先輩はいないだろ?』

「でも、彼女達は私を無視し続けた。私が気に入らないからよ」


 そう言うと木村は空中で腕を組み、嘆息する。


『子供だな。大人になれよ』

「は?」


『人が変れば周りも変わる。周りが変れば環境も変わる。環境が変れば考え方も変わるんだぜ?』

「……だから何よ?」


『彼女は確かにお前を無視したのかもしれないけど、無視したくて無視してたかどうかはわからないだろ? 先輩や周りの目、それが怖かったのかもしれない。もし、自分がいじめられたらどうしようって思ってたかもな』

「それは……」


『自分のことで精一杯だったのかもしれない。でも、お前のことを傷付けたいと思っていたわけではないかもしれない。それは彼女にしか分からないけど、本当に嫌いならわざわざお前を誘いに来るか? 断られたぐらいで泣くか? 泣くのは過去の自分に後悔してるからじゃないか?』


 まくし立てるように木村は言う。


『人には色んな事情があるんだよ。お前が今、彼女の気持ちを考えられないように、彼女もお前の気持ちを考えられる余裕がなかったんだ』


 そこまで言われると春香は黙り込む。


 木村の言う通り、亜理紗の気持ちを考えたことはなかった。

 自分が逆の立場だったなら、自分はどうしていただろうか。

 きっと亜理紗と同じ行動を自分もしてしまう気がする。


『彼女の行動は好ましいものじゃない。でも誰だって間違った選択をする時はあるんだ。それを理解して許してやるのが大人だ』


 そう言ってずいっと顔を覗き込まれると、どきっとしてしまう。  


 幽霊のクセに。大人びたことを言うなんて。


 少しだけ熱くなった頬を隠すように、卒業アルバムを立てて木村との間に壁を作る。


 木村の言う通り、自分ばかりが追い詰められて、視野が狭くなっているのかもしれない。


「……明日……もう一度話をしてみようと思う」


自分の気持ちを整理して、亜理紗の話も聞いてみようと思えた。


「話をしてくれると思う?」


『お前が相手を思いやれれば大丈夫さ』


そう言って木村は笑う。

その笑顔が自分の背中を押してくれているようでとても心強かった。




〈三日目〉


春香は放課後の体育館の扉に張り付いていた。

開けっ放しの扉の影に隠れて、みんなの練習する様子を盗み見ると、この前とは全く違う部活の雰囲気に驚いた。


一人一人の表情が明るく、生き生きとしている。

先輩達がいた時とは違い、みんなが楽しそうにラケットを振っていた。


それを見ると無性に羨ましくなる。


あの中で自分もラケットを振りたい、そんな風に思ってしまう。


『ほら、さっさと行けよ。部活終わるぞ』

「うるさいわね、分かってるわよ」


そう思いながらも今一歩、あの中に歩み寄る勇気が出ない。

躊躇っている春香に木村は言う。


『又や見む交野のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの』


 突然、木村が歌を詠む。


 こんな緊張が高まっている場面で何のために詠んだのか教えてほしい。


『藤原俊成が桜が雪のように美しく舞い散る景色に感動して、この素晴らしい景色は二度と見ることは出来ないだろうと言って詠んだ歌さ』


二度と見れない美しい光景に感化され、その素晴らしさを歌で残したと木村はいう。


『全く同じ時間を繰り返すのは不可能だ。俺もお前も彼女達もみんな過ぎ行く時間の中で生きている。やり直しのきかない時間の中でだ。二度と同じ時間は過ごせない。人生は一度きりだからな』


そう言って木村は春香に微笑む。


『友達と喧嘩して仲直りの機会を伺うお前の今この瞬間も二度目はない青春の一ページだってことだ』


 この先何度も同じ思いをする訳じゃないのだ。怖いのは一瞬だけだと思えば気持ちも軽くなる。ここで亜理紗達と向き合うことから逃げたら、きっと凄く後悔する。


 一度きりの、私の人生。決めるのは自分だ。


「春香?」


その声に呼ばれて顔を上げると体育館の中央から、亜理紗が小走りでやってくる。

思わず逃げたくなる衝動に駆られるが、木村と目が合う。


逃げるな、そう言われた気がした。


「来てくれたの……?」


春香の存在に気付いた他の部員もボールを放り出し、集まって来てしまった。


「あのね……亜理紗、私……」


昨日は酷いことを言ってごめん、そう謝りたかった。


「「「ごめんなさい」」」


その光景に春香は目を丸くする。


部員全員が春香に向かって頭を下げていたのだ。

戸惑う春香に亜理紗は口を開く。



「ごめんね、私達も先輩達が怖かったの。自分がいじめられるのが嫌で、春香のこと無視して、仲間外れにしてきたの!」


亜理紗は震える声で胸の内を春香に打ち明ける。

その悲愴な表情から亜理紗は他のみんなの苦しさが伝わり、春香も胸を詰まらせる。


「でも、私達みんな春香のこと好きだし、全然嫌いじゃなかった。でも、あんな態度取ってるくせに普通に話し掛けたら春香に酷く嫌われるかもしれないと思うと、話し掛けられなくて」


木村の言葉を思い出す。


人それぞれに事情があるのだと。


「春香のこといっぱい傷付けたけど、もうそんなことしないから! 悪い事だって分かってたのに、間違ってるって思ってたのに……ごめんなさいっ!」


亜理紗が深く謝罪すると他の部員も涙ぐみ、頭を下げた。


「もういいっ!」


気付けば視界がぼやけ、鼻の先がつんとする。


「私の方こそ、ごめんなさい。亜理紗に昨日のこと謝りたかったの。私、自分のことで精一杯で亜理紗やみんながどんな思いでいるのか全く考えられなくて」


木村が諭してくれなければみんなの気持ちに気付けなかっただろう。


「私、また一緒に部活したい……良いかな?」


声が震えた。頬にぼろぼろと涙が零れる。


「また一緒にしてくれる?」


春香の問いに全員が笑顔で頷いた。

みんなが涙の花を散らし、春香を取り囲む。


それから部活が終わるまで、鼻を啜りながら色んな話をした。


先輩達が春香の実力に嫉妬していたこと、顧問の木村先生がやたらと春香を気にしていたことが気に入らなかったらしいということ。


他にもきつく当たられていた部員がいること。

もっと早く、春香に謝りたかったけど近寄りにくかったこと。


「なんだか、昨日は機嫌が良さそうに見えたの。何か楽しそうで、良いことがあったのかと思ったの」


亜理紗がそう言うと、他の部員が茶化しに入る。


「何? 恋でもした?」

「えっ」


一瞬、木村の顔が思い浮かぶ。


私、もしかして木村のことが好きなの?

幽霊なのに!?



「誰? どこのクラスなの?」


亜理紗とみんなが興味津々で追及してくる。


「い、いや……その……」


言える訳ない。幽霊を好きになっただなんて……!


「絶対言えない……!」


そこからは攻防を繰り広げ、制したのはもちろん春香だ。



『良かったな』

「ありがとう! 明日からまた部活に行けるわ!」


嬉しさで胸が躍る。しかし、そうなると木村のことはどうするべきか。

暇ではなくなる春香は放課後の時間は使えなくなるので昼休みの時間を上手く使わなければならない。


『いや、もうその必要はなさそうだな』

「え?」


すると、木村の身体が淡い光に包まれ、溶けるように消え始める。


「ちょっと待って! どうして⁉」

『分からないけど、なんだか凄く、すっきり~な感じ』


そんなことを言っている間にも木村の身体は消えていく。


「待ってよ!」

『春の夜の夢の浮橋とだえにして峰に別るる横雲の空』


こんな時にまで歌か!!


『春の夜の夢が途切れて目覚めると空には横にたなびいた雲が峰から離れていく様子を藤原定家が詠ったものだ。お前は辛い夢から覚めたんだ。心の雲が晴れて、青春という時間が流れ出す。雲の流れは速いからな。あっという間だぜ』


 そう言って木村は満足気な顔をする。


『じゃあな』

「待って! 私、まだ、あんたに……」


 春香が止める間もなく、完全に消えてしまった。


「ありがとうって言ってないのに……」



〈病室にて〉


規則正しい機会の音が異変を知らせ、看護師達が騒ぎ始めた頃、木村は目を覚ました。


 長い夢を見ていた気がする。


 昨年度まで勤めていた学校の部活の生徒が部活を辞めようとしていて、苦悩の末に部員達と和解して、再び部活動に励む夢だ。


 悩みを聞いても、本心を打ち明けてくれないその生徒のことが気掛かりで、もし自分が同じ学生だったなら、相談してくれたかもしれないと考えていた。


 今はどうしているだろうか。

 辞めていなければいいなと、思う。


「木村さん! 大丈夫ですか⁉ 先生、木村さん目覚めました!」


 ちなみに言うと全然大丈夫じゃない。あちこちが痛くて仕方ない。

特に後頭部がガンガンする。


「木村さん、ご自分の名前、言えますか?」

「木村翔太です」

「お仕事は?」

「高校の古典教師です」









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