すぐそこにある未来

市川甲斐

すぐそこにある未来

 僕は、山間にある小さな中学校の生徒だった。全校生徒でも50人程の小規模校だ。ほとんどが小学校の時から同じメンバーであり、変わり映えはしないが、自然とお互いの関係が出来上がっている。それぞれの性格を理解し、果たすべき役割が分かっているのだ。


 僕は、1クラスしかない2年生のクラス委員長をしていた。しかも生徒会でも副会長だ。もちろん、そういう仕事が好きでやっている訳ではない。面倒な仕事を任せても文句を言わない人、すなわち「都合の良い人」としての役割を果たしているだけなのだ。生徒会長は3年生の美紀という女子だが、例年、生徒会長は男女が交代制で続いているという暗黙のルールがあったから彼女がなっているだけで、実務面は僕がやらされていると言って良い。


 8月のお盆前の頃だった。母から「近所に引っ越してくる人がいる」という話を聞いて驚いた。僕が住んでいたのは、その中学校の学区の中でも特に山奥の集落で、家自体は10軒程あるが半分は空家だ。住んでいるのはウチ以外は全て60歳以上の高齢者で、僕の2つ下の妹で6年生の芽衣が最年少になる。そのような場所に敢えて引っ越して来るのはどんな変わった人だろうと不思議に思った。


 その転居者がウチに挨拶に来たのは、お盆を過ぎた頃だった。やって来たのは、中年の母親とその娘の2人だ。娘の方は裕香ゆうかと言って、僕と同級生らしい。肩くらいまである黒髪に、細い黒縁の眼鏡をかけた彼女は、その母の隣で、「よろしくお願いします」と俯きながら視線を合わせずに小声で頭を下げた。隣にいた母から「しっかり仲良くしなさいよ」とバシンと背中を叩かれると、僕も「よろしく」と頭を下げ返した。


 それ以降、夏休み中は彼女と顔を合わせることは無かった。気が付くと、二学期が始まる前日になっていた。中学校までは、車道と山の中の歩道を通って30分程。小学校も中学校の隣にあるため、僕と芽衣は大体2人で通学する。それに2学期からは裕香も加わることになる。その日、芽衣を連れて彼女の家に行き、集合場所として集落の入口にある道祖神どうそじんの場所を教えた。次の日に、僕と妹がそこに行くと、既に彼女は待っていた。そこから3人で、特に話す事も無く歩いて行く。


 学校に着くと、彼女を職員室に案内した。1人の女性教師がそれに気づいて立ち上がる。


「おはよう。裕香ちゃんね。担任の田中です。よろしくね」


 田中先生は笑顔でそう言うと、3人でそのまま教室に向かった。ザワザワとしていた教室に、先生とともに僕達が入ると急に静かになった。皆も転校生が来ることを聞いていたのだろう。珍しそうに見つめる皆の視線を感じながら、僕は自分の席についた。


「転校生の立川裕香さんです。皆さん、仲良く過ごしていきましょう」


 田中先生が促すと、彼女は俯いたまま、「よろしくお願いします」と小声で言ってさらに頭を下げた。皆の視線が注目する中、彼女はそれらの視線を避けるように、先生が示した僕の隣の席に座った。


 それからしばらくの間は、物珍しさも相まって、彼女はクラスの女子を中心に取り囲まれることになった。隣の席での彼女らのやり取りを総合すると、以前は神奈川県に住んでいたこと、一人っ子であること、父は数年前に病気で亡くなっていて、母の田舎であるこの県に引っ越してきたことなどが分かった。


 裕香は物静かな女子だった。周りの女子が話しかけても、頷いたりするだけで、あまり自分から話をする感じではなかったし、僕も登下校で一緒になっても、ほとんど無言だった。




 それから1か月程が経ち、10月に入った頃だった。


 月曜日に、いつも通り一緒に登校してきた筈の裕香の姿が突然見えなくなった。初めはトイレにでも行っているのかと思ったが、次の休み時間に田中先生が彼女が休みであることを伝えに来た。クラスでは女子達が何かヒソヒソと話をしていたが、男子には何も伝わらない。次の日からも僕の隣の窓側にある裕香の席は空席が続いた。結局、その週は、彼女は一度も登校しなかった。


 田中先生に呼ばれたのは、その週の金曜日の授業が終わった夕方だった。


「お願い。裕香ちゃんの家に行ってみてほしいんだけど」


 先生は心配になって彼女の家に行ってみたらしい。しかし彼女の母がいくら出てくるように呼んでも、彼女自身は顔を見せなかった。それで、同じ集落で一番身近な筈の僕なら、話ができるかもしれないというのだった。


「女子じゃあ駄目ですか?」


「うん。あなたの方がいいわよ。絶対」


 先生はそれだけ言って「これを持っていって」と授業で配ったプリントを入れた封筒を渡してきた。2年生はクラス15名中10名が女子だ。彼女らは、幼稚園から8年間ずっと同じメンバーで、仲が良かったり離れたりの繰り返しが男子よりも激しい。ただ、基本的には仲間意識が強い。その中で、彼女らは裕香に関して何かヒソヒソ話で盛り上がっているようだった。それを思い出してため息をつくと、「わかりました」と言ってその封筒を受け取るしかなかった。




 次の日は雨だった。土曜日はいつもならソフトテニス部の部活があるのだが、その日は休みとの連絡がきていた。先生から昨日受け取った封筒を机の上に置いて、家の2階の自分の部屋から窓の外を見て、大きく深呼吸する。


(行くしか、ないよな)


 そう思って、封筒を持って階段を降りた。居間からはテレビの音が大きく聞こえている。雨で畑に行けない祖母が見ているのだろう。その日は、父は出勤日で、母も少し前に出かけている。先週の土曜日から裕香の母を誘って街のショッピングセンターに行くことにしていたらしく、「午後まで帰らないから、昼ご飯は何か適当に食べて」と言って楽しそうに出かけていた。芽衣を連れて行こうかと思ったが、やはり一人で行こうと思い直すと、そのまま靴を履いて玄関の引き戸を開けた。外はザアザアと音を立てて雨が降っている。黒色の大きな傘を開き、雨の中に一歩踏み出した。


 辺りは雨の音しか聞こえずひっそりとしている。集落内の狭い道路は、舗装も古くなり、所々に段差や穴ができている。そこに水たまりができているので、それを避けながら歩いて行く。


 集落の外れの方にポツンとある平屋の家が裕香の家だ。僕が小学校の頃まで、陶芸家の老夫婦が住んでいたが、お爺さんの方が病気で亡くなり、残されたお婆さんもそれを機にどこかに引っ越してしまったらしく、ここ数年は空家となっていた。


 ピンポーン——


 玄関のインターホンが軽い音を出した。返事はない。出直そうかと思って、その家に背中を向けたところだった。


「待って——」


 思わずビクッとして立ち止まる。黒い傘を傾けて、ゆっくりと後ろを振り返った。すると、縁側の窓が開いていて、そこに裕香が立っていた。


「あ……あの……」


 何と説明したらよいのか急に分からなくなる。口ごもってしまい黙ってしまうと、彼女の方が先に言葉を出した。


「今、開けるから」


 彼女はそれだけ言って、窓を閉めて玄関の方に向かった。僕はゆっくりと玄関に近づくと、曇りガラスの向こうに人影が現れ、鍵をガチャと開ける音がした。僕は引き戸を横に開ける。ガラガラと意外に大きな音がして戸が開くと、そこに裕香の姿があった。いつも掛けている眼鏡がなく、一瞬、別人のように感じる。


「プリント……持ってきた」


 それだけ言って彼女に封筒を渡す。彼女はそれを受け取ると、「上がって」と言って背中を向けて奥に歩いて行ってしまった。その姿をただ見送っていたが、彼女が戻ってこないので、「お邪魔します」と言って靴を脱いで家の中に上がった。


 短い廊下の向こうは8畳ほどの居間となっていて、そこにコタツテーブルがあり、コタツ布団も掛けられている。端の方の黒い台の上に小型のテレビが置かれているが、後は壁にカレンダーが掛けられているだけで、他に目立つものはない。引っ越して1か月程度しか経っていないからかもしれないが、かなり殺風景だ。


 隣がキッチンとなっているらしく、彼女がやかんから急須にお湯を入れている。「少し待ってて」と彼女がこちらを見るともなく言うので、敷かれている座布団に座り、コタツ布団の中に足を入れた。


 ほどなく、彼女はお盆に急須と湯飲み茶碗を2つ乗せて、居間に戻ってきた。彼女の様子をチラッと見る。見たところ、先週までの彼女と変わった様子はない。むしろ眼鏡がない分だけ、大人っぽく見えた。


「わざわざありがとう」


 彼女はそう言いながら、僕の斜め左側に座って、急須から湯飲み茶碗にお茶を入れた。濃い緑色が茶碗に満たされていく。


「あの……元気だった? 田中先生も心配してたよ」


「そう……」


 彼女はそれだけ言って自分の茶碗にお茶を入れ始めた。その様子をじっと見つめる。彼女はこちらの方は見ないまま、急須をお盆の上に戻すと、目の前の茶碗を持って一口飲んだ。そして、大きなため息をつくと、居間の窓の方を見つめた。沈黙のまま、しばらく経った時だった。


武尊たけるくんは、逃げないの?」


 えっ、と裕香の方を振り向いた。急に何を言うのだろう。


「それって……どういうこと?」


 すると彼女は、僕の方を向いて笑うと、明るい声で言った。


「私のお父さん、逮捕されてるんだ」


 一瞬、何かの聞き間違いではないかと思う。すると、彼女は笑顔のまま、もう一度言った。


「お父さんは勤めていた会社のお金を着服して、競馬やパチンコに使っていたみたいなの。それがバレて、お父さんは逮捕された。だから、お母さんは離婚して、私と一緒にここに逃げてきた。ここなら、誰も私達のことは分からない。そう思ってた。だけど……誰かがそのことに気づいた」


 彼女は、再び茶碗を持って、一口飲んだ。


「先週の月曜日に、私の下駄箱の中に、ノートの切れ端みたいなのが入ってた。そこに『犯罪人の娘』って書いてあった。……それを見て私は逃げた。教室に行けば、みんなは必ず私のことを白い目で見る。きっとお父さんが着服したお金で暮らしているって思ってる。だから、もう行きたくない」


 彼女は再び窓の外の方を見た。沈黙の中で外の雨の音が聞こえて来る。


「でも……そんなの分からないよ。行ってみないと」


「分かるの!」


 彼女が強く言って下を向いた。彼女が鼻をすするような音が聞こえてきた。僕はどうしてよいか分からずにただ黙っていると、彼女は大きく息をして、顔を上げた。


「どうして……あなたは逃げないの?」


 こちらを向いて再び彼女が尋ねる。


「どういうこと? ……その『逃げない』っていうのは」


「私は……5分後の未来が見えるの」


 唖然とした。その言葉を思わず繰り返す。「未来……」と。すると彼女は頷いて、指で涙を拭うと、こちらを向いて笑った。


「気持ちを落ち着かせて、未来を見たいと思うと見えるの。5分後に何が起こるか」


 フフっと笑って彼女は茶碗を持って口を付けた。


「あの日も、私の目の前に広がる光景が見えた。皆が白い目で一瞬見て、そして一斉に視線を逸らす光景が。どこかでヒソヒソと話す声も聞こえた。その次の日も、学校の近くまでは行ったけど、やっぱり同じような感じの光景が見えた。……それに、今日だって、武尊くんが来ることが分かってたから、やかんでお湯を沸かしていた。だからすぐにお茶が出せた。そしてあなたは……私を置いて去っていく」


「そんなことが……まさか」


 彼女はゆっくりと頷いた。雨の音が激しくなってくるのが分かる。思わず目の前の茶碗を手にすると、その緑色の飲み物を口に入れた。口の中に苦い緑茶の味が広がり、喉の奥を熱いものが伝わっていくのを感じながら、俯いてしまった。彼女もただ黙って窓の方を眺めている。しばらく沈黙が続いていたが、僕は大きく一度深呼吸をして、頷いてから口を開いた。


「あのさ——」


 彼女がこちらを向いた。僕も彼女の方を見る。


「僕は、逃げないよ」


 そこまで言うと、彼女の方に笑顔を向けた。


「だって僕には、1時間後の未来が見えるから」


 目の前の裕香が「えっ……」と声に出す。


「裕香ちゃんがこの話をしてくれるのは、僕は家を出る前から分かっていた。インターホンを押して帰ろうとすると、窓を開けてこちらに呼びかけて来ることまで」


 じっとこちらを見つめる彼女の前で、僕も彼女を見つめ返す。


「未来が見えるのは、それだけ準備ができるってこと。望ましい未来ならもっと望ましい未来に。悪い未来なら、少しでも良い未来に変えられるように。残された時間の中で僕達はその準備ができる。だから、未来は常に変わるって。……あ、これはうちの母さんの受け売りだけどね。母さんは1週間くらい先の未来まで見えるらしいから。僕がここに来ることが分かっていたから、先週から君のお母さんを誘って、午前中にこの家に2人だけになるようにしたんだ」


「まさか……本当に?」


 静かに尋ねる裕香の前で、僕は笑顔で頷く。


「だから、たった5分後の未来だけで、全てを判断しない方がいいよ。その5分の間に、その世界は全く違うものになるかもしれない。少なくとも僕は、学校で裕香ちゃんにとって悪い未来が見えたら、そうならないように頑張るつもり。それが、未来が見える人間が本当に果たすべき役割だと思ってる」


 僕はそう言って立ち上がる。


「言いたかったのはそれだけ。じゃ、月曜日の朝は、道祖神さまの前で待ってるから」


 言い終わると彼女に一礼して、居間を出ると短い廊下を歩いて行く。玄関で靴に足を入れたところで、後ろから追って来る足音が聞こえた。


「武尊くん!」


 彼女の声が聞こえたと思うと、後ろから急に抱きしめられた。彼女の体温が背中から感じられる。


「これも……分かってた?」


 すぐ傍から聞こえる彼女の声に、僕は前を向いたまま首を振った。


「未来は、変わるよ。自分次第でね」

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