第2話 後編

 潮の匂いが急に濃くなる。波が打ち寄せる音が大きくて、輪郭がどっか行ってしまったような太陽の光がどこまでも広がってとてもとても大きかったから息を呑んだ。

 お母さんは知っていたのか予想していたのか、お姉ちゃんが制服姿のまま本当に海の手前の階段に座っていた。道路と同じ白いでこぼこした、三段しかない階段だ。後ろ姿がなんだか、あたしの知らないお姉さんみたいだった。

 坂を下ってお姉ちゃんに近づくと、紙袋のかさかさした音が聞こえたのか、それともサンダルの音か、お姉ちゃんが振り向いた。

「なんだ、美桜か。どうしたの」

 振り向いたお姉ちゃんはつっけんどんな顔をしていて、いつものあたしのお姉ちゃんだった。

「お母さんがこれ渡してって。はい。お姉ちゃんこんなところでなにしてんの」

 紙袋を渡してからお姉ちゃんの隣に座ると、お姉ちゃんはさっそく中からおにぎりらしきアルミホイルの塊を取り出した。

「やっぱりお母さんにはバレるかあ。なにこれ、おにぎりじゃん。なにしてるって、見たらわかるでしょ、夕日を見てんの」

「なんで夕日なんか見てんの」

 あたしも同じようにアルミホイルの塊を取り出した。中身のなくなった紙袋が潮風で飛んでいきそうだったから、紙袋はお尻の下に敷いた。アルミホイルとラップを半分だけ外してさっそくおにぎりをかじると、まだ一口しか食べてないのに中から巨大な焼きたらこが出てきた。

「別に、なんでもいいでしょ」

 そう言ったお姉ちゃんはアルミホイルの塊を手の中に収めて、親指で軽くつついていた。食べないのだろうか。

「一人で夕日見てるとか、変なんですけど」

 お姉ちゃんがやっぱり変だから、素直に変だって言ったら、お姉ちゃんはちょっとむっとした。それからちょっと黙っちゃって、なんだかバツが悪くなってきたから謝ろうかと思ったら、お姉ちゃんが静かに

「秘密なんだからね」

と呟いた。

「いいよ、秘密」

 焼きたらこおにぎりを食べながらお姉ちゃんに返事をする。いつもそう。あたしもお姉ちゃんも、誰にも言えないことは、小さいときからいつもいつも二人で秘密にしてきた。


「高橋先生いるじゃん」

「いるね」

 高橋先生は体育の先生で、お姉ちゃんがいたバスケ部の顧問の先生だ。体育の先生は二人いて、あたしのクラスは別の先生だから、直接関わりのない高橋先生のことは最近ようやく名前を覚えたくらい。

「先生さあ、結婚したんだって」

 お姉ちゃんのその声があまりにも寂しそうで、あたしははっとした。あたしの反応に気づいたのか、お姉ちゃんはそこから取り繕ったみたいにわざと明るい声を出した。

「こないだみんなで話してたら指輪つけてるのに気づいちゃってさ。そしたら世間話みたいに普通に言われてさ。知らなかったから、ほんと、なんにも知らなかったから、ちょっとびっくりしちゃってさ。……でね、今度バスケ部だった三年生みんなでお祝いしてあげようってことになっちゃって。私さ、明日、先生に花束渡さないといけないんだよね。みんな誰も私の気持ち知らないからさあ、頼まれたのに断るのも変じゃん。でもやっぱりさ、そんなんで絶対泣きたくないじゃんか。バレたくないし。だから、最近毎日ここで泣かない練習してた」

 お姉ちゃんは早口でそれだけ言ってからまっすぐに前を睨んだ。横から盗むようにその顔を見ると、それはあたしの知らないお姉ちゃんの顔だった。その睫毛が濡れていて、でも涙なのか、いつもの透明マスカラなのか、眩しすぎる夕日の中ではあたしにはわからなかった。でもこの濡れた睫毛が、ずっとずっと高橋先生のためのものだったんだってことだけはわかった。

「部活終わったら前みたいに毎日はなかなか会えないからさあ、ちょっとでも印象に残りたくていろいろ頑張ってたのに、ほんとばかみたい」

 潮風を正面から受けながらオレンジ色に染まるお姉ちゃんが、なんだかすごく大人に見えた。風になびくまっすぐな毛先にたまらない気持ちになる。


 お姉ちゃんは恋をしていたんだ。誰にも言わずに、ずっと一人でその気持ちを大切に抱えてきたんだ。

 あたしだって小学校の頃から、友だちとあの子のことを好きだとかそういう話をしたことはあるけど、なんだか、なんとなく、そういうのとは違うと思った。だってあたしは今まで一度も、一人の男の子のために睫毛を濡らしたことなんかない。

「お姉ちゃんは全然ばかみたいなんかじゃないよ」

 なんか気の利いたことを言ってあげたかったんだけど、なんて言ったらいいのか正直よくわからなくて、恐る恐るそれだけ言ってみた。お姉ちゃんはちょっと考える素振りをしてから、

「ありがとね」

と、ちょっとだけ笑ってくれた。

「帰ろっか、暗くなるし。聞いてくれてありがとう。ちょっと楽になった」

 お姉ちゃんが先に立ち上がって、スカートの後ろを手で軽く払った。それから大きく伸びをして、最後にまた夕日を睨むように見てから、ずっと手に持っていたおにぎりをあたしにくれた。

「要らないの?」

「あげる。秘密のお礼に」

 おにぎりを受け取ってから、あたしもなんとなくお姉ちゃんの真似をして夕日を見た。もうすぐ海の向こうに沈もうとしている夕日は少しずつ空の色を変えて、紫みたいなねずみ色みたいなのが混じってきている。あたしはその変化に少しだけ怖じ気づいて、慌ててお姉ちゃんのあとを追って立ち上がった。


 少し先を歩くお姉ちゃんのまっすぐな背中を眺めながらぼんやりと思う。

 お姉ちゃんも、いつかもっと大人の女の人になって、いつか誰かと結婚したりするんだろうか。薬指に指輪を嵌めたり、真っ白なウエディングドレスを着たりするんだろうか。

 もしそんな日がきたら素敵だなと思う。

 そして、明日お姉ちゃんが笑顔で高橋先生に花束を渡すことができたらいい。

 あたしもそのうちお姉ちゃんみたいに、透明マスカラが似合うようになれるだろうか。取り敢えず明日だけは、お姉ちゃんの机は漁らないでいてあげようと思う。






(おしまい)

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お姉ちゃんの透明マスカラ 夏緒 @yamada8833

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