【26】サヨナラの季節
秋口の爽やかな風が木々の葉を揺らす。扇形の青々とした葉は、朝夕気温が下がり始めたおかげで、木の所々がほんの少し黄みがかって来たようだ。
桜丘学園の校舎裏にある、昔は使われていた裏庭。そこの主のようなイチョウの木のそばに、木製のベンチがある。ほとんど資材置き場になりかけた庭だが、その人気のない庭のベンチに座ってぼんやりするのが、この学校で過ごす私のお気に入りの時間だった。後ろから下草を踏む足音がした。
「サボりか?」
かけられた聞きなれた声に私は胸に熱いものが込上げるのを感じた。振り返ると、いつもの紺色のスーツの上着は着ておらず、グレーのベストの腰に手を当て、ゆると姿勢を崩した背の高い男が一人。
数学教師の梶田陸がそこにいた。今は5限目だ。見れば手に携帯電話が握られている。
「うん」
早退?と聞かれ更に頷く。
梶田は、私とほんの少しの距離を開けてベンチへ座った。
「元気?」
「頭痛で早退ということになってはいますけど、まあ、元気です」
「ハハッまあ、成績落とすなよ?」
膝に肘をついた梶田の左手には、指輪が光る。その煌めきに胸がチクリとした。まだ、平気じゃない。
「髪切ったんだね」
言われて指輪から目を逸らした。梶田の目が自分を真っ直ぐ見ていた。
「はい。少しは大人っぽく見えますか?」
柔らかくうねる毛先に軽く触れて言ってみる。
「ああ、見違えた。よく似合ってる」
自分を見る梶田の目が細められる。
髪を切ったのは3日前の金曜日。学校帰りに寄った依子の経営している美容院にて。
『ほんとにいいの?』
依子は鏡の中でポンチョ姿の私と並び、私の猫っ毛をひと房つまみながら確認した。
『大人っぽくしてください』
と私が言うと、依子の目が真剣になった。
『任せなさーい』
ハサミが髪を落とす感触を楽しんだ。海斗の料理をする時の筋張った手と、ハサミを動かす依子のそれがよく似ていると思った。あいつ料理する時の手だけはカッコイイからな、と心の中で悪態をつきながら。
依子は、美容師でメイクアップアーティスト。街中のビルの一角に店を構えている。腕もいいので、店の評判はクチコミで伝わって、頼まれれば芸能人や業界人のヘアメイクの依頼にも答えるらしい。
仕上がった前下がりボブの汐里を見て、満足気に笑った。
『やっぱり似てるわね』
『え?』
『ううん、こっちのこと』
依子は笑った。その笑顔が少しだけ寂しそうで、自分が誰に似てるのだろう、と疑問が残った。
依子には、梶田との事も話していた。近々ちゃんと気持ちにケジメをつけたいと話して、依子から髪を切る提案を受けたのだった。気分変わるわよ?なんて。失恋して髪を切るなんてダサいって思ったけど、意外とその方法は私の心を少しだけ救ってくれたのだ。ダサい古くさいとバカにできないな、と髪の毛先に触れて思った。
「ちゃんと食べてる?」
梶田に聞かれて、心持ち関節の目立つようになった手首をそっと隠した。
「はい、食べてますよ」
本当はあまり食べられなくて、元々無い胸が下着の中で泳ぎ始めていた。いけないと思いつつお盆から2キロも体重が落ちていた。
「連絡、嬉しかったよ」
梶田に見せられたスマホの画面には、いちごの絵文字がひとつ。それでわかってくれると思っていた。
「ごめんなさい、もう最後にするから、その、少し話したくて」
私は前を向いたまま言った。もし誰かに見とがめられても、相談に乗って貰ったと言い訳できるように。
「祖父たちと話しました」
「おお、そうか」
「先生の言った通り。二人ともちゃんと話してくれて、こっちの話も聞いてくれたし、和解もしました。」
「それは良かった、ほっとしたよ」
「先生には相談してたから、その結果だけは自分の口から伝えたくて」
「うん」
用事が終われば、もう余計なことは話さない方がいい。だけど自分はまだ言っていないことがあった。
「私、ちゃんと言いたかったことあるんだけど」
「うん?」
体の向きをすこしだけ変えて、梶田の顔を真っ直ぐ見た。少し痩せたのは、自分だけじゃない。結婚することや先に子供が出来たことなど、既に噂になっていた。学校側からも色々言われることもあるのだろう。
「結婚、おめでとう」
「大澤……」
まだ痛む。私の目じりに滲んだ涙に気がついた梶田は、苦痛を耐えるように眉根を寄せた。
「そんな顔させたい訳じゃないんだ。ケジメって言うか、ちゃんと言いたかったの。話聞いてくれて嬉しかったから……短いあいだだったけど楽しかったってことも」
「ああ、それは俺もおなじだ」
「辞めちゃうんでしょ?学校、女の子たち騒いでた」
それも噂になっていた。受け持ちが3年で、受験生もいるのに教員が年度の途中でも変わるのは、ということも耳にした。
「引っ越すの。相手の実家の近くにね。あの人もそっちに異動願い出てそれが通ったから」
左手の薬指に光る真新しい指輪。眩しくて軽く目を伏せた。
「そう」
痛いが、穏やかな気持ちだった。
「ねえ、私に話してくれたこと、諦めないで?」
「え?」
「個人的に勉強を教えられる塾の先生?」
「……ああ。あれか。そうだな、……いつか実現させたいよな」
「約束」
右手の小指を差し出した。指切りするのに、誓の指輪のある手は嫌だった。
ふ、と笑って梶田の小指が絡む。
いつか自分を抱きしめた温度を小指に感じる。
「もうどっちかわかったんですか?お子さん」
「多分、女の子」
「先生、絶対可愛がるね」
「……そうだな」
「前にも言ったけど、先生、少しだけ父に似てるんです」
「ええ?」
「背はそんなに高くなかったけど、笑い方とかメガネかけてるとことか、手が大きいとことか、ね」
「そっか」
「だからじゃないけど……幸せになって欲しいです」
それは心からの言葉だった。隣にいるのは自分では無いけれど、どうか幸せでいて欲しい。
「俺も、大澤には幸せになって欲しいよ、好きな事沢山見つけて、好きな職業に就いて、精一杯生きて欲しい」
小指を離しがたくて、辛くなった。
大きく息を吸い込むと、思いきってそれを解いた。立ち上がって手を後ろで組んだ。まだ温もりの残る小指をもう一方の手でぎゅっと握る。
「もう行ってください」
「ああ」
梶田も立ち上がるとこちらに向き直った。
「来てくれてありがとう」
「こっちこそ」
最後に、目が合ったその一瞬、海で自分を見つめていた梶田の視線を思い出して、もうあの時のような熱をそこに見つけられなかった。心は確実に動いてしまったのだ。
どうすることも出来ない。自分たちは離れていく運命だ。せめて最後くらい笑顔で別れたい。
だけど上手く笑えなかった。
「じゃあな」
「さよなら」
背中を向けた梶田を見送る。大きく風が吹いてイチョウの木がザワザワと音を立てた。込み上げてきたものを止められず、頬に熱い涙が一筋滑り落ちた。
ふと、梶田が足を止めた。振り返った梶田がアンダースローでこちらに何かを投げた。放物線を描いて目の前に飛んできたそれを、何とか落とさずに受け取る。手のひらを広げるとテトラ型の包のチョコレートだった。
「明日、誕生日だったの今思い出したよ」
驚いて声が出なかった。ハッとして涙を袖で拭った。
「そんなもんしかないから悪いけど……」
「1日早いけど、17歳、おめでとう」
拭ったあとから、込み上げてきたものが溢れ出して、何も言えなかった。
「……ありがとう」
梶田はもう一度大きく手を振って、今度こそ校舎へと入っていった。優しい風がそよいで、涙で濡れた頬を撫でていく。そばのイチョウの木から葉擦れの音が聞こえる。
あとひと月もすれば、その扇の葉は一気に黄色く染まるだろう。二人が初めて言葉を交わしたあの日のように。
もう一度そのベンチに腰を下ろした。
テトラの包を見つめて、ふっと笑えた。
「嘘つき」
黒のマジックで、右上がりの癖の文字が書かれている。忘れてたなんて、嘘だ。
その時、ポケットのスマホが震えた。
画面を見ると、海斗からのメールだった。
“今日、バイト30分早く来れるか?”
──なんでよ?──
“店長がボチボチ、お前にデザート教えとけって”
──マジですか?──
“そっちにバイクで迎えに行ってやるよ、今日こっち終わるの早いから”
──いいよ、自分で行くから。バイクの後ろ乗ってるのバレたら停学だよ──
返信すると、私は立ち上がり肩にカバンをかける。
スマホの画面を操作する。アイコンは相変わらず自分の足元の写真。28.5cmもある大きな革靴。その下の四文字のアルファベットを見てときめいた、この数カ月が夏と共に去っていく。
着信がある度、メールが届く度、ドキンと胸が跳ねた。思い出して口角が上がる。その画面からもうひとつ操作を加える。
画面にでてきたゴミ箱マーク。
1度だけ大きく深呼吸した。
「えい!」
ぎゅっと目を瞑って、マークをタップした。
カバンにスマホとテトラのチョコレートをしまうと、立ち上がった。
“17歳おめでとう。いい女になってください”
テトラパッケージに書かれていた黒い油性ペンの文字。まさか職員室で書いたんじゃないだろうな、と梶田の相変わらずの不用心さを想像して苦笑いする。
両手を伸ばして空を仰ぐ。
またひとつ、彼氏のいない誕生日を迎えることになりそうだ。
それでも不思議に心は、今日の空のように晴れやかだった。
第二章 「渚色の男の子」 [完]
2022.10.10
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