終わりと始まりの夢 Möbius loop

小田舵木

終わりと始まりの夢 Möbius loop


 私が『フラッシュ・フォワード』と呼ばれる現象を初めて経験したのは、14の夏の昼下がり。


 あの日は呆れるほど暑かった。朝方に宿題を片付け、部屋で読書をしていた時の事。

 読んでいた本はSFだ。あるアメリカ人の男が時空間に解き放たれる話。

 あっちに行ったり、こっちにいったりする時系列を追うのは、中々に面倒くさい。

 一体、彼は戦場に居るのか?歯科医なのか?はたまた未来の何処かなのか?


 その答えは―全ての時空という次元に連続して存在している、だ。


 哀れな地球人はその時々の時空しか認知出来ないが、主人公のアメリカ人と彼を時の中に解き放ったトイレのスッポン型の宇宙人は、時空の中を行ったり来たり出来る。

 だから。

 かのトイレのスッポン型の宇宙人は、

『死などその時々の状態に過ぎない』

 と言い切る。

 私はその意見に、本当にそうか?と思う。別に現実的な批判を浴びせたい訳ではない。

 だが。

 このお話の時空間は一本の線でしかない。ただ1つの答えに向かっていく。

 それは今日、棄却ききゃくされた『ラプラスの悪魔』が活躍出来る時空だ。

 然るべきパラメータをそろえれば、未来は予測出来る―科学にって『分からないこと』を消そうとした人類の夢。


 現実はそこまで甘くは出来ていない。

 物理的な事象は『マクロ』なレベルであれば、かなり正確に記述出来るようになった。予想を立てる事が出来るようになった。

 しかし、科学が発展するにつれ、より『ミクロ』な世界を垣間かいま見ることが出来るようになるにつれ、根本的な問題が噴出してきた。

『量子力学における不確定性原理』

 私はかの理論について深い理解をしている訳ではないが、おおよその要約は知っている。

「ミクロの世界では絶対的な予想は原理的に成り立たない。1つのパラメータを確定させると、他のパラメータは確率しか知りえない」


 かくして。

 人類は未来を知り得なくなってしまった。

 未来の近似きんじは取れても、絶対的な事は知り得ない。当たり前の事実を再確認したに過ぎないかも知れない。


 未来は予想できない。

 では、先程出てきた時空の線はどうなるのだろうか?

 私の頭の中には、ほぐれた糸がる。

 その糸の一方の端は『特異点とくいてん』だ。ビックバンで始まった宇宙の一点。

 そこから糸はほぐれている。無限に近いほぐれた細い糸が、未来に向かって伸びていく。

 その中の幾つかは、途中で途切れている。何らかのパラメータが放り込まれた結果、その宇宙は途絶えてしまったのだ。

 バタフライ・エフェクトに代表される初期値しょきち鋭敏性えいびんせい。『ミクロ』なパラメータでも決定的な破滅を呼び込む事もありる。


 残った数多あまたの糸は、熱力学第二法則―エントロピー―に方向付けられた未来に向かって伸びていく。

 宇宙上のエネルギーは秩序だった状態から乱雑な状態に変化していく。

 その過程で人類が『偶然』生まれる。

 『偶然』、と表現したのは、数多の奇跡で人類が成り立っているからだ。

 ちょっとしたパラメータが狂っていたら、人類は生まれなかった。重元素が生成されて居なければ、命は生まれない。

 重元素は星々の核融合の過程で産み落とされた。だから、私達は星の子なのだ。現実的な物言いをするなら、核廃棄物の成れのはてでもあるけど。


 数多の偶然の末、生まれた命―人類は地球の上で増えていく。

 与えられた命は世界を解き明かそうとする。それは欲求だ。お腹が減るのと同様に私達は世界を知りたがる。


 そうして。私達は思い至った―未来は知りえない、と。不安にかられ、未来を知りたがったのに。そこに皮肉を見るのは人情だ。


 ほぐれた数多の糸の行く末。私が歩む時空の先。それは何処に向かっていくのだろう?

 行き着く果は終わり、なのだが、その終わりはどんな景色なのだろう?


                   ◆


 目を開くと、荒涼こうりょうとした世界が広がっている。

 朽ち果てたビルが林立している。

 まるで世紀末モノの映画みたいだ。自分の想像力のとぼしさが可笑おかしい。

 

 私はそこを歩む。

 裸足はだしの足の裏に砂利があたって痛い。

 文明は―絶えて久しいらしい。そこには生命の息吹はない。

 何処かの馬鹿が核戦争でもやってしまったのか?はたまた天変地異で荒れてしまったのか?私には判別がつかない。


 築き上げた文明、モノ。それはいつか崩れ落ちる。

 秩序は破られがちだ。それは『エントロピー』という概念で示すことが出来る。

 無から有が出来れば、いつかまた無に戻る。始まりが在るのなら終わりもなくてはならない。人類が夢見た永遠は神と同義だ。

 ちなみに。私は無神論者ではない。発達した文明は神を嫌う―というのは前時代的な考え方だ。

 全てを知れる、と無邪気に信じている阿呆だけが神を嫌うことが出来る。

 かと言って。私は人類の発明たる神を盲信もうしんすることも出来ない。彼らは人のしることのみす。私達の想像力の先には神は居ない。


 人が絶えて久しいこの地には、神は居ない。

 私はその場でしゃがみ込む。むき出しになった地面に触れる。

 そして想像する。赤い色を。

 赤。それは血の色。血。それは心臓から送り出され、体を巡る。

 脈を打つ心臓が私のてのひらの上にる。心臓が在るのなら―体も欲しいところだ。

 心臓から血管を延ばす。その様は植物が成長する様に似ている。

 支えのない血管は自立出来ない。昔、アサガオにしてやったのと同じように支柱に這わせてあげよう…そう、骨だ。

 骨に沿わせた血管は何処か不格好。貧相に見えて仕方ない。このままではすぐ朽ちてしまいかねない。

 足元の土塊つちくれをこねあげ、骨に塗りたくる。自然と自分と同じようなカタチにしてしまう。

 見た目だけは私そっくりになった、目の前の『モノ』。でも、それは今の所ただの人形。人形には『魂』は宿っていない。


 この土塊と他諸々の人形に『魂』を込める術。それは何なのだろう?

 私は『魂』、という曖昧な言葉を出した。だが。それは何を指し示す?

「生きてるものには『魂』が宿ってるのでは?」シンプルな定義。

 しかし、シンプルゆえに根本的な疑問が残る。『生きる』って何なのだろう?

「生きてるというのは―生命活動をしている、という事さ。食べ、考え、生殖する」

 食と生殖、それは分かった。考える、の方が難問だ。


 いきものは生存の為に、考える。知恵無くして食べ物を得ることは叶わない、生殖する事は叶わない。

 何処かの宗教は―知恵を木の実につめて渡したんだっけ?

 私の手元には―赤い木の実。林檎に似たその実を目の前の人形に手渡す。


「僕は―」

「やあ。ようこそ、この世界に…いきなり意思の疎通そつうはかれるなんて驚きだ」

「君は誰、なんだ?」

「私?私は君を創った者さ」

「創った?」

「そう、君を創った」

「何の為に?」

「そこに世界が在ったから…後はまあ…暇だったもんでね」

「意味なく僕を生んだ、って事かい?」

「意味、なんて必要かい?」

「ある程度、はね」

「じゃあ―私の代わりに、探してきてくれないか?」

「頼まれても良いが―僕一人では厳しいものがある」

「しょうがない…君の片割れを創るよ」

 そう言いながら私は次の『ニンゲン』を創り出す。



                  ◆


 私が創り上げたひと組の『ニンゲン』。

 彼と彼女は、生活を始める。そのうち、生殖が出来るようになり、自然の成り行きで子どもを為す。

 その子どもがまた育ち、生殖し―それの繰り返しの末にコミュニティが出来る。

 まだ、『ニンゲン』が少ない頃は、私は彼らの前にあらわれていた。だが。そのうち、彼らだけで前に進めるようになっていく。

 創世そうせいに神は必要だが―文明に神は必須ではない。何故なら、その内、私は嫌われるのだから。


『神は―死んだ』誰かがそう言う。

「私は死んでいないさ」と私はつぶやく。でも、『ニンゲン』は聞いてはいない。

『高度に発展した科学は魔法と区別がつかない』誰かがそう言う。

「君たちは考えるのを止めたのかい?」と私は『ニンゲン』に問う。

『宇宙は―観測する者の為に整えられたかのようだ…』と『ニンゲン』はつぶやく。

「何時から君たちは創造主の座にいた?」と私は難詰なんきつする。


                  ◆


 始まりが在れば、終わりが在る。私が創り上げた文明は―終わりを告げようとしている。

 文明は、その生みの親を殺す。それは誰か?私だ。責任の所在は私らしい。

 いや、勝手に彼らが滅んだだけなのだけど。私が始めたからには私が幕を降ろさねばならない…らしい。まったく、たまったものじゃない。


「さて」私は誰も居なくなった世界でつぶやく。その声は寂れた世界に響き渡る。

「そろそろ私も死ぬ時か」誰もこたえてくれない。

 視線を上げれば空があり、その先には宇宙。

 特異点から始まった宇宙。だが人は特異点を嫌う。

 『特異』という言葉が本来持ち出されるような言葉ではないからだ。数学というフレームワークの中でなら、仮定としておけるが―現実的ではない。

 現実的ではない仮定を置いた宇宙論は、インフレーションでぎ木された。そうして―膨張し続ける事になった。

 それは一見道理が通ってないように思える。終わりが見えないからだ。

 星は命を終えると、時間をかけ圧縮され、ブラックホールと化す。重力が無限にかかり続け、光さえ脱出できない奈落と化す。それは人が嫌う特異点を持つように見える。宇宙的スケールで見ればあまりにもちっぽけなモノだが。


 ブラックホールが増え続ければ―いつか、宇宙は一点に収まる。

 そうして、始まりに何処か似た終わりが現れる。まるで輪のよう。


 輪の中の私達。

 その命に何の意味が在るのだろう?

 意味などない…そう言い切れれば、どれだけ楽だろう?しかし、生き続ける命は、問わずには居られない。

「どうして―生まれたんだろう?」

 君の親と親が生殖した末―というお決まりの逃げはナシだ。そういう事を問うているのではない。

 どうやって―土塊つちくれ同様のタンパク質と水分と他諸々の乗り物に、『魂』ないし、『自我』が生まれた?

 この問題の面倒なところは―問う対象が『自我』であること。ある種の同語反復トートロジーであること。ついでに言うと脳みその仕組みが知りたいわけでもない。

 気がついたら持っていた『自我』、私。『私』と君の違いはなんだ?なんで君は『私』の外に在るの? 

 古い思考のフレームに『独我論どくがろん』というモノが在る。その主張をアルティメットに尖らせていけば、『私』以外の全ては『私』の中に収まる、世界は『私』から開けているのだ、という主張になる。

 先程、『ニンゲン』が至った、『宇宙は―観測する者の為に整えられたかのようだ…』という『人間原理』とよく似た自分本位なこの主張は他者、他我たがに理解されることはありえない。


 …そろそろ死のう、って言うのに。私は多くの疑問を抱えたまま。

 生きていけば、大抵の問題に答が出ると無邪気に信じていた。

 だが。

 そのような事はない。時間を進めれば進めるほど、疑問は増えていく。

 答のない問とたわむれることこそ人生さ、なんて老人のような感想が浮かぶ。

 もうすぐ、私の体から『自我』ないし『私』は消える。

 それから時間を進めれば、天の川銀河は崩壊する。その課程でブラックホールが生まれるだろう。

 そして。さらに時間を進めていけば―1つの点になる…それが宇宙の終わりなのかも知れない。断言できないのは今の私に知る術はなく、確かめるほどの時間が残ってないからだ。

 

 人は死ぬと21g分だけ質量しつりょうが減ると言う。それが魂の重みなのだ、と主張した人が居る。

 それは正解ではないが、近似きんじとしてはいい線を突いているように思う。人間の知性は近似を求める事は出来ても、絶対的な正解を得ることはない。


 わずかな違いに『私』は移っていく。

 少しづつ溶ける意識。溶けきってしまったら、後は無数の何かに変わって、空に消えていくだろう。

 どうしてか眠りに似たこの感覚。溺れて行く私に後悔はない―



                 ◆


 気がつくと。

 あかね色の陽に包まれ、私は自分の部屋の机の上に突っ伏していた。

 随分、変な夢を見ていた。それは断言できるのだけど…内容をつぶさに思い出せない。

 しかし、未来を見ていた…ような気がする。いや、ただのファンタジーかも知れない。


 『胡蝶こちょうの夢』、ないし『邯鄲かんたん』。

 人は昔から夢の中で未来を見たような気がするモノらしい。

 私は現実的な感覚で、

「そんなアホな」と思う事も出来る。だが。そう言い切ってしまう根拠などない。

 世界は滅んだ後に―時間をかけ、この状態に戻りました、と言われても、私に確認する術は―ない。


     【『終わりと始まりの夢 Möbius loop』 終】




             ※※※

 この物語は、

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『円環の廃墟』

 と

 ロジャー・ペンローズ 『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じのなのか』

 に触発されて書いた。

 また、冒頭で言及されるSFは、

 カート・ヴォネガット 『スローターハウス5』である。


             ※※※


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終わりと始まりの夢 Möbius loop 小田舵木 @odakajiki

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