【25】迎え火

「おばあちゃん、凄いな」


 少し心配げにこちらを見た祖父に、私は、大丈夫というようにひとつ頷いた。


「実里おばあちゃんも凄いけど、幸恵おばあちゃんも強いね」


 ふと、梶田の彼女の事を思い出した。一人で子供を産んで育てる覚悟をしていたと聞いた。新たな命を産む覚悟をした女というのは、皆そんなに強いものなのだろうか。


「おじいちゃんには勿体ない女たちだったよ」


「……おじいちゃん、モテたんだね」


 自然と少し茶化す事が出来た。自分も人を愛おしいと思う気持ちを知った。そして、嫉妬や別れのつらさも知った。


 状況は違えど梶田は彼女を、祖父は祖母を選んだ、それが真実だったのだろう。何かを選べば何かを犠牲にする。


 祖母の先程の涙は、幼少期の洋平を、父親のない子にしたことへの後悔だったのかもしれない。祖父の話を聞いてようやくそう気がついた。祖母は、優しすぎるところがある。


「他にはさっぱりだったけどな」


 すっかり薄くなった頭を撫でると、ふふっと汐里が笑顔を見せた。


「お前にはいつか話さんとあかんと思ってたんや」


 すっかり西の言葉が戻った耕作は、さっき棚から出した分厚いノートのような物を差し出した。草色の優しいハードカバーの。

 それはアルバムだった。開いてみると、洋平の赤ん坊の頃から高校の頃までを綴ったものだった。

「最初は幸恵が、実里が途中からとじてたもんや。洋平が結婚する時に渡したんやけど、またこっちに戻ってきてしもたわ」

 そのアルバムは、1度も見たことが無かった。


「お母さんのは見たことあったけど……初めて見た」


 洋平と一緒に写った幸恵は、自分によく似ていた。背は高くもなく低くもなく、細身で中性的な顔立ちをしていた。そして八重歯の口元を隠さずに洋平と写真に写っていた。


「私に似てる?」


「……ああ、よぉ似てる、見た目だけやなくて、気の強いとこもそっくりやわ」

 そう言って、耕作は汐里のおでこをちょんと指先で押した。汐里は笑った。自分のルーツを知ることとは、不思議なものだ。自分が生まれるよりも前に、とてもよく似た人間が生きていたこと、笑ったり苦しんだり人を愛したり、そうやって今の自分のように生きていたことがあったとは。


 幸恵の存在を知らずにいたら、こんなふうな気持ちになっただろうか。


「八重歯もな」


「あ……」


『笑うと八重歯が見えるとこ!』


 今日、海斗が赤くなりながら言った言葉を思い出す。なんだかくすぐったい気持ちになった。


「迎え火、今年も一緒に焚こうな」


 汐里は祖父をじっと見つめた。これまで耕作は毎年どんな気持ちで迎え火を焚きつけて来たのだろう。


 そして今年は、どう違うのだろう。



「うん」


 頷いた汐里に耕作は、嬉しそうに笑った。


「さて、今年は実里にも一緒に居てもらわんとな。こっちの親御さんには、祟られても仕方ないくらい一人娘に不義理したんやで」


 そう言って木材を手に立ち上がった。


 庭に戻ると、祖母は縁側に座っていた。着替えたのか、こざっぱりした藍染めのワンピースを着て。


「待ちくたびれました」


 おどけたように言った実里に、汐里は言った。


「おばあちゃん、その……色々酷いこと言ってごめんね。それと、ありがとう」


「うん?」


「お父さんのことも、私のことも、引き取って育ててくれて」


 微笑んで首を横に振った祖母の手元にはもうひとつ、木の端材が握られていた。


「それは?」


「うん、今年は一緒に焚こうと思って」


 そう言って耕作へその木を渡した。祖父も黙ってそれを受け取る。

 去年、祖母が裏口の前で木材一つだけの小さな迎え火を焚いていた事を思い出した。祖父に何故かと聞いても答えてくれなかったのだ。


「あの子は生まれて来れなかったけど、洋平が代わりにこんなに可愛い孫を私にくれた」


 実里は手を伸ばして、汐里の頬にそっと触れた。温かな、しっとり柔らかくシワのある指は、そうやってずっと私に愛を与えてくれた。その愛情に安心して大きくなったんだ、私は。


「代わりだとかいうのは良くないかもしれないけど、汐里が家に来てくれて、おばあちゃんほんとに嬉しかったんだよ?女の子を育てることが出来て、ほんとに嬉しかった」

 祖母は何度も嬉しいと言った。その言葉が私の胸にしみていった。



「汐里って言う名前はな、里の字は実里から貰ってるんやぞ?」


 祖父の言葉に、汐里は目を見開いた。


「そうだったんだね」


「洋平がな、生まれたてのお前を抱っこしてくれって言ってくれてな、その時に、実里の1文字を貰っていいかって言ったんだ」


「そうでしたねぇ、嬉しかったわ。汐の字はね、あなたの両親が出会ったのが夕方の海だったから。ロマンチックよね」


 潤んだ目で夢見るように語った祖母の言葉に、まだ両親の口から聞かされることは無かった、両親の遠い思い出が自分の名に記されてることを知った。夕暮れの海で手を繋いで幸せそうだった両親がまな裏に浮かぶ。


 妙に勘の良かった子供の頃の私は、名前の由来を祖父母に聞けば、困らせたり気を遣うかと思って聞けなかった。ようやく親がなくなった悲しみを心にしまうことが出来た自分に、2人が気を遣うのでは?と思ったのだ。


 もっとワガママ言って、少しくらい二人を困らせて大きくなっても、良かったのかもしれない。


『海が好きな人達だったのかな?ご両親』


 梶田の優しい声が蘇って心がひり、とした。今、この話を聞いて欲しいのはやはり梶田だ。きっと私は嬉しそうに祖父母から聞いた事を彼に話すだろう。だけど、もうその時は来ない。


 喪失感に自然と涙が溢れた。両手で口元を覆う。


「知らなかった」


祖母の手がそっと私の髪を撫でた。


「あなたは、愛されて、望まれて生まれてきたのよ。だから、これからも自分のこと、大事にしてね」


『幸せになってくれなきゃ、やりきれないよ!』


 梶田に言った言葉を心で反芻する。両親は若くしてこの世を去ってしまったけれど、遺した私がしあわせにならなければ、きっとやりきれないだろうな、そう思うと、涙を拭って顔を上げた。


 耕作が薪を重ねて、下に緩く丸めて差し込んだ没紙にマッチの火を移すと、薪は少しずつ火を広げ燃え始めた。桜材や樫の木、楓の木、いろんな木材の香が混じりあって煙をあげる。ぱちぱちと繊維の弾ける音がした。


 暑かった日の夕暮れ時。その煙がゆるゆると立ち上って空へと向かうのを、三人は見上げた。空には少し秋めいた筋雲が、遠くの夏雲と重なって見えた。


「そういえば汐里、あのオートバイの子とはどういうお付き合いをしてるの?」


 祖母の言葉に、汐里はハッとして祖父を見た。


「オートバイってなんだ?」

「いや、あの……」


「ほんとに彼氏じゃないの?」


「赤い車の男はどうしたんだ、汐里?」


「彼氏じゃない!この間泊めてもらったおうちの……」


「男の家に泊まった!?」


 耕作が目くじらを立てた。


「違う!誤解!ちゃんとお母さんも、お父さん?もいたし!おばあちゃんも電話で話したじゃない!?近所の人もいたし!」


「ああ、バーベキュー!美味しかった?もうこの歳になるとお肉なんて食べるのも大変だからね。うちではなかなか機会が無かったもの、良かったねぇ。楽しかった?」


 実里は本題はどこへやら、いつものように、ほのぼのと語りかける。祖父はまだなにか問いつめたそうに汐里を見る。


「汐里」


「はい」


 耕作は軽く眉間に皺を寄せてため息をついた。そして私をじっと見て笑った。


「その子、1度うちに連れて来なさい」


 そう言って祖母と顔を見合わせて笑った。


少しは、自分のことを信用して貰えたのだろうか。2人の笑顔にほっとした。


「うん、海斗はただの友達だけどね、まあ、お礼もしなきゃだし、今度うちに呼ぶよ」


 ぱちぱちと繊維が弾ける音が庭に響く。まだ鳴き止まないセミの鳴き声と、庭のどこかで鈴虫が鳴いているのがかすかに聞こえた。


 夏がゆき、秋がひっそりと訪れる。それは親が自らが分けた命を子に手渡し、しばらくの間重なり合って存在することに似ていた。


 次のバトンを渡すために、人は誰かを愛するのだ。汐里は女として初めて恋した梶田を思う。じきに梶田も父親となる。まだ、胸は痛むけれど、どうか愛した人が幸せであって欲しい、そう思えた。


 幸恵もそうだったのだろうか。祖父の事を思って身ごもった事を知らせずにいたのだろうか。


 会ったこともない、血縁の祖母に思いを馳せ、夏の夕暮れにゆるゆると立ち上る煙を見上げた。

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