【21】初恋は苦くて甘い
「こないだは、ごめん」
「……私が急に返事も聞かずに行ったのが悪かったんだよ」
本当は、そんなふうにはちらっと思うだけで、私に思わせぶりなことを言ってたくせに、彼女がいるなんていくら先生でも許せなかった。そもそも許す許さないの関係では無い事もわかってるが、それでも悔しい気持ちの行き場がなかった。でも嫌われたくなくてそれを口にできない。
「話、してもいい?」
聞かれて、数秒考えて頷いた。
「長くなるかもしれないから、そこ、座らない?」
そばにあった東屋を指さした。いつもの、車の中では、さすがに辛い。
「うん」
梶田が木の葉や枝をはらってくれたベンチへと座る。陸は1度車から2本ペットボトルを持って戻ってきた。話をするために用意してきたのかと思うと、何も知らなかったのは自分だけなのか、と悔しい気持ちになる。
梶田は角を挟んで右手に座った。
「彼女とは、4月に1度別れたんだ」
梶田は私の顔を注意深く見ながら話した。
「大澤の事も、あの人にあの日、話した」
「え?」
「嘘をつきたくないから、君が気持ちを打ち明けてくれたことも、返事を保留してることもちゃんと話したよ」
驚いた。ただの生徒だと思われていると思っていたのに、思っているよりも梶田は自分のことを真剣に考えてくれていたのだろうか。
「あの日は、彼女もあの少し前に突然部屋に来て、頼まれたものを探してる最中だったから、宅配の荷物が届いたと思って出てもらったんだ」
そこでふと思ったのは、別れた女の人が別れる前に貰ったような婚約指輪をして、元彼の所へやってくるだろうか、という事だ。
「大澤が俺の顔みて逃げたから、向こうは何となく察してたし、俺も状況に応じては話そうと思ってたから、君には悪いけど話した」
面白くなかった。二人だけの内緒の出来事を、元カノに話したということは、あの海での出来事も、もう2人だけの秘密ではない。
「彼女とは、三年前からの付き合いだったんだ」
「年明けに彼女の海外転勤が決まってさ。本当なら今年の秋結婚する予定だったけど、それを蹴ってでも、あの人は海外転勤を決めたの。やりたかった仕事が出来るって。つまり俺はフラれたんだ」
「何度か話し合って、結局、春先別れた」
梶田は大きくため息をついた。
「彼女の母親から連絡があったんだ、一度あの人と会って話して欲しいって」
「え?」
もう一度息を吐くと、決めたように重い口を開いた。
「彼女、妊娠してるんだ」
頭の心が痺れ始めた。
先日、玄関先で梶田を振り返った彼女が指輪の手でそっと触れた腹部は、そういうことだったのか。
「もう6ヶ月目に入る」
ようやく息を吸ったと同時に、涙が溢れ出した。そして、その罪のない命を、自分の望みを阻むものとして、邪魔だと思ってしまった。そんな自分の残酷さに傷ついた。
「先生は、その子の父親なの?」
梶田は頷いた。
濡れた瞳で梶田を見ると、自分を見つめてくる真剣な表情に、祖父が重なった。
『大切にするべき人を間違えた』
祖父は、父が浮気相手のお腹にいると思った時どう思ったんだろう。祖母はその時既に祖父とその人の関係を知ってたのだろうか。
生まれ出てくる命に罪は無いのに、それでもやはり自分は思ってしまう。その存在が邪魔だと。
だけど、もう解ってる。
この人は、梶田は、選んだのだ。そして、私にあの告白の返事をしに来たんだ。
良い返事じゃない事は明確だ。冷静に考えれば分かる。先生なんだから。生徒に対してそんな感情持つはずないんだから。
その事実が悲しくて、切なくて、心が軋むように痛くて、溢れ出てくる物を止められなかった。こんなに愛おしいのに、こんなに恋しい人なのに、忘れないといけないの?
梶田がそっとそばに座ってハンカチを差し出した。思わずその肩にすがりついて泣いた。嗚咽が漏れる。しばらくして遠慮がちに回された片手が背を撫でる。温かい。
先生は、今どんな気持ちなの?
結果的に彼女と復縁できることは、梶田にとって喜ばしい事だったのだろうか。
何よりも、自分の未来には梶田が隣にいることは無い、その事実が私を打ちのめす。涙が止まらなくて、叫びたくなる。
(そんなのってないよ!)
両親が亡くなってから、こんなふうに駄々をこねるように泣いた事がない。ずっといい子にしないとって、祖父母に負担をかけないようにって、ずっとそうしてきたから。
色んな気持ちがぐるぐると私の体を駆け巡った。
どれくらい時間が経ったのか。梶田のシャツの肩が湿ってしまって、ふと吹いた風が爽やかに頬を撫でたのが気持ちよく感じた。
「彼女、子供産むの?」
ガラガラの声で私は聞いた。嵐が去った後のように、妙に心が静かだった。ただ、胸は痛いし、腫れてるであろう目元も痛い。
「ああ。本当なら一人で産むつもりしてたらしい。今更俺には言えないって。その、ずっと不順だったから、気がついたのがこの間で……結局転勤の話も無くなったって。連絡が遅かったのも、そういうことだ」
私は梶田に渡されたハンカチで頬を拭った。
「先生はどうするの?」
陸はこちらをじっと見つめ返した。その目が熱く潤んでいるのが分かる。
「君に変に期待を持たせてしまった事、気になってた」
「彼女と子供に対しては責任は取らないといけないし、彼女との復縁は別れてからもずっと望んでいたことだから」
頭を下げられた。
「君にいい返事は出来ない」
腫れぼったい目元や頬がジンジンしている。指先が痺れて冷たいのが分かる。静かに頭を下げる陸を見つめた。
ふと自分の膝元を見ると、こんな時に素っ気ないジーンズとTシャツ姿だということに今更気がついた。梶田に会う時はいつもはもう少し大人っぽい服を着ているのに。
「もう、いいです」
私は言った。陸は顔をあげない。
「頭、あげてください」
梶田は恐る恐る頭を上げて私を見下ろした。小さくため息をつくと、もう一度真っ直ぐに私を見た。
「君を見てると、昔の自分を思い出したよ」
「先生……」
梶田はふっと笑った。その目尻が少しだけ光ったのを見た。
「不思議な子だよね、大澤は。大人びてるかと思ったらやっぱり高校生だ」
「……」
「1度話してから、なんとなく気になって、落ち込んでる顔を見たら何かしてやりたいって思った」
陸の手が自分のそれに重なった。
「でもそれは先生としてだ。だから、気持ちを打ち明けてくれた大澤に、ちゃんと返事しに来たんだ」
あの海で繋いだ手は温かくて、不意に近づいた距離にドキドキして、恋って、そういうことなんだと身をもって知った。
こんなにキラキラとした熱い思いが自分の中から生まれるなんて知らなかった。そして、ドロドロと醜い気持ちも。
「私のこと、少しは好きだった?」
まさか、そんなことあるわけない。そう思いながらも聞かずにいられなかった。
嘘でもいいから、そう言って欲しかった。真っ直ぐに見つめた梶田の目が伏せられた。
「……ごめん」
「冗談だよ、わかってる」
わかっていてもまた鼻の奥がツンとした。
「歳が近くて、もっと若い時に出会ってたら分からなかったよ」
「先生は、そんなこと言ったらダメだよ。あの女の人も、産まれてくる子供も可哀想だよ」
「……そうだな」
祖父に言われて悲しかったことも、梶田には話していたから。きっとその意味をわかってくれてる。
「うん、君にちゃんと伝えたくてここにいるんだ」
「君が数ヶ月でだんだん大人になっていくのが見てて楽しかった。大澤はどんな大人になるんだろうって、そう思ったよ」
泣き顔になりそうなのを必死でこらえる。
「気が済むまで泣いていいよ。ちゃんとここに居るから」
「泣きたくないよ、最後でしょ?こうやって会えるの。少しは歳の割に大人っぽくていい女だったって風に覚えてて欲しいよ」
重ねられていた梶田の手を、そっと握り直した。その手からいちご飴の香りがほんのりとした。その香りが胸にツンと来て涙が止まらなくなった。
言いながらも声はガラガラだし、カッコ悪すぎる。でも、それが今精一杯の私だ。取り繕った所でそれ以上にはならない。
「早く、大人になりたい」
掠れた絞り出した声。
「君はまだ16だろ?これからまだまだ成長するんだから」
「彼女と別れて、暗かった俺の気持ちが晴れたのは君がいたからだよ」
梶田の言葉にふと思った。
「ねえ、その人、先生に意地悪したりしないよね?また先生を置いていこうとしたりしないよね?」
握った手に少し力が篭もる。
「先のことは分からないよ。ただ、今最善の選択をするだけだ」
「だって……こんな苦しい気持ちなのに、先生が幸せになってくれなきゃ、やりきれないじゃない! 」
空いた手で小さく梶田の胸を叩いた。頬に涙が伝う。
「産まれてくる子も、先生の所に生まれてこれてよかったって、思ってくれなきゃ、やりきれないじゃない! 」
「大澤……」
「お願いだから……幸せになって」
ぐすっと鼻をすすりあげて、梶田を見上げた。気持ちは裏腹だ。精一杯の強がりだ。梶田の親指が私の涙を優しく拭った。
「幸せにならなかったら、許さないから!」
梶田の肩越しに、飛行機雲が横切っているのが見える。
その雲の先は、機体に乗せた人達の近い未来へと繋がっている。
今、自分にも繋がっている未来はあるのだろうか。
その未来に、目の前の恋しい人は居ない。辛いけれど、ここでお別れだ。
祈るような気持ちで梶田を見つめる。微かに潤んだ視線が揺れた。
「ああ、努力するよ」
言いながら自然に近づいた距離。
最初で最後の。
高鳴る胸の鼓動がうるさい。
梶田の腕に抱きしめられる。
途端に思い出したのは、夕暮れの海で泣いてしまった幼い私を抱きしめてくれた父の腕の中だった。
また違う意味の涙が溢れた。
私は恋しかったのだろう。ずっと。
梶田の腕から憐憫の優しさを感じとりつつ理解した。
よく頑張ったな。
大きな手で頭を撫でて貰った時から、きっとこれを望んでたのかもしれない、そう思い、遠慮がちに背に回した手で、梶田のシャツをぎゅっと掴んだ。
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