お姉ちゃんの透明マスカラ

夏緒

第1話 前編

 あああああ、なのか、もおおおお、なのかちょっとよくわからなかったけど、狭い家の二階からお姉ちゃんの怒鳴り声が鳴り響いた。

 やばい。お姉ちゃんさっき帰ってきたばっかりなのに、もう机触ったのばれた。取り敢えずこの間中学の入学祝いに買ってもらったばかりのスマホに逃げてみる。意味はないけれども。

 畳が敷かれた居間で一緒にお煎餅を食べながらテレビを観ていたお母さんが

「美桜、舞花がまた怒ってる。あんたまたお姉ちゃんの嫌がるようなことをしたんでしょう」

とお煎餅をバリバリしながら言ってきた。

「ちょっとハサミ借りただけだよ。お姉ちゃんが神経質すぎんの」

 あたしも一緒にまたお煎餅をバリッとかじると、バタバタとけたたましい足音を立てながらお姉ちゃんが階段から降りてきて、バンッと鳴り響くほどの勢いで居間の引き戸を叩き開けた。

「美桜! いつも言うでしょ私の机を勝手に触らないで! ハサミを勝手に使わないでよ!」

 お姉ちゃんは扉のところに仁王立ちになって、目を釣り上げてあたしに怒鳴ってきた。どうやらハサミを使ったのもピンポイントでバレている。

「だってあたしのどっか行っちゃったんだもん。っていうかお姉ちゃんすごくない? なんでハサミ使ったのわかるの?」

「無くしたなら探しなさいよ! あんたは使うのも片付けるのも雑なんだから見たらわかるの! お母さん! この子と一緒の部屋もうやだ!」

 お姉ちゃんがひとしきり喚くのをお煎餅片手に聞いていたお母さんはうんざりした顔をしている。

「部屋数がないんだから仕方ないでしょ。今度間仕切りかなんか買ってきてあげるわよ。あと舞花、扉が壊れるから乱暴にしないで。ご飯食べる?」

 お姉ちゃんとお母さんのやり取りを聞きながらあたしはなるほどと思った。今度からはもうちょっと丁寧に借りて上手くやろう。




 中学三年生になったお姉ちゃんは、六月でバスケ部を引退してからおしゃれをするようになった。

 うちは部屋数が少ないからって、あたしとお姉ちゃんは同じ部屋に押し込まれている。並んだ勉強机の右がお姉ちゃん、左があたし。そこには見れば一目瞭然の性格の差が出ている。お姉ちゃんの机には教科書とか参考書とかいっぱい並んでる。きれいに並んでる。バスケ部の三年生と先生たちで撮った写真が飾られていて、キラキラしてる卓上ミラーの隣にはメイクポーチが置いてあって、いつもこっそりいろいろ開けて覗いてるから引き出しの中が整理されてるのも知っている。

 あたしの机には漫画がちょっとだけ積んである。でも参考書だってちゃんときれいにして置いてある。こないだお姉ちゃんの真似をして卓上ミラーを買ってみた。同じものはもう売ってないって店員さんに言われたから違う可愛いのにした。メイク道具はどうせお姉ちゃんのを借りればいいやと思ったからお小遣いを節約することにして、甘い匂いのする薬用リップだけを買った。

 まだ一年生なりたてのあたしには上級生たちが怖すぎて絶対に許されないけど、お姉ちゃんはいつも制服に着替えるとまず勉強机の一番下の引き出しからストレートアイロンを出す。今まで結っていた肩までの髪の毛をストレートアイロンで毛先までひたすらまっすぐに伸ばしている。それから、ほんのちょっとだけファンデーションをつけて、眉毛を整えて、ビューラーで睫毛をしっかりと上げてから、透明マスカラをたっぷりと塗る。お姉ちゃんの睫毛はいつも濡れたみたいになってる。それから、ピンクの色付きリップを塗ってピンクのチークをほんのちょっとつける。あんまりちゃんとすると先生たちにバレて注意されるから、わかるかわからないかギリギリのところを狙っているらしい。そして、制服のスカートを一回折り曲げてちょっと短くしている。あたしはいつも、ようやく慣れてきた自分の制服にのんびり着替えながらその姿を見る。そして思う。お姉ちゃんのこの実は粗暴な性格を、学校の人たちももうちょっと知ればいいのに、と。




「お姉ちゃんさあ、最近帰り遅くない?」

 居間でテレビをつけてカレーを食べながらお母さんに聞いてみる。あたしが部活を終えて帰ってきても、お姉ちゃんのほうがちょっと帰るのが遅い。様子もなんだかちょっと変だ。あたしは今日もお母さんと二人で夕飯。まあ、静かだからいいけど。

「お姉ちゃんは塾があるからね。ちょっと遅いのよ」

と、お母さんはカレーを頬張りながら言ったけど、それは多分嘘だ。

 だってお姉ちゃんが塾に通ってるのは今に始まったことじゃないし、帰りが遅いのはここ一週間くらいのことだから、それが理由ではないことくらいあたしでもわかる。お母さんはきっと理由を知っているに違いない。気になる。なんかあれなんじゃない、彼氏ができた、とか、こそこそ悪いことしてる、とか。

「心配しなくても大丈夫よ。そのうち元に戻るだろうから」

 お母さんが全然心配してない様子でぶつ切りの人参を食べるから、お母さんは理由を知ってるだろうに、あたしはあんまり聞いたらいけないのかな、とちょっと寂しく思った。あたしの知らないお姉ちゃん、なんてものが存在するのは、ちょっと気分が悪い。

 そんなあたしの気持ちが伝わったのか、翌日に部活を終えて帰ったあたしを、お母さんが台所で包丁の音を立てながら呼び留めた。

「美桜、あんたちょっと家の裏に行って舞花にこれ渡してきてちょうだい」

「家の裏ぁ?」

「多分、海の手前の階段のところに居るから。あんたも食べていいわよ」

と、お母さんがこっちに振り向いて渡してきたものは、アルミホイルに巻かれたおにぎりらしきものが入った紙袋だった。さすがお母さん。ちゃんと二人分ある。

「おにぎりじゃん。お姉ちゃん、海に居るの?」

「居ると思うわよ。暗くなる前には帰りなさいね」




 オレンジ色の夕日の中を、おにぎりが入った小さな紙袋をぶら下げて歩く。薄いサンダルがペタペタと音を立てる。

 うちの家の裏には坂道がある。車がやっと一台通れるほどの幅しかない、手作り感満載のでこぼこした白い道を登っていくと、途中で急に下り坂になって、向こう側に海がある。

 急な上り坂を渋々登って、坂の頂上まできたときになんの気無しにふっと顔を上げると、そこにははっとするほど大きな眩しい夕日があった。

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