【10】満ちる恋心

 帰りの駐車場で、鮎川と佳代と別れた。佳代が最後、片目を瞑って合図を送ってきたのは、頑張れ、というメッセージだったのか、ただのからかい半分だったのか……。


「さっき川口と何話してたの?」

「え!?」

「女同士仲良くなったんだね」

「はあ、まあ」


 帰り際、佳代が、良かったら交換しないかと聞いてきてくれたので、連絡先を交換した。

 梶田の事を意識しだしたら、上手く言葉が出なくなってしまった。こんな事は初めてだった。ずっと胸の芯が熱を持っている。鼓動が収まろうとしない。


「ちょっとドライブがてら遠回りして帰っていいか?」


 梶田の提案に、助手席の私は大人しく頷いた。帰っても特にすることも無い。祖父と同じ家にいると気まずいのは相変わらずだった。


 県道から下道をそれてやって来たのは、海岸沿いの道だった。駐車場に車を停めた梶田は、休憩な、と言って浜の方へと歩いてゆく。その後ろ姿に、胸がキュッとした。


 午後の日差しが海面にキラキラと反射して、ひかりが踊っているように見える。風が背の高い梶田の髪や羽織ってる薄いブルーの綿のシャツをはためかせた。


 その立ち姿が綺麗で、目頭が熱くなった。男の人を綺麗だと思うとか、どうかしてると自分で思う。それでも見とれてしまうほど、綺麗だったのだ。


「風がちょっとあるな。でも梅雨に入る前の海は蒸し暑くなくていい」


 振り返った梶田と目が合うと、私は頷いた。ドキドキと胸を打つ鼓動は相変わらずだ。そっと隣まで近づくと梶田の目線の先を同じように見つめた。


「風、寒くない?」


「大丈夫です」


 歩き出した梶田の斜め後ろを歩きながらその姿を目で追う。


『梶田のこと、好きなの?』


 先程佳代に言われた言葉を思い出すと、頬が熱く火照りドキドキと鼓動が高まり始めた。


 祖父母のことを打ち明けられて、秘密を共有して、少し親密になった生徒。


 きっと梶田からしたら自分は、ただそういう存在だろう。


 それ以外に何がある?


 私から見た梶田は、家庭の秘密を打ち明けて、相談に乗ってくれる教師で、みんなが憧れる人気の先生だ。いちご飴を持ち歩いてる可愛い所もあって、実はちょっと自分と似てることろもあって……


 砂を踏む感じが硬くなったと思い足元を振り向くと、波打ち際の濡れた砂に私と梶田の足跡が付いていた。大きな足跡だなあ、とその隣に付いた私の小さな足跡と見比べる。トクトクと収まらない鼓動の音を、やってきた大きな波の音がかき消した。ウミネコの鳴く声。風に晒される首元が気持ちいい。もう一度振り返ると、先程まであった2人の足跡を白波が打ち寄せて消し去る。


 西に傾き始めた太陽が赤みを帯びた色へと変わり始めている。

 足元の砂を踏む感覚にひとつの記憶が蘇る。


「昔、ここに来たことがあります」


 ずっと黙っていた私が急に口を開いたので、梶田は少し驚いたように振り返った。


「うん?誰と?」


「両親と3人で。海水浴に来て。父にいっぱい遊んでもらって嬉しかったな」


 言葉にしてみてようやくわかった気がする。今私が梶田の事を意識しているのは、きっとその頃の父と年格好が似ているからだ。黒いふちの眼鏡をかけて、笑った時に目尻がキュッと細くなる所も。


 母は社交的だったけど、父はどちらかと言うと祖父のように無口な方で、それでも、自分の様子はよく気にかけてくれていて、元気がない時は冗談を言って笑わせてくれるような人だった。


「帰りにね、私が振り返った時、両親がが手を繋いでたんです。すごく幸せそうで、嬉しかったけど、反対に凄く不安になったんです。二人は私がいたら邪魔なんじゃないかなって」


 言いながら鼻の奥がツンとした。梶田の表情が少し曇った。


「……どうしてそんなふうに思ったの?」


「喧嘩してる時の原因はいつも私の事でした」


 梶田は何も言わずに私を見つめている。


「さっき佳代さんに聞いたけど、だいたい小さな子のいる家ってみんなそんなものらしいですね。でもあの時の私は二人がこのまま私を置いていったらどうしようってすごく不安になったの」


 その時の不安な気持ちが丸ごとよみがえってきた。オレンジ色の夕日に照らされた自分たちと、長く伸びた黒々した影が怖くなって泣き出した私を、驚いて駆け寄ってきた二人が交互に抱きしめてくれた。私を母ごと抱く父の手がとても大きいんだなと思った事を覚えてる。


「今は、大丈夫だよ。俺は大澤を置いてったりしないよ」


 いつの間にか歩み寄り、目の前に立っていた梶田がこちらを見下ろしていた。

 梶田を見上げた自分の眉根が寄る。顔を背けて、込み上げてきた何かをぐっと堪えた。私は思い切ってその場で靴と靴下を脱いで、デーパードのパンツを簡単にたくしあげると、波打ち際を走り出した。


「ちょっと!大澤!」


 後ろから慌てた声が追いかけてくる。振り返ると、梶田も同じく靴下まで脱いでズボンをたくしあげていた。また前を向いて走り出したが、後ろから追いかけてきた梶田がすり抜けざまに私の手を取った。


 驚いて梶田の顔を見る。私を振り返って少年のようないたずらっぽい笑顔を見せたと思うと、グンと走るスピードをぐんとあげた。そのまま足が海水に浸かるところまでバシャバシャと水に入った。冷たい感触にドキリとする。


「冷たっ!」


 足元の軽く砂に埋まった小さな白い足。骨ばった梶田の足。透明の海水と泡立った波の名残。


「来た!」


 また直ぐに寄せてきた波から逃れるように後ろへと逃げた。掴まれた手が引っ張られて自分も走る。間に合わなくて足首まで被った波に梶田が片足をサッとあげる。


「ちょっと!ズボン濡れた!冷たいよ!」


「あははは!」


 梶田の大袈裟な反応に、目尻に涙を溜めて私は笑う。


「よし来い!リベンジだ!」


「ヤダヤダ!」


 波がやってくるのを避けては追いかけ、いつの間にかその手をお互いしっかり握りあっていた。あの日の両親のように。時々じゃれたように繋ぐ、友人達の女の手とは違う、祖父の手とも違う、大人の男の人の手。筋張って、暖かくて指先が少しかさついていて、力強くて。その温もりはとても安心できた。


 梶田の手の感触に、自分がそこに在る、と思える。


「どわ!」


 梶田が何かにつまづき、そのまま後ろ手に尻もちをつき、手を繋いでいた私も一緒に倒れ込む。バランスを崩した私を受け止めるように、梶田に抱きとめられた。


 手にだけあった温もりが肩を背中を温める。梶田の膝の間に座り込む形で倒れ込んだ私は、恐る恐る顔をあげた。ほんの10数センチの至近距離で目が合った。急激に心拍が上がった。高鳴る鼓動は全身の内を打つ。私はその時気がついてしまった。


光に反射して薄く濡れた鳶色の瞳に私が映っている。



「私……」


 目が潤む。吐く息が熱い。何かがどんどん溢れ出てくるような感覚。目の前の梶田の瞳に自分だけがいる。そこにこのまま閉じ込めて欲しいとすら思った。


「私、先生のこと好きだ」


 梶田の目がゆっくり見開かれた。

 恥ずかしいとか、そういう気持ちは不思議となかった。私の中に芽生えた初めての感情に気がついた、悟ったこと。


「ようやくわかったよ、恋ってこういうことなんだね」


 胸の芯が滾るように熱く燃えて、太鼓のように打ち付ける鼓動が全身を駆け巡り、身体中の熱が上がる。


 波が柔らかな水音を繰り返す中、梶田の目が細くなった。ゆっくりその手が頬に向けて伸びて来るのを、不思議と静かな気持ちで待った。


 だがその手は途中で止まり、肩にもう一度載せられた。

 梶田の視線が我に返ったかのようにそらされた。その事に胸がギュッと痛んだ。


「……どこも、痛くないか?」


「うん」


 身体を起こそうとした梶田をそっと引っ張り起こそうとした、その時、一際大きい波が打ち寄せてきて、よける暇もなく二人揃ってその波を被った。


「きゃあ!」

「冷たっ!」


 また尻もちを着いたままだった梶田はほぼ全身、私は腰から下がびしょびしょに濡れそぼった。お互いの顔を見合せて私は吹き出した。


「ぶっ!」


 梶田のいつものメガネがずり下がり、頭からワカメがぶら下がっていた。緊張が解けて、思わず私は耐えられずに笑いだした。


「笑うなよ!ふっ不可抗力なの!って、おわ!」


 梶田も笑いながら、更にやってきた波にどっぷり浸かってしまった。


「もーーぉ!冷めたい!」


「あははは」


 大笑いする私に釣られて梶田も笑いだした。目に涙が滲んでいるのは、笑っているせいだと、私は思い込もうとして、指でそれを拭った。

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