【12】満ちる恋心3
食事の後、乾いた服にもう一度着替えると私達は宿を後にした。梶田が食事を頼んだのは、女将の親切に対してのせめてもの売上貢献だった。
大きなエビフライに優しい味の汁物、海草のサラダとお刺身までついたが、1人たったの千円だと聞いて、帰り際の支払いの時、梶田は聞き間違いじゃないかと女将に再度値段を確認し直していた。
車の中でのしばらくの無言を、音楽を聴くことで打開し、ジェネレーションギャップを擦り合わせながら会話していく事が、汐里の緊張を解いた。
家の近くまで来ると、1度例の公園の駐車場に寄って車を停めた。
「大澤、さっき言ってくれた事だけど……」
そこで本題を切り出されて、また顔が茹で上がったが、慣れてきたのか取り乱さずに済んだ。
「今、ちゃんと答えた方がいい?」
今度は茶化す事無く、梶田はまっすぐに私を見て言った。その真剣な目にこちらも照れてる場合ではないと、気持ちを引き締める。
「……いえ、何か決断することでもないのでその、そういう事実があることだけ知ってて貰えたらそれで……でも」
言いながら涙が溢れるのを止められなかった。ダメだ!重いって思われたくない。
「副会長みたいに、避けないで欲しいです、お願い……」
ボロボロと溢れる涙が膝で握った拳に落ちた。
「離れて行かないで」
思わず言った私の頭にそっと梶田の手が置かれた。その温もりが切ない。訴えて泣くしか出来ない自分の拙さがもどかしい。もっと上手く言葉に出来たら、と思う。
「ここにいるよ、置いてったりしない。……先生としてだけど、これまでと同じように話は聞くし、辛かったらいつでも電話してきていいよ」
先生として。その柔らかな境界線を引かれた事にチクリと胸が痛む。だけど現状維持の免罪符は手に入れた。
「迷惑じゃないですか?私、重いですよね?」
やがてあたまから離れた温もりを名残惜しく思いつつ、カバンから出したタオルハンカチで涙を拭った。
「何言ってんの、そんなことないよ」
梶田は笑った。
「だから気にしなくていい、まあ、20歳くらいになって大澤の気が変わらなかったら、俺も考えるわ」
「……随分先ですね、3年後なんて」
ぐずっと啜りあげて梶田を見る。
「君らの3年と俺らの3年は違うからなー?あっという間に過ぎそうだけどね」
梶田はフロントガラスの方を見すえた。
「じゃあ……」
私は顔を上げた。梶田がこちらを見る。その瞳に訴えかける。
「じゃあ、大学に、受かったら、私が高校を卒業したら返事をください」
私は勇気を出して言った。ダメ元なのはわかってる。それでも言わずにいられなかった。梶田は少し目を丸くしたのを、また細め、ふう、と息を吐いた。
「わかった、約束な」
そう言ってフワリと笑った。
「はい、約束です」
小指を差し出した。そこに梶田の小指が絡む。
確かに感じ取る体温。約束の温もり。
私はその時、確かに幸せだった。もし叶えば禁断の関係。梶田はそれを頭から否定もせずに答えを保留してくれた。
***
あの頃の梶田の年齢を越した今、彼のあの優しさは狡いと思う。まだほんの子供だったあんなふうに優しくされたら期待してしまう。囚われて先に進めなくなる。ある意味副会長にきっぱり断ったのは大人の対応だったと思う。
棚の中から出した木彫りのオルゴールを開けた。綺麗に細やかな音の粒を弾きながらカノンが流れる。
その中からひとつの貝殻をつまみ上げる。あの夜、別れ際に梶田がくれた親指の先程の大きさの貝殻。薄紫色のその貝殻は、あの宿から見た夕暮れ時の海の色に似ていた。
「大澤みたいな貝だよね」
そんなふうに言われたことも、いい思い出だ。
今はもう、彼は春に桜の坂道ができるあの学校を辞めてしまって、どこで教えているかも知らない。元気でいて欲しい、いつか私に話してくれた夢を、まだずっと持ち続けていてくれたら、と思う。
このところ背中の痛みが続いていて、少し食欲が落ち始めていた。
まだ大丈夫なうちに会いたい人。あの時、海斗が背中を押してくれなかったら、今、会いたいのは梶田だったかもしれない。
窓から入ってきた風がレースのカーテンを揺らす。そろそろ夕暮れだ。
あの宿はまだあるのかな。
貝殻の薄紫色を見つめて、あの夕暮れの空を想った。
***
たんたんたん……キュッキュ、階段を降りる音とスニーカーのソールのゴムが床を捉える音がマンションの階段室に響く。頭が空洞になったみたいに何も考えられなくてただ、無心に階段を降りる。
先程見た光景が脳裏にこびりついて離れない。
8月半ば。夏休みも中盤。6月から始めたレストランでのバイトの帰りだった。1週間も声を聞いていなかった梶田に会いたくて、部屋に行ってもいい?と送ったメールの返事も無いのに梶田のマンションの部屋を突撃訪問した。
ほんの悪戯心からだった。それを笑って許してくれるほどには、あの海から帰った後、梶田とは打ち解けていた。
ただ、梶田の驚く顔が見たかったのだ。私の悪戯に困った顔して欲しかった。
ドキドキしながら部屋のチャイムを鳴らした。しばらくしてその白いドアを開けたのは梶田ではなかった。
さらりと艶のいい髪のポニーテールに飾りのついた革紐で根元から縛った髪型。白いシャツワンピースに涼し気な青いカーディガン。綺麗に化粧した唇は艶のある口紅が白い肌に映えて……スラッと背の高い女性だった。
「えーと、どなた?生徒さんかな?」
その人は言いながらゆっくり後ろを振り返った。その時、信じられないものを見た。胸元からの体のライン。腹部がその細身の体型には似合わないほど膨らんでいて、そこに添えられた白く細い左手の薬指に石の入った指輪が。
「陸ー、ねえ、宅配じゃなったよ?お客さん」
私は、そこから逃げたくなった。目の前のその人は、梶田にとっての誰だか本能でもう察知している。だけど足が地面に張り付いたように動かなかった。
「えー?誰?」
1週間ぶりに聞く梶田の声がした。ダメだ、動かなきゃ……
リビングから顔を出した梶田と目が合った。その驚きを含んだ表情に、弾かれたように私はそこから逃げ出した。
違うと言って欲しい。そう思ってあそこから動けなかった。
でも、梶田のあの表情が全てを語っていた。察してしまった。
梶田の隣に並び立つのは、ああいう大人の女性が似合うだろう。そんな事を気にして想像していただけに、それを形にしたような女の人が目の前に現れた事がショックでならなかった。
胸元がVの字に開いた白黒ボーダーのカットソー。黒のサスペンダーパンツ。小さなイニシャルの金のネックレス。夏休みに入って開けたピアス。薄く化粧をして、少し大人びた服を着て、それでも自分は、高校生だ。急に大人にはなれない。
さっきまで浮かれていた、自分の馬鹿さと幼さを呪いたくなる。
マンションのエントランスから飛び出した。日がすっかり昏れる間際だった。その空の紺色に泣きたくなりながらも、駅の方へと私はひたすら走った。
第1章 「薄紫色の恋」 終
NEXT 第2章 「渚色の男の子」
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