【第3話】夢納豆
重低音の声を持つ少年・億は、東京・大手町駅の地下鉄へと続く下りエスカレーターを下りながら安らかな寝息をたてている。決して座り込んで寝ているわけではない。立ちながら、しかも、右脚を頭ほどの高さまで上げながら熟睡しているのだ。さらに右手には掴めるだけの納豆を握っている。億の右手から数粒の納豆が糸を引き重力に従いながらエスカレーターへ向かって垂直に落下しつつあった。
億は夢をみていた。納豆風呂に入っている夢だった。億の全身には納豆がべとべとと絡みつき、腕を上げるたびに蜘蛛のような大量の糸が伸びながら垂れ下がった。次の瞬間、億の頭が巨大化した。首から下はそのままに、頭だけが地球の兄弟である月ほどの大きさまで巨大化したのだ。
「これは夢に違いない。でもこちらを現実にしよう」
億が重低音の声で呟くと、それは強烈な振動となって地球を襲った。青い生命の惑星・地球は、億の呟きによってガラス玉が木っ端微塵に割れるように砕け散った。その直後、億の意識は消失した。しかし、すぐに目を覚ました。
億の眼前には兄弟を失い、走るべき軌道を失った月の姿があった。億の頭と同じ大きさの月は彼のクレーターから「世も末だ」と発すると太陽に向かって進み始めた。
「いまエレベーターを眠りながら下りている夢を見ていたよ。そこの月、世も末だ、とはどういう意味なんだ? たこ焼きに入っているのがタコではなくアルミホイルだった、という確信だね?」
億の問いかけに月は何も答えなかった。ただ、「今日は月曜日」と呟いただけだった。その返答に億は、食べかけのカルボナーラを再び食べようとしたらメガネのフレームにパスタが巻きついていたことに気づけたかのように満足した。
「さらば、月。お前が進む先には金曜日と水曜日と日曜日しかないがな。だがそれは円周率に相対速度の方程式で8億回割るようなもの。カッパがレインコートを着てカッパの2乗だと国連安全保障理事会で決議されるがごとく飛翔体を撃つ切なさにお前の核を震わせるが良いよ」
億は、500年ぶりに再会を果たした親子が流すナイアガラの滝のような涙を右目から流しながら月に向かってお仕置きのごとくの口調で伝えた。その数秒後、月はビリヤードのようにキューに突かれた玉のごとく太陽の至近距離を公転する水星に衝突した。月の衝突を受けた水星は「水曜日の次は木曜日ですね」と悲鳴をあげながら太陽の周りを大きく周りながら木星に向かっていった。
「別に木星に向かわずとも大手町の次の駅である日本橋で良いよ」
億の助言を受けた暴走した水星は、惑星であることを諦めたかのように、突然自ら砕け散った。
「いつかシャンプーをしてみたかった」
それが水星最後の言葉となってアンドロメダ座に放射線となって向かっていったが、その途中、どや顔のブラックホールが勝ち誇ったように吸い込んでしまった。
ブラックホールは即死するがごとく消滅した。
「飽きた」
頭が月ほどの大きさまで巨大化した億は、黒板に爪をたてて引っかくような音で呟いた。
「こんなに頭が大きくちゃ、大気圏突入ができない趣味だと言われてしまう。それはネズミ味がしない料理酒に溶けた鉄とカメムシの臭い体液を加えるようなものだ」
億は、俺は日曜日だ、と言わんばかりの太陽を見つめた。太陽は真っ赤になって照れた。
「日曜日だけど、カレーの日でも良い、と8月9日生まれの新人女優に許される」
太陽は億に告げた。億は膨張の限界を迎えて破裂する風船のごとく炸裂した。
億が目を覚ますと地下鉄の網棚で横になっている自分に気がついた。億の口元のよだれが納豆が糸を引くように真下で座っている七三分けの髪型の28歳男性サラリーマンの七と三の間に垂れている。頭に億のよだれを受け続けている七三分けサラリーマンは、まるでミッキーマウスがネズミ味の玄武岩を舐めて幸せそうな表情を浮かべているような、そんな恍惚とした表情を浮かべた。
「東西線をご利用頂きましてありがとうございます。次は九段下。九段下」
車掌のアナウンスが線路を走るリズム音に混じって聞こえてきた。億は慌てて網棚から飛び降りた。
「しまった! 大手町で下りなきゃだったのに!」
億は両手を広げながら車内の天井を見上げた。次の瞬間、億が乗っている車両のあらゆる窓から、まるでマゼラン海峡に沈没した車両に怒涛の如く海水が入り込んでくるような勢いでマスタード付きの小粒納豆が大量に入り込んできた。億と乗客10数名が小粒納豆にのまれて姿を消した。
「ステーキには、もずくと硝酸アンモニウムだろ」
億は小粒納豆に埋もれながら満足げな笑みを浮かべた。
快然たる無知に訴える論証 皇 南輝 @minakis
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