【9】自覚なかった?

 血の繋がりが無いことを知らない頃から、私は知らずと祖母に気を遣っていた。中学に上がる頃には祖母は65歳。まだまだ元気ではあったけれど、自分の肩をさすっている事に気がついてからは、朝、少し早起きするようになった。祖母にお弁当の作り方を教えて欲しいと言い出したのが料理を始めたきっかけだったかもしれない。


 別にいい子ぶろうとしてた訳じゃない。育ててくれた祖父母になるべく笑っていて欲しかった。辛そうな顔を見たくなかった。


 遡れば、父や母に対しても同じことを思っていた。二人が喧嘩することは時々あって、汐里は自分の部屋から出て廊下でその会話を聞いていることがあった。なにかのドラマで、そうやって言い争いした両親のどちらかが家を出ていく場面を見たことがあり、もしそうなったら自分が止めなきゃ行けないと思っていた。まだ6つかそこらの小さな子供だったのに。


 両親の喧嘩の原因はいつも自分だった事も子供心に理解していた。


 保育園の送り迎えのことや、その時通っていた病院のこと、父は仕事で忙しくていつも母が仕事を休んだり早退していた事に対して母が父を詰っていた。実際は、もう少しどうにかならないのかという言い方をしていただけなのだろうが、その母の必死さが、小さかった汐里には怒りからの言葉にしか聞こえなかった。自分がいなければ、両親はそんな喧嘩をせずに済んだのでは?などと思った。


「大澤?」


 声をかけられてハッとした。


「あ、もういいですか?」


「ああ、大澤は食べないの?まだ残ってるけど」


「ああ、はい、もうお腹いっぱいで。お行儀悪いけど残します」


 不意に蘇ってきた幼少の頃の思い出が切なくて食欲が削がれた。


「慣れないことして疲れたのかな?あ、帰りは家まで送るわ。会長もいないし」


 そう言われてようやく現実が帰ってきた。


「ああ、ありがとうございます」


 そうだ帰りも梶田の車に乗せてもらうのか、と嬉しい気持ちが湧き上がってきた。


 帰り際、彩美は他の子供たちと一緒にこちらへ駆け寄ってきて、粘土の残りで作った小さなリンゴをくれた。


「え?くれるの?」


 驚いて目を瞬かせた私に、彩美とグループの子達は、せーのっと言って、


「大澤先生、ありがとうございました!」


 と言った。私は面食らった。


「え……?先生?」


「え?違うの?」


 別の女の子が聞いた。


「私まだ高校生なの」


「なーんだ!ちょー若いと思った!」


 今度はやんちゃそうな男の子が言う。


「じゃあ、お姉さんの下の名前は?」


 彩美が聞くので、


「汐里」


「じゃあさ、言い直そう?」


 グループの子たちは嬉しそうにコソコソと話すと、もう一度整列した。一度せーのっと言って、


「汐里お姉さん、ありがとうございました!」


 じわ、と嬉しい気持ちが湧き上がった。ほんの一時間半ほど。大したことは出来なかったけれど、子供たちが笑顔でここから帰れることが嬉しかった。


「こちらこそありがとう。気をつけて帰ってね」


 手を振ると、バイバーイ!と手を振ってバスへと乗り込んで行った。彩美はそこに自分の居場所を見つけたようだ。バスに座った後も友達と楽しそうに話しているのを見て、自分の事のようにほっとした。


「可愛いよねー、低学年の子達は」


 他の職員の人たちも、ほのぼのとした気持ちでバスが出ていくのを見送る。見送り終わって、皆が建物へ戻る最中だった。


「うちの子も2年生なんだ」


 隣を歩く佳代が言った。


「え?!」


「言ったでしょ?大学中退したって。お腹に子供がいるのわかった時まだ2年にも上がって無かったな」


「ああ、はい」


「旦那はもう社会人だったしさ、産んでしばらくは休学して復帰すればいいって言ったけど、そんなに志すものも無かったから辞めちゃったんだよね大学」


「そうだったんですか……」


 いわゆるデキ婚ということだ。まだ男女の事に知識も少ないせいか、少し居心地が悪くなる。


「でもさ、ちゃんと卒業しておけばよかったとは思うわ。ちゃんと卒業して活躍してる同期の他の子達見てたら」


「そうですか」


「あなたも、選べるうちにやりたいと思ったことはやりきらないとダメよ?人生1回きりなんだから」


「……佳代さんは」


 私は足を止めた。佳代も足を止めて私を振り返った。額の上をピンで留めたボブヘアがサラリと揺れた。


「佳代さんは、子供が産まれてなかったらって考えた事ありますか?」


「うーん、産んだばっかりの時はまあね。……でも」


「でも?」


「ずっと必死で育ててるうちに、もう子供が自分の人生に居るのが当たり前になって、いないことは逆に考えられないな」


 汐里は佳代の顔をまじまじと見た。


「だって旦那との子供産むっていうのは自分で納得して決めたことだからさ。タラレバ言ってても状況が変わるわけじゃないし、その時を楽しまないと損するでしょ?」


「旦那さんと、喧嘩はしますか?」


「そんなのしょっちゅう!子供の送り迎えの当番守らなかったり、家事もサボったり。……まあ、私もダメなところはあるから向こうにも言われるしね」


 へへっと笑ってため息をついた。


「だからお互い様だよ。喧嘩になってでも言わないといけないことはある。そうやって落とし所を探って上手くやっていくんだし」


 佳代はカラッと笑った。人好きのしそうな、少しタレ気味の目が細まる。


「なんか、悩んでた?」


「え?」


「梶田が心配そうにあなたを見てた」


 ──見かける度にため息ついてたから、心配してた──


 以前言われたことを思い出してドキッと心臓がはねた。トクトクと心拍が速くなっていく。頬が熱い。


「……好きなんだ?」


 佳代がニヤッと笑った。


「え?」


 佳代の顔を凝視した。佳代は優しい顔で笑いながら私に問いかけた。


「梶田の事、好きなの?」


 自分たちよりも先に建物に入って行く梶田の後ろ姿に目を走らせた。視線に気がつき、振り返って手招きする梶田に、さらに頬が火照る。


「やだ、え?もしかして無自覚だった?」


 両頬を両手で覆う私を見て、佳代が少なからず焦りを見せた。


「ちょ……わかんないです。学校の先生の中では確かに1番カッコイイとは思ってましたけど、それは他の子達も同じように思ってる事だし……ただの憧れで……」

 しどろもどろに言う私に、佳代はそっと肩に手を当てた。その一部がふわりと温かくなる。目が合うと、労わるように笑って背中をポンポンとされた。


「いいよ、今答えが出なくても。きっと自然に気がつくよ」


 私は何も言えなくて、息苦しい肺に無理やり空気を吸い込む。


「なんかいいなぁ」


 自分の腰に手を当て空を仰いだ佳代は言った。その横顔にはなにか諦めのような哀愁が感じられた。それは一瞬で、カラッと笑ってみせた佳代は、私の背中を軽くポンと叩いて言った。


「さ、中入ろ?」


「……はい」


 佳代に優しく背中を押されて建物の方へと歩き出した。






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