眼鏡外した素顔を見られる。そしたら隣の席の女子が話しかけてくるようになった。

そらどり

初恋のフラペチーノ

迂闊だった。

地元から一駅離れた喫茶店でこっそりアルバイトをしていたところ、不意にカウンターから俺の名前を呼ぶ声。

眼鏡からコンタクトレンズに変え、髪は無色無臭のワックスでかき上げていたから大丈夫だと思っていたのに。

ドリンクを手渡す瞬間、目を見開いて驚く女子生徒と目が合ってしまった。


「え、熊谷くまたにくん?」

「……綾瀬あやせさん?」


いくらでも誤魔化しようはあったのに、どうして俺はそう呼んでしまったのか。

しかし後悔など既に遅く、耐え難い時間はどこか永遠に思えるほどに細く流れていく。


息を吞み、口元を強く結んでも隠せない動揺。

注文のフラペチーノを介して触れ合う指先は冷たく、そして僅かに熱を帯びていた。







熊谷駿くまたにしゅん。その名前を聞いて目を見張る者はいない。

どこにでもいそうな、謂わば普通な男子生徒に、教室内の群衆は逐一興味を示さないからだ。

けど、それに不満はない。自分が平凡で地味目な生徒であることは自覚しているから。

ボサボサな髪型に眼鏡という地味目セットのド定番を称した姿。

仮に興味が湧いたとしても、「オタクかな?」と納得する程度だろう。

だから俺は認知されない。

存在感の薄いモブとして、今日も教室の隅でひなたぼっこに勤しもうではないか。


と、そう思っていたのだが……


「ねえねえ熊谷くん、熊谷くん」


隣から声を掛けられ、思わず顔が引き攣る。

筋肉が軋む音を立てながらもゆっくり振り向くと、頬杖を突きながら首をもたせる女子生徒が隣にひとり。

名は綾瀬未優あやせみゆ。俺と目が合うと、余裕そうな笑みを浮かべてこちらに手招きしていた。


「な、何か御用ですか?」

「次の授業で使う教科書なんだけどさ、私ド忘れちゃったみたいで……」

「ああ、なるほど……」


次の授業の国語では綾瀬さんが冒頭の音読に指名されていたはず。

なるほど確かに、肝心の教科書がなければ音読が出来なくて詰んでしまう。


「だからさ、ちょっとだけ見せてもらっていいかな?」

「ああ、なるほど……ってえぇ!?」


見せてもらう!? 俺に!? 


「あははっ、熊谷くん驚き過ぎだって~。教科書見せてって言ってるだけだよ~?」

「な、なら他の人に見せてもらえば……綾瀬さんって友達たくさんいるんだし、他のクラスの人から借りれば……」

「ああそれなら、持ってないって皆にあしらわれちゃった」


そんなことある? 国語って必修科目だよ?

でも綾瀬さんが嘘つくとは思えないし……でもすごいニマニマしてるし……これどっちが正しいんだ!?


「だから席が隣の熊谷くんに教科書を見せてもらいたいって訳。ね、自然でしょ?」

「自然、かな……?」

「うん、自然自然♪ だからほら、机くっ付けさせて~」


そう言うと、彼女は自分の机を寄せてくる。

しかし、ガラガラと音を立てたものだから、周囲の視線(特に男子)が集まってしまい、


「え、なんであいつ綾瀬さんと机くっ付けてんの? 羨ましすぎだろ」

「熊田の野郎ぉ……ッ! よくも俺の綾瀬さんを……ッ!」


怨念の籠った眼差しが俺に向かって集中していた。いや、最後の奴は苗字すら間違っているが。


でも仕方ないのだ。だって相手がなのだから。

くっきりとした瞳に健やかな肌色、髪先をゴム紐で結んでふんわりとした印象を覗かせる傍ら、それを感じさせない彼女の明るい性格。

成績も良く、軽音楽部に所属。友人にも恵まれ、魅力的な彼女の周りにはいつも人が集まってくる。まさに才色兼備といってもいい。


そう、彼女は完璧なのだ。だからこそ、そんな彼女に男子が注目しないはずがない。


「あ、あの……綾瀬さん」

「ん? なに?」

「まだ授業始まってないんだし、机なら後でくっ付ければいいと思うんだけど……」

「もう始まるし誤差でしょ誤差。なら別に良くない?」


全然良くないです。今にも俺を処そうとせん無言の威圧がグサグサと刺さってくるんです。

なんなら「〇す」とか「〇ね」とか物騒な単語が滅茶苦茶飛んでくるんです。


しかし、そんな教室内の不穏な雰囲気などつゆ知らず、彼女はにやりと口端を上げて囁く。


「もしかして……緊張してる?」

「ッ!? いいいやしてないけどども?」

「あははっ、それで緊張してないって絶対嘘じゃん~!」


ぐぬぬ……く、悔しいが反論できない。

だが事実として、僅か数十センチの近さで座っている彼女の隣は、何というかその……柔軟剤のいい匂いが鼻腔をくすぐるせいでどうにも落ち着かない。

それに加え、もうすぐ初夏という季節の節目。

シャツの袖を巻くって素肌を露わにしている彼女は、控えめに言っても神がかっていた。


(いや、“神がかってる”って何で上から目線なんだよ!? 身の程知らずにもほどがあるぞ!?)


入学後初の席替えで偶然隣の席になって以降、つい最近まで何回か挨拶を交わした程度の間柄。

このレベルで誇って威張れるほどの度胸を俺は持ち合わせていない。


「とすると俺とは友達、いや知り合いレベル……それとも近所でたまに会う通行人レベルなのか……?」

「ん? 何か言った?」

「いいいえいえっ! 何も言ってないです!」

「? そう」


あ、危ない……知らず知らずのうちに独り言が漏れていたのか。以後気をつけよう。

しかし急に声掛けされたものだから、未だに心臓の鼓動が収まらない。

取り敢えず自分を落ち着かせて……そうだ、今日の授業の範囲はどこだったか……


「……あ、あのさ」

「?」


俺が教科書をぺらぺらとめくり始めた頃、突如彼女が改まったような表情を向けてくる。

でも気のせいだろうか、僅かに視線が泳いで……いや、むしろ俺の顔に焦点が合っているような、


「……もしかして顔に何か付いてる?」

「ん? ああ、いやそうじゃなくって……。えっと、うーん何て聞けばいいのか……」


口元を曲げながら唸っている綾瀬さん。

無意識なのか、片手を顎に添えて熟考している様子は、彼女の可愛さを余計に引き立たせているように見えた。


「……考えても仕方ないか。やっぱり直接聞いた方が早いや」

「え?」


しかし諦めたのか、綾瀬さんは一度離した視線を戻し、グイっと身体を前に寄せてきた。

本当に目と鼻の先といえる距離。視界一杯に広がる彼女の端正な顔立ちに、思わず身が引けてしまう。


「……確か近くに海崖あったよな。あそこからなら多分バレないだろ」

「ああ、一旦焼却炉で遺灰にして……崖上から振り撒けば後は母なる海が全部水に流してくれるさ」


そして何やら前方から不穏な会話が……あ、あれ? もしかして今日で死ぬの俺?

というか既にヤバい。クラス中から視線を感じる。めっちゃ見られてる。


「あ、綾瀬さん、周りの目もあるんで……ちょっとだけでいいから離れてほしいんだけど」

「え? 別に良くない?」

「なんで!?」


良くないって! 俺が死ぬ! 焼却炉で焼かれて海に捨てられるなんて、人生の最後がそんなんじゃ嫌に決まってるよ!


「―――お~い。そろそろ授業始めるぞ~」


そうこうしているうちに国語の担当教師が教室にのろのろと入って来る。

おっとり系の年配教師であったが、その声量はクラス内の意識の切り替えには十分な程で。

「ちっ、生き延びたか」と言い残して、周囲の皆が席に戻って行った。


「綾瀬さんも。ほら、授業始まるよ」

「……むぅ」


次第に静かになる教室内でコソコソと詮索する訳にもいかず、彼女は不満たらたらに体勢を戻す。

そして始まる国語の授業。予め指名されていた綾瀬さんは、席を立ち、俺が貸した教科書の該当部分を真面目に読み上げていた。


「…………」


その様子を隣から眺めて、次第に俺は彼女の反対、窓の向こうへと視線をやる。

彼女が一体何を尋ねようとしていたのか、雲一つない大空を飛び交う鳥を目で追いながら、その問いに思索を巡らしていた。


……いや違う。全部分かっているはずだ。

人気者の綾瀬さんとモブ同然の俺。その間の接点なんて一つたりともあるはずがない。

今までだって一度たりともまともに会話したことないのに、数日前から綾瀬さんが興味を示してきたのだ。

それはつまり、がきっかけとしか……


「……困ったなぁ」


誰にも聞こえないよう、俺はボソリとそう吐いた。







「こんにちは。ご来店ありがとうございます」

「これとこれを一つずつ……で、こっちはカスタマイズで」

「はい、オレンジフラペチーノおひとつと、宇治抹茶小豆フラペチーノに抹茶フレーバー増量でおひとつですね。ありがとうございます。ではお会計が―――」


学校終わりの平日。いつものように俺は喫茶店でバイトに勤しむ。

宵を迎えたこの時間帯は学生(特に女子高生)が主な客層であるため、今日も例に違わず大勢の学生が足を運んでいる。

とはいえ、このバイトを始めて四カ月が経つ頃合い。流石にこの忙しなさにも慣れてきた。


「ではこちらのストローをお持ちになって、右側のバーカウンターの足元にあります番号の順番でお待ちください。ありがとうございます―――」


マニュアル通りの接客を心掛ければ、大抵は何とかなる。

極稀に想定外が発生することもあるが、まあその時はマネージャーに助けを求めればいい。

自分なりに咀嚼して、いい具合に手の抜き方も覚えられているし、多少は自分に自信が持てたと思う。


「ちょっと~早く写真撮ってよ~。早くしないと溶けちゃうって~っ!」

「待ってよ、今フィルター設定してるんだから……はいできた! じゃあ撮るよ~!」


不意に聞こえた声のする方へ注意を向けると、やけにテンションの高い女子高生が二人組。

スマホを片方に預け、対する相方は注文したフラペチーノと一緒に写真に収めてもらっているらしい。

とまあ呑気に観察してはいるものの、俺にはあの行動の意味が全く分からない。

今日みたいな暑い日なら尚更、砕いた氷が溶けないうちに召しあがる方が遥かにメリットがあるし、そもそも旅行ですらない単なる日常を写真に収めて一体何の意味があるのか。

でも、客席では多くの学生がスマホを片手に撮影会をしている。

派手な見た目、短く折り畳んだスカート、着崩したシャツ等々……

ああいった人たちを、俗に“陽キャ”と称するのだろう。


「……分からないもんだな」


独り言ちりながらも、自動ドアが開いたのを確認し、俺は気を引き締める。

お客様は神様、そんな前時代的な考えを肯定する気はないが、やはりサービス業はサービス業。

粗相を働いてお店の評判を落とすような真似は絶対にできない。

……よし、切り替えオッケー。

ではいざ行かん――――――!


「―――あ、熊谷くん」

「あぁ……」


彼女を捉えた瞬間、活力が脱力に変わった。


「ちょ、ちょっと駿くんっ! お客さんにその態度はマズイって……!」


冷や汗をかきながらマネージャーが現れるが、二人の様子を見てすぐに納得したらしい。ホッと胸を撫で下ろしていた。


「なんだ、駿くんの知り合いか。全く……年寄なんだから焦らせないでよ」

「うっ……す、すみませんマネージャー。突然だったものでつい……」

「接客なんだから常に気を張ってないと。油断が命取りになるよ?」

「はい、すみません……」


見透かされた鋭い指摘に頭を下げていると、マネージャーは綾瀬さんに視線を向ける。

おそらく謝罪の意を示そうとしたのだろう、顔の前で両手を合わせ……


「ん?」


しかしそうはならず、途中で動作を停止し、俺と綾瀬さんの顔を交互に見定め、


「ほほぅ〜?」


と意味深な相槌を打った。てかすごいニヤニヤしてるし。


「……駿くん、今日はもう上がりな。もうすぐ大学生の子たちが入れ替わりで入ってくるから後はこっちに任せて」

「え、でもまだ三十分残って……」

「そうやってッ! 仕事優先に生きてきたからッ! 大事なものを失うんだよッ!? 分かるかい私の気持ちッ!?」

「マ、マネージャー……?」


す、すごい威圧。まるで過去に何かあったかの如き形相だ。

その後も反論したい気持ちはあったが、魂の篭った説得に気圧され続け、さらに「ほら行った行った」と背中を押されてしまったので殊更言うにできず。

結局俺が着替え終えて店を出て来た頃には、綾瀬さんは注文したフラペチーノを召し上がっていた。


「あ、ごめんね熊谷くん。アポなしで来たから驚かせちゃったよね?」

「ああ、まあ驚いたのは確かだけど……それ以上に」

「?」

「……いや、なんでもない」


マネージャーのあの様子……絶対勘違いしてたよな。

俺と綾瀬さんがそんな関係じゃないことくらい、傍から見れば陰陽な雰囲気ですぐに分かると思うんだけど。


「…………」


そんな俺の思案などつゆ知らず、暗くなった街路で佇む綾瀬さんは依然として宇治抹茶小豆フラペチーノを楽しんでいる。

店内から漏れ出る光に中てられているからか、その横顔はとても幻想的で、やはり彼女は俺とは別次元の存在なのだと思わせてくれた。


「……何? 顔に何か付いてるの?」

「え? ああ、いやそうじゃなくって……!」


やばっ、つい見過ぎてしまっていた……


「その、えっと……あ、ああ! その後ろの黒いケースが何なのかなって……!」

「ああ、これ?」

「そうそう。それ、随分と重そうだけど……」


焦りながらもどうにか退路を見つけ出す。

綾瀬さんが背負っている黒いケース。縦長でいかにも重そうな形状をしていた。


「ギターケースだよ。ほら私ってさ、こう見えても軽音楽部だから」

「こう見えても何も、既に皆に知れ渡ってると思うけど……綾瀬さんって校内じゃ有名人だし」

「えへへ~そうかなぁ~? あ、熊谷くんってもしかして褒め上手?」

「いや、俺はただ事実を言っただけで……」

「お、謙遜ですか~? 全く~隅に置けない奴め、このこの~」


そう言いながら、綾瀬さんが肘で小腹をつついてくる。


「ちょ、地味に痛、痛い……!」

「あははっ、ごめんごめん。ちょっと揶揄っただけ」


綾瀬さんそうやってころころと笑っていた。

が、次第に満足したのか、右肘を戻し、そして再びストローを口に含む。

やはりその姿はとても可愛らしく、黙々とフラペチーノを召し上がっているだけでも、自然と心が惹かれてしまう。


「…………」


でもひとつだけ、気になって仕方ない懸念が頭から離れずにいた。

教室での出来事、そして今こうして二人きりになっていること。

もう言われなくとも分かる。彼女が握っている俺の秘密。


「……綾瀬さん。お願いがあります」


これ以上逃げ続けてはいけない、そう心に決めて俺は言った。


「俺がここでバイトしてるってこと……秘密にしてもらえませんか?」


うちの高校は元々バイト禁止。特別な事情がない限り許可は下りない規定になっている。

もし彼女にこの事実がバラさらてしまえば、無断でやっている俺はこの喫茶店でのバイトを続けられなくなる。それどころか最悪停学だって考えられる。


「お願いします……! 綾瀬さんにバラされたら、俺……っ!」


綾瀬さんに向き合い、俺は必死に頭を下げた。

何を言われるか怖い。怖くて目を瞑ってしまっている。でも頭だけは下げたまま。

口元を強く結び続け、ただ過ぎていく時間をひたすらに耐えるのだと覚悟して――――――


「―――あ、あの……熊谷くん? バレされたらってどういうこと……?」

「……え?」


しかし呆気ない声。

思わず顔を上げると、綾瀬さんはポカンと困惑していた。


「何で私が熊谷くんのバイトをバラすことになっているの……? そんな話一度もしたことないのに……」

「え、でもほら……今日の一限の授業前、急に真剣な顔になったからてっきりそうなのかと……」

「違うよ! 高校生でも喫茶店でバイトできるのかなって訊きたかっただけだって!」

「……え」


えぇええええええええ―――ッ!!?? そんな理由ぅううううううう―――ッ!?!?


「は、はははっ……」


自然と呆れ笑いが零れてしまった。でも仕方ないだろ?

バイトしているところを見られ、挨拶程度しか交わしたことのない人気者が俺に興味を示すなんて、最早それ関連としか考えが至らなかったんだから。

しかもあろうことか、停学をチラつかせて一生綾瀬さんのパシリ確定……みたいな最悪の未来まで想像してしまったのだから。そう、最悪な未来を……


「……ねえ、私に失礼な想像してない?」

「ソンナコトナイデスヨ?」


顔を逸らしてそう答える。

「ほんとかなぁ……」と疑いの目を向けられながら呟かれてしまったが、まあ誤魔化せただろう。


でもそうか。全部俺の勘違いか……


「じゃあ今ここに来たのも、部活終わりにたまたま……ってこと?」

「ん? うん、そうそう。軽音楽部って七時に終わるからね。じゃあ帰るか~と思った矢先に不意に甘いものが飲みたくなっちゃってさ~」

「そっか。確かに疲れた後は甘いものが飲みたくなるもんね」

「お、熊谷くんも分かってくれる? そうなんだよね~、夕食前は流石に……って自重したくなるんだけどさ~やっぱり身体が糖分を求めちゃうんだよ~」


そう言いながら、綾瀬さんはフラペチーノを口に含む。

声にならない喜びを体現した表情は、本当に幸福に満ちていた。多分、漫画だったら隣にハートマークが出ていることだろう。


そんな他愛もない雑談をしているうちに、綾瀬さんはフラペチーノを完食してしまったようで。

名残惜しそうにごみ箱に容器を分別しに向かい、その後綾瀬さんは不意に俺の方を振り向いて戻って来た。


「あのさ、別れる前にひとつだけ訊きたいんだけどいい?」

「質問? 別に大丈夫だけど……」

「うん。あ、堅苦しい話って訳じゃないから気抜いていいよ?」

「あ、うん」


不器用にぎこちない俺の返事。

けどそれに構うことなく、綾瀬さんは口端を上げたまま尋ねてきた。


「―――熊谷くんってさ、どうして喫茶店のバイトを始めたの?」

「え」


その質問に俺は目を見開く。

別に訊いてほしくないとかそんな後ろめたい理由ではなく、単なる驚き。

話せる友人などいない俺が初めて訊かれたその質問に、俺は自然と面食らってしまった。


「……え? そ、そんなにしちゃマズイ質問だった?」

「! い、いや、そうじゃなくって……ちょっと驚いたというかなんというか……とにかく本当に何でもないんだ」

「そう……?」


知らずのうちに綾瀬さんに不安を感じさせてしまっていたらしい。

慌てて否定し、心の中で深呼吸をする。

そして落ち着いた頃合いを経て、俺はようやく綾瀬さんの質問に答えた。


「……陽キャになりたい、から」

「え?」

「~~~っ!! だ、だからっ! よ、陽キャになりたくて喫茶店のバイトを始めたんです……っ!」


今度はキョトンとする綾瀬さん。

しばらく呆けていた後、ようやくその言葉の真意に気づいたのか、「ぷっ」と息を吹き、


「あっははははっ!! そ、そんな理由でぇ……っ!?」


すごい勢いで笑い始めた。

おなかを抑え、すごく笑っていた。


「く、苦し……っ! あははっ! あは……ヤ、ヤバ……っ、笑い死ぬぅ……っ!」

「~~~っ!!」


恥ずかしい、超恥ずかしい、めっちゃ恥ずかしい……っ!

でもいいじゃんか! 喫茶店って陽キャしか入れない感がめっちゃあるんだもん! だったらそこで働けば自分も陽キャになれるかもって思いませんか!? 

……え、それは浅はか過ぎるって? 分かってますよそんなの! でもそう思っちゃったんですよ、俺っていう馬鹿は! 


「だ、だから眼鏡外して、ワックスもしてるんだ……っ、ぷっ、あははっ!」

「あ、綾瀬さん笑い過ぎだって……」

「はぁ……ごめんごめん。失礼って分かってるんだけど……あヤバっ、また笑いそう―――」

「ちょ、ほんとにやめて!?」


そんな俺の切実な願いは届かず、結局綾瀬さんは三度四度と笑い続ける始末。

そして数分後。ようやくツボが収まったのか、おなかを抑えながら彼女は息を整えていた。


「あー…寝てるときに思い出したらどうしよ……」

「思い出さないで。せめてここに置いて行ってください」

「人間それができたら苦労しないんだよ、熊谷くん……」


たかが思い出し笑いで真理を説く綾瀬さん。

そんな調子が続くものの、次第に落ち着きを取り戻した彼女は、おなかを上下に伸ばしながら言葉を綴った。


「でも、変わろうと努力してるのは良いことだと思う」

「え、そ、そう……?」

「うん、だって今の熊谷くんカッコいいもん」

「―――……!」


慰めとは違う、心からの褒め言葉。

カッコいい、その言葉が胸の奥でストンと落ちた気がした。


「他の人が熊谷くんを馬鹿にしても私だけは絶対に笑わないって誓うよ」

「でもさっきまですごい笑ってた気がするんだけど……」

「うっ……あ、あれはまあノーカンで……」


気まずそうに視線を逸らし、指で毛先をいじっている綾瀬さん。

でも俺は全く怒っている訳ではなく、むしろその反対で、


「―――ありがとう、綾瀬さん」


初めて他人から認められた気がして、俺は無性にこの嬉しさを彼女に伝えたくなってしまった。


「……熊谷くんもそうやって笑うことあるんだね」

「え、今笑ってた……?」


嘘? あんまり自覚なかったんだけど……


「へ、変だったかな?」


そう恐縮しながら尋ねると、綾瀬さんは首を横に振って否定する。

次いで「そんなことない」と言葉にし、寄りかかっていた壁から街路へ一歩踏み出していく。

そして俺の前にやってくると、彼女は満面の笑みを浮かべて、


「―――応援してるよ」


そう告げるのであった。







「あ、熊谷くん」


作成したドリンクを手渡す瞬間、聞き覚えのある声につられて振り向くと、俺が立っているバーを介して綾瀬さんが手を振っていた。


「あれ? 綾瀬さんこんにちは。今日はどうしたの?」

「ん? 特段用はないよ? ただ、同じ部活の友達と遊んでたら成り行きでここに入ろうってことになってね~」

「ああ、そうなんだ」


本日は休日。平日の客層とは異なり、子供連れのお客さんや年配の方々が主要となる。

とはいっても依然として学生諸君が来店しないかといえばそうではなく、単にお客さんの数が増えるだけだ。

忙しい。その一言に尽きるが、今はたまたま客足が途絶えている。

だからまあ、こうして綾瀬さんと話していても特に問題はない訳である。


「でねでね? さっき友達に聞いたんだけどさ……」


としていると、突然綾瀬さんが手を添えながらヒソヒソと囁く。


「カップにキャラクターの絵を描いてもらえるって噂聞いたんだけど本当なの?」

「ああ、それなら。今は混み合ってないし大丈夫だよ」

「ほんと!? あ、じゃあさじゃあさ! 私の注文したやつに描いてよ!」

「まあいいけど……」


それならドリンクを作る前に言ってほしかったな……

と邪険に扱うわけにもいかず、取り敢えず俺は中身が零れないよう注意しつつ、マーカーでキャラクターの顔を描く。

肝心な絵の出来具合は……まあ御察しだ。


「はい、これで大丈夫?」

「わあ! これってクマだよね!」

「え、よく分かったね。マネージャーにはいっつも“指名手配書”って馬鹿にされるのに」

「丸ひげに見えるってことかな? え~でも私はすぐに分かったよ?」


え、すごいな……。正直描いた本人でも指名手配犯の似顔絵に見えてしまうのに……。


「えへへっ、これ一生大切にするね♪」

「けど容器はちゃんと洗ってね?」

「分かってるって~! じゃあバイト頑張ってね~!」


注文したフラペチーノを片手に、手を振りながら友人らの元へ戻っていく綾瀬さん。

その後ろ姿は心なしか、いや確かに上機嫌に見えた。




―――応援してるよ。




先日告げられた言葉が不意に思い出される。

平凡な俺を認めてくれる人がいる喜びがこんなにも心地良いものとは知らなくて、未だに心の奥で溶け続けているようで。

この感情を忘れてしまいたくないと、今でも彼女の背中を目で追ってしまう。


「……?」


なんだろうか、少しだけ胸が熱い気がする。

平熱なはずなんだけど……マネージャーに相談した方がいいのかな。

でも体調はむしろ絶好調だし……なんだこれ?


「駿くーん。オーダー入ったよー」

「あ、はーい」


マネージャーの声に反応し、一度気を引き締める。

自動ドアの方を見ると、急に店内へと押し寄せるお客さんの群れが。


「……取り敢えずは目の前優先、か」


そう独り言ち、俺は再びドリンクの作成に取り掛かるのであった。







不思議な人。初めはそんな印象だった。

教室ではボーっとしていて、授業中は真面目だけど成績はそこまで芳しくなくて、かといって運動ができるという訳でもなく部活にも所属していない。

普段何をしているのか、そんな興味が頭の片隅に一瞬芽生えた程度。そんな第一印象だった。


そのはずだったのになぁ……


「未優? ボーっとしてどうしたの?」

「……え?」


突然耳に入って来た自分の名前に、思わず身が強張る。


「ほら、早くしないと溶けちゃうよ?」


いつの間にか時間が経っていたらしい、手元のフラペチーノは暑さにやられて多少溶け始めていた。

取り敢えずストローで中身をいただく。私の大好きな宇治抹茶小豆フラペチーノ。


「甘い」


心からの感想を言葉にする。

宇治抹茶の風味と小豆のこってりとした甘さ、それに加えてほんのりとバニラの味が口一杯に広がっていく。

溶けだしたホイップが混ざり合い、本当に糖分過多になりそうで……でも病みつきになる独特な味わい。


「……ねえ、成海なるみ


私は隣にいる友人―――東野成海ひがしのなるみの名を呼ぶ。

すると成海は飲んでいたフラペチーノから興味を離し、「どうしたの?」と言葉を発した。

それを認めると、私は少しだけ躊躇って、そして意を決して訊いたのだった。


「一目惚れって存在すると思う……?」

「え、何いきなり? 暑さで頭でもやられちゃった?」


酷い言いぐさ。自らの友人に対してなんて惨い暴言を吐くのだろうか、このお隣さんは。


「ひ、酷くない……?」

「だってさ~、未優が“一目惚れ”なんて恋愛単語を口にするとはどうしても思えなくって~」

「やっぱり酷いよっ!」


でも成海の意見を否定できない。

今まで生きてきた中でずっと恋愛というものに興味がなかった私が、いきなりそんな単語を口にすれば、誰だって「ん?」と首をかしげたくなる。

何度告白されても何とも思わなかった私だ。最早私という生き物には恋愛感情が欠落しているのではと真剣に悩んだこともあるし……


「……ん? ということはさ、もしかしてあの未優ちゃんにもとうとう春が来たってこと?」

「―――……っ!? そ、それはその……」

「嘘つくの下手! バレバレじゃん!」

「~~~っ!!」


え……う、うそっ、顔が熱い……! 何これ、こんなの知らないって……っ!


「うっわ顔真っ赤! もう言い訳もできないじゃん~!」

「うぅ……っ、だ、だってぇ……」

「ほら、両手で顔隠さない~。せっかくの貴重な瞬間なんだからもっと見せて~」


そう言って、成海は私の両手を鷲掴みすると、ニヤニヤと笑みを垂らしている。

中学からの付き合いである成海がここまで意地悪な性格だったとは知らなかった。

けど、泣きそうになる私を見て良心が痛んだのか、成海は掴んでいた手を離し、再びフラペチーノへと手を添えていた。


「仕方ない……この話題の続きは未優がその彼さんと付き合い始めた頃会いにまた訊くことにしよう」

「つ、付き合うって……最近になって話すようになったんだよ? それはちょっと急過ぎるって……」

「え~? でも未優って可愛いんだから彼氏の一人や二人くらい……」


とそこまで言いかけて、成海はハッとする。


「あ~そうだった、未優って見かけによらず奥手なんだった」

「別に奥手って訳じゃ……単に恋愛に興味が沸かなかっただけで」

「いーや、そういうのを奥手っていうの。要は一歩先に踏み出せない自分への言い訳でしょ?」

「うっ……」


成海の言葉がグサリと刺さってくる。実際、的を射た発言だったからだ。

今まで何度も告白はされたが全て断ってきた。

大して話したことのない人と付き合うだなんてどうかしている。ましてや一目惚れなんて漫画やドラマの世界での話と思っていたから。


……でも確かに成海の言う通りだと思う。

恋愛に興味がないふりをして、自分の殻に閉じこもっているだけの私は、ただの臆病者なのかもしれない。


「まあでも……そんなウブな未優ちゃんが一目惚れか~」

「?」


私が口元を結んで項垂れていると、成海は腕を組んで感慨深そうに頷いていた。


「その人のことさ……好き?」

「……うん」

「そっか」


それ以上は何も言わず、成海はただフラペチーノを召し上がっている。

私も同様。ただ無言で冷たい風味を口一杯に広げていく。

でもまだ熱い。

指先も、肌も、頬も、全部全部今すぐに沸騰しそうなほど。


(……また思い出しちゃった)


あの日、熊谷くんだと初めて気づいた時、私の顔はどうだったのだろうか。

眼鏡を外し、ワックスで額が部分的に露出した彼のもう一つの姿。

普段と違う一面を垣間見てしまい、果たして私は平生を保てていたのだろうか。

初夏の日差しに中てられたせいだと自らに言い訳しても、不意に思い出してしまうあの感触。

注文のフラペチーノを介して触れ合う指先は、きっと私の本心だったに違いない。


「……やっぱり甘い」


心一杯に広がる心臓の鼓動。

トクントクンと波立ち、心地良さと羞恥心がせめぎ合い。

でも、やっぱり嫌じゃない。

いつまでもこのまま浸っていたいと、そう思わせてくれる。


一度も知らなかった感情を知って、もう一度知りたいと願ってしまう。

さり気なく視線を向けると、バーカウンターで働いている彼。

そして彼が視界に入った瞬間、また知ってしまう。

手に持つカップの側面には、彼が私に描いてくれたクマの似顔絵。

いつまでも知り続けていたい。他の誰もが知らない、私だけが知っている彼の姿をこのまま、ずっと、


私だけの初恋の味に浸っていたいと―――

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