差出人のない手紙

月波結

手紙

 こんな手紙が来てたのよ、と、ただいまを言う前に母は私に一通の手紙を渡した。

 丁寧に書かれた文字は、確かにうちの住所と私の名前を綴っていた。坂月なお様。印字ではない、手書きの文字。跳ねるべきところで跳ね、流すべきところで流れる、流麗な文字。

 それを確かめてから自然な流れで、そのアイボリーの封筒を裏返してみると、そこには、あるべき差出人の住所どころか名前もなかった。

 母は、こんな手紙、ストーカーみたいで気持ち悪いじゃない、と言ったので、私も言われてみるとそんな気になってきた。

 でもそれを上回る好奇心が、その手紙を開ける動機になった。

 宛名の美しい文字。

 あの文字で何が綴られているんだろう······?

 母には大丈夫だよ、と言って、二階の自分の部屋に向かった。


 消印は『美浜』。うちの学校の通学圏内だ。

 机の一番上の引き出しからはさみを取り出して、中身に傷をつけないようにそっと封を切る。

 ――そこには「元気にしてますか?」とたった一言書かれた、封筒と同色の便箋が一枚入っていた。

「元気にしてますか?」

 書かれていた言葉を反芻する。

 特に怪我もしていないし、持病もない。風邪さえひいていない。

 つまり、元気だ。

 心の中でそっと「元気です」と答えた。

 ただしここにも差出人の名前はなかった。

 制服を脱がずに、手紙を持ったままベッドに転がる。当然のことながら、差出人が気になる。


 どうしてこの人は自分の名前を書かなかったんだろう?

 どうしてLINEや他のSNSじゃなくて、手紙なんだろう? 近しい人ではないことは確かかもしれない。

 そう言えばお母さんが、昔は携帯もなかったから『家電いえでん』と『手紙』が通信手段だったのよ、と言っていたのを思い出した。

 ······昭和?

 平成生まれのわたしにはいまいちピンと来ないけど、届けたい言葉をすぐに届けられない時代があったんだ。不便じゃなかったのかなぁ。


 じゃあ、差出人は昭和の人なの?

 それはあまり考えられない気がした。誠実さを表していた文字は、若葉のように新鮮だった。

 差出人の書いていない手紙。

 返事の送りようもない。

 私は「元気」の一言をなんとなく持て余して、心の中にしまった。不思議な出来事だった。


 それからその手紙は鋏と一緒に引き出しにしまわれた。レスもできないんじゃ仕方ない。

 ただ、その出来事はわたしの心の中に「ことり」と小さな石を放った。一カラットのダイヤほどの大きさもない、小さい石。


 自分で言うのもなんだけど、わたしはごく普通の一般的な女子高生だ。女子高生と言っても、入学してまだ今は六月初旬。制服に汚れもない。

 高校生になったという理由で、傘を買い替えた。いつダメになってもいいビニル傘ではなくて、雨の日でも晴れた日の空のような青い傘。ぐるりと黒の縁どりがついて、そこだけ空が切り取られたかのように見える。


 あ、燕。

 雨宿りなのかな。軒下にとまってる。


 なんだかいつもよりぼーっとしてるんじゃないの、と後ろからさっちゃんに話しかけられる。わたしはドキッとしてスイッチを切り替えた。

 梅雨だからぼーっとしちゃうよねぇ、頭痛い、と言いながらののちゃんが、さっちゃんの傘の後ろからぴょこんと顔を出す。

 ふたりは通学が同じ沿線で、いつもと同じ電車で来ると、学校までにひとつしかないコンビニの前辺り、つまりここでわたしと鉢合わせることが多い。


 わたしはおはよう、を習慣的に伝えて、うーんと考えた。

 ――話すべきだろうか? それとも黙ってる?

 話したらドン引きされるかもしれない。全くもって普通とは思えないから。

 でも入学したばかりで仲良くしてる女子グループの一員としては、隠し事はできるだけしたくはなかった。


「元気にしてますか?」

 どうして一言だけだったんだろう? その先は思いつかなかったのかもしれない。

 でも、どうしても手紙で送りたいと思った相手の気持ちはよくわからない。

 どうして? なんで?

 それがわかれば話しやすいのに。いっそ面と向かって······それはないか。


 なお、なーお。

 ああ、呼ばれてたのに自分の世界に入ってたみたいだ。

 えーと、と慌ててしまって、自分の行動の理由を隠すことはあまり得策ではないような気がしてきた。


 わたしは突然、日常に滑り込んだについてふたりに話した。と言っても短くてすぐ話は終わったけれど。


 ――それ危なくなーい?

 なんでもはっきり言葉にするさっちゃんが、少し怒ったような声でそう言った。

 大体、なおはしっかりしてそうに見えて、やっぱりひとりっ子体質なんだよ。自分のことじゃないみたいに言ってるけど、なんかあったらどうするのよ。相手はアンタの住所知ってるんだよ? ひとりの時に家に来られたり、待ち伏せされたらどうすんの? ヤバいって。


「ひとりっ子体質」ってなんだろう、と思いながら、だよねぇと空気を読んで返事をした。


 でも見方によってはすっごいロマンティックなんだけどー、と、ののちゃんがいつになく身を乗り出す勢いで喋り始めた。

 えー、いいなぁ、小説みたい。わたしももらってみたーい。あー、でもやっぱりちょっと怖いかも。なんで住所知ってるのかな。なおちゃんはどっち? ねぇ?


 どっちかなぁ、と今度は頭の中でののちゃんの言ったことを咀嚼しながら考えた。

 気持ち悪い? それともロマンティックなの?

 だけどそれまで考えたよりいい答えは見つからなかった。


 なるほど。これがロマンティックってやつかもしれないんだ。

 わたしはまだ誕生日の来ない十五歳。年齢=彼氏いない歴だ。

 ロマンティックについては勉強不足。恋や、ましては愛なんて、王子様やお姫様くらい遠い存在だ。イメージとしては白い馬?

 自分で考えててくくっと笑ってしまう。小説の読みすぎ。慌てて古文の教科書を盾のように前方に立てる。

 もしお姫様だったら、見知らぬ相手に思いを馳せて、大きな宮殿の窓から夜空の星を眺めるかもしれない。

 その星はいつもより輝いて見えるんだろうか? 流れ星がすーっと尾を引いたりするんだろうか?


 王子様······。


 気がつくと古文は終わっていて、幸い先生に見つかることなくさっちゃんたちに笑われた。

 まさか『手紙の彼』のことを想ってて、夢の世界に入っちゃったんじゃないの、とさっちゃんはニヤリと冷やかした。

 確かに古文はつまらなかったから残りの半分はそうかもしれない。気にならない、と言ったら嘘になる。

 だから、あははと笑ってごまかすことしかできなかった。


 ぽつぽつと雨が降やむことのない中、傘をさしてひとり、家に帰る。

 ふと、さっちゃんの言葉が蘇る。

 待ち伏せ?

 そんなことってあるかな?  あったら怖い。

 引きこもりの男の子が思い詰めた表情で、なんて怖い。こういう時ほど想像は豊かになる。


 でも呆気なく家に着いて、いつものようにポストを開ける。中には夏期講習のダイレクトメール。『1年生からライバルに差をつけろ!』。入学したばかりでそんな実感はない。とまた、昨日と同じ封筒······。雨で宛名が少し滲んでしまった。

 ただいま、と言って靴を脱ぎ、足早に部屋へと向かった。


 差出人はなし。

 焦れったい。鋏で開けるのももどかしい。

 きれいに三つ折りにされた便箋には、また几帳面な文字。

「こんにちは。元気にしてますか? この前に出した手紙はテンパっちゃって、中途半端でごめんなさい。自分でも恥ずかしいです。

 自分のことを書くのが苦手です。

 でも坂月さんに、僕のことを少し知ってほしくて。今はまだ名前を書く勇気がないけど。」


 読み終わってからどれくらいだろう? 立ったままの姿勢で便箋を眺めていた。


 ――誰だろう?

 こうなるとますます相手のことが知りたくなる。

 封筒を裏返し、宛名をまじまじと見る。

「坂月なお様」

 フォントで言うなら教科書体。こんなに整った文字で、私の名前を書かれたことがあるかな?

 ダイレクトメールの宛名はもちろん活字。死んでいる、

 机の椅子に腰を下ろして、ひとつ、ため息をつく。これじゃ、ヒントの少ないなぞなぞだ。


 ねー、また手紙来てた?

 机の上に放っておいたスマホが突然、存在感増す。ベッドから無理に手を伸ばす。


 やっぱりロマンティック路線の展開じゃない、とののちゃんは顔をぱぁっと輝かせた。好きなんだね、きっと、うんうん、なんて勝手なことを言って盛り上がっている。

 一方さっちゃんは、だからこそ危ないんでしょ? ヤンデレだったらどうすんのよ。だってよ、こんなの。まして名前も書かないなんてさ、勇気なくて笑えない? 誰からかわかっても、こんな男やめた方がいいって。


 やめた方がってなんだ?

 何をやめるんだろう、とそこで思考が止まった。

 何をやめたらいいの?

 思い切って文字を打つ。


 そんなの決まってるじゃん。

 このバカバカしい手紙。そのうちきっと会おうとか言ってくるから、絶対会わない方がいいし。LINEだって気軽に教えたらダメだよ。

 勝手に住所知ってるのが、すでに気持ち悪いんですけど? 違うの?


 その後、さっちゃんは怒ってしまったようで既読がつかなくなってしまった。

 ののちゃんと、明日一緒に謝ろうね、と約束してスマホは枕元に放った。


 たった一通の手紙が、私の世界に小さな波紋を落としていった······。


 よく晴れた青空を縁どりなしで見上げる。

 太陽が目に刺さる。紫外線、気にした方がいいかもしれない。すぐそばかすができるから。

 燕が勢いよく線を描く。青空が、また切り取られる。


 昨日はごめんね、と言うと、別に何もなかったでしょ、とさっちゃんはごにょごにょ言った。

 その日は手紙の話は一切しなかった。沈黙の了解ってやつだ。

 毎日ひとつの話題だけで盛り上がったりしないし、カフェの新しいデザートの話をして、今度一緒に食べに行こうねと約束した。

 初夏のみずみずしいメロンの。

 これが女子高生ってやつだ。


 焼けたアスファルトの遠くに逃げ水。夏が、揺らめいている。

 もう当たり前のように手紙は届いて、当たり前のように部屋に持って行く。

 私はいつもの鋏で無表情に封を開けて、中からお目当ての便箋を取り出す。


「こんにちは。元気にしてますか?

 今日は勇気を出して、少しは僕のことを書こうと思います。

 僕と坂月さんは同じ小学校に通っていました。僕は黄色い傘をさした坂月さんをよく覚えています。駐車場に停めた車の中で面白くなさそうにしていた姿も。

 たったそれだけのことだけど、傘の色のせいか、その思い出が鮮明に思い出されます。

 覚えてますか? 覚えてるといいな。

 あの頃の『なおちゃん』を見つけたら僕は手紙を書かないわけにはいかなかったんです。

 もし僕を見つけたら、お母さんに聞いてみて。」


 いつもより随分長い手紙だった。

 内容も濃かった。

 まさかとは思ってたけど、やっぱり知ってる男の子だったんだ! ······でも、肝心なことは覚えてない。


 黄色い傘。

 それは小学生の低学年の頃だろう。

 赤いランドセル、ふたを覆う黄色いビニルの交通安全カバー。

 雨の日、水たまり。

 小学生になると長靴を履く子が減った。

 濡れる運動靴。

 雨の日は車でお迎え。家が学校から少し遠かったから。

 車の中から見てる。傘をさしたママと、その友達。終わらないお喋り。

 ああ、私は早く家に帰りたいのにな。吐く息でガラス窓が白く曇る。

 その向こう側の車の中に同じような顔をした誰かが。


 ――あ!


「お母さん!」

 私は一秒も無駄にできない勢いで、リビングに駆け下りた。母が妙な顔をする。

 どうしたのよ、いきなり。息を整える。心臓がバクバク言って、私に答えを伝えている。

 そうだ、そうなんだ!

「小学生の時にお母さんと仲の良かった人、覚えてる? よく雨降りでお迎えの時、お喋りしてた」

 ああ、芳賀はがさんのこと? あの頃、あの人とよく喋ったわね。気が合う人だったのよ。

「芳賀さんの住所知ってる?」


 そんなこと聞いてどうするの、と、母はわたしの勢いに負けたかのようにふらっと立ち上がると、古い年賀状ファイルを取り出してきた。

 一頁ずつめくっていく。

 差出人に『芳賀』の文字。表面には幼い男の子の写真。


 ちょっと貸してね、と言って二階に戻る。

 そうだ、そうなんだ。私も見てた、彼の揺れる黄色い傘。

 大人しくて頭が良くて、お迎えの後は必ずちょっと遠い算盤教室そろばんきょうしつに行くって話してた。

 隣の車の中から私を見る、純粋で丸い黒目がちな瞳。男の子なのに細くて黒いさらさらな髪と真っ白なうなじ。


「手紙、ありがとう。返事が遅れてごめんね。でも思い出せて良かった。元気にしてますか? 私は元気です。

 何から書いたらいいのかわからなくなっちゃったけど、どうして突然手紙をくれたの?

 理由が知りたいです。」


 宛名のところに、彼の文字より丸くて傾いた私の文字が転がった。

芳賀凌太はがりょうた様」

 そうして差出人のところに、自分の住所と名前を書いた。


 ざわざわと爽やかな風が木立の葉を揺らす午後、帰り道、私の隣には彼がいた。ふたり、並んで歩いた。

 ――初めて学校で君を見た時、僕はすぐにわかったんだけど声がかけられなかったんだ。だって久しぶりだったからね。小学生の、それも低学年の時の友達なんて、覚えてること少ないでしょう?

 彼は言葉をひとつひとつ確かめるようにそう言った。わたしは声変わりした聞き覚えのない、初めて聞く彼の声に耳を傾けた。

 彼の、さらっとした髪が微かな風に揺れた。


 僕は三年生の時に転校したんだ。だから君が忘れてても仕方ないんだよ。むしろ、僕が大きくなった君にすぐ気がついたことの方が奇跡っていうか。

 ここで彼は少し目線を下げて恥ずかしそうに笑った。

 気がついたらいつからか坂月さんのことを目で探すようになっちゃって。それでそのことに気づいた時、僕は古い年賀状の束から君の家の住所を探したんだ。結構、無心で。

 それがあの一通目の手紙に繋がったんだよ。

 彼は恥ずかしそうに俯いた。


 気持ち悪いなんて、と首を振った。

 びっくりしたけど、何となく無視できなかったし。それにドキドキしたし、というのは口には出さなかった。


 差出人の名前を書いてない手紙なんて捨てられても仕方ないと思ったんだけど、そんな昔の話をどういう風に伝えたらいいのかよくわかんなくてさ。突然、小学校一緒だったでしょって言われてもどうかなぁってすごく迷ったんだ。

 友達にははっきり「キショい」って言われたよ。


 私たちはくすくす笑った。

 もう、知らない他人ではなかった。


 僕は多分、考えてみたんだけど君を好きなんだ。だからこともしたんだと思うんだ。君の頭の中の、僕の欠片を見つけてほしかった。

 僕は覚えてるよ。君の、水たまりを蹴飛ばすような歩き方や落ち着かない傘のさし方、車の中の仏頂面······。


 彼のその一連のキショい行動が、私の心を十分に揺さぶった。いつの間にか幼い頃の思い出は甘酸っぱく発酵し、特別な名前のつく感情へと変わった。


 ――恋。


 それはあまりにも突然に、差出人の名前のない封筒でやって来た。思いもよらない形で。

 ポストの中に、そっと。


(了)




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差出人のない手紙 月波結 @musubi-me

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