【20】見晴台
翌朝、私が起きた時には、依子はすでに潮田家にいなかった。
「おじいちゃん、施設に入ってるんだけど、盆は家に帰ってくるんだって。お昼までに迎えに行かなきゃいけないからって先に帰ったよ」
海斗はサンドイッチ用のパンに緩くしたバターを塗りながら、ふと手を止めた。
「なあ、汐里も手伝って?」
「わかった。何する?」
「トマトスライス出来る?」
「トマトなら任せて」
「サンドイッチならレタスいける?」
「うん、少しなら」
「きゅうりは?」
「ごめん、それだけはごめん」
青くなって両手を合わせて謝った。きゅうりは野菜の中で1番苦手なのだ。私のその様子に海斗はくくっと可笑しそうに笑った。
「まあ仕方ないよな、どうしても嫌いなものくらいあるよな」
「海斗は?」
「うん?俺?うーん」
海斗は6枚並べたうちの3枚にレタスを並べ、そのうちの2枚に薄く切ったきゅうりを並べた。几帳面なのだろう、均一に切られたきゅうりが綺麗に並んでる。
「食べ物はそんなにないかな、だいたいなんでも食べる」
「じゃあ食べ物以外は?」
「雷」
「え?そうなの?なんか意外。可愛いな」
汐里は、出来るだけ薄く切ったトマトをカットボードごと海斗に渡した。
「雷は火事を起こす。打たれた人は死ぬ、それを怖いと思って、何が可愛いんだよ」
「まあ、確かに言われるとそうだよね」
海斗が、キッチンペーパーで水気を軽く押さえつつトマトを載せるのを見ながら汐里は頷いた。
「美帆さんは?」
「ああ、毎年、迎え火の翌日はこうなんだ、昼くらいまでは寝てるかな」
「海斗、今日バイトは?」
「今日は夕方から。汐里は盆の間は休み取ってたよね早くから」
「……うん」
そうだ。毎年、迎え火を焚くのは祖父とやっていた。祖母は何故かいつもそこにおらず、二人とは別のところで一つだけ薪を焚いていた。それを知ったのは去年で、祖父に聞いて聞いてもはぐらかして何も答えてくれなかった。
「……迎え火をね、焚かないといけないの、父と母のも」
「うん」
「おじいちゃん達の後それをつぐのは私だから」
汐里は俯いた。ここの家は他所だから遠慮はあるけれど、息苦しくない。やはり家に帰らないといけないのか、と思うと気が重い。
「そっか、なら帰らなきゃな。バイト行く前に送ってやるよ」
「……うん」
先日、祖父に梶田との事を咎められた事を思い出して、気が重くなる。あれから何も解決していない。
朝食のサンドイッチはみずみずしくてとても美味しかった。お腹は冷やしたらいけないから、と飲み物はぬるめのカフェオレを出された。
「片付けしたら散歩でもしよう?」
「え?あんたと?」
「そのくらい付き合えよ」
海斗は苦く笑った。
裏口から出る時メットを渡された。
「散歩じゃないの?」
「歩いたら片道1時間だぞ?」
海斗はバイクを道へ出した。車体を跨ぐと、後ろのシートをポンポンと叩く海斗に眉を下げた。ヘルメットを被ると前回は世話された首のベルトをパチンととめ、習ったように後ろに乗り込む。
海斗の後ろに乗るのは2度目だ。坂道を登っていくのは背中が後ろに引かれるようでやはり少し怖い。坂を登ったり平坦になった少し広い道をしばらく行くと15分ほどで、目的地だったらしい見晴台に出る。東屋があり、ベンチが置いてあり、古くてもう動いていない自販機が、野ざらしになって置いてあった。
「わあ、結構眺めがいいね」
「だろ?」
岩が張り出したところに柵が巡らされていて、木々の晴れた向こうは田園風景が広がっていた。
「あの山越したら、開けた方角の遠くに海が見えるんだけどな」
「うん」
「ちょうどこういう見晴台があってさその山の麓に向かって棚田が広がってるんだ」
「へぇ」
「田植えの前に水が入った時とか、すげえ綺麗なんだぞ?空が水鏡に映ってさ」
海斗が語る横顔をまじまじと見た。こんな静かな山で暮らして来て、子供の頃は寂しくなかったのだろうか。中学のアルバムの海斗を思い出した。大人しそうで眼鏡をかけて、今とは想像もつかないほど目立たない子だった。鼻筋が通ったところや、痩せた頬の端っこに剃り残しの短い髭があったりとか、その辺の普通の男の子だ。色素を随分抜いた髪が風に揺れる。木漏れ日に透けたその色は、いつか見た海で煌めく渚のようだった。
「海斗は見たんだね、その景色」
「ああ、お前も来年見に行くか?」
「え?……うん」
まさか誘ってくるとは思わなかったが、思わず頷くと、海斗は、顔をほころばせてよしっと言った。
「ねえ、海斗」
「うん?」
「海斗、なんでそんなに私に親切にしてくれるの?」
本当は、何となくわかってる。だけどちゃんと聞いた方がいい。勘違いかもしれない。
「バイト仲間だろ?そんなもん、お前が友達じゃないって言っても、俺の中ではもう友達。あんな顔見てほっとけるかよ」
「……どんな顔してたの、私」
「なんか、暗闇に出ていったらそのまま帰ってきそうになくて、ほっといたらダメだって思ったの」
私はあの夜のことを思い出した。確かに、大袈裟ではなくそのくらいショックを受けていた。
「そっか」
「おう」
優しい風が拭いて、生ぬるい空気がほんの少し涼やかに感じる。海斗はそれほど背が高くない、自分とは10cmも違わないだろう。そのほんの少し高い横顔をそっと見上げた。
自由で、人懐っこくて、伸びやかな心を持っていて。みんなに好かれる人だなと思う。中学の頃と印象が違うのは良くあることだが、大人しくしてただけなんだろうか。
学校は違うけど、きっと周りに友達も沢山いて、あちこちのグループから遊びの誘いがあって、きっと海斗はそんなタイプ。
それに比べて私は、本当にひねくれてる、と恥ずかしくなる。
高校入ってからはそこそこ仲良くしてる子達はいるし、家に泊めてもらったり、そのくらいの付き合いはある。アサ達ほどは踏み込んだ付き合いは出来てないけど。でもどこか冷めた目で周りを見てる。どうせ、私の事など、都合悪くなったら手を離して離れていくんでしょ?って。
そうだ、私は人を信じきる力がないんだ。
(私ってホント可愛くないなぁ)
ため息をついた。
「なんだよため息なんかついて」
「自分の可愛げの無さに落ち込んでる」
「ぶっ」
海斗は吹き出した。
笑われても仕方ないので、むくれるだけに留め、両手を上げてうーんと背伸びした。
「もう少し可愛げがあったら、ちゃんと付き合ったり出来てたのかな」
日陰を通り過ぎる風のお陰で涼しい。今なら素直になれる気がした。
「私さ、学校の先生の事好きなんだ」
言葉にすると、少しだけモヤモヤしたものがくっきりして、それでもやはり傷は痛む。
「前にバイト先に顔だしてたヤツだろ?」
「知ってたの?」
「話してるの見かけた」
「つけて来たとかじゃあ……」
「人をストーカーみたいに言うな」
げんなりとした海斗にふふっと笑う。
「可愛げなくなんかないだろ」
「えー?」
柵に持たれて、遠くを眺めつつ聞き返した。
「海斗は、可愛げ満載だよね」
依子や美帆、バイト先の店長、大人たちから頼りにされ、それとなく1目置かれて可愛がられてる。
「そうかな」
「そうだよ、私とは大違い」
「そんなことねえよ」
「へーじゃあ、例えばどんなとこが?」
お世辞でも聞いてみたくなった。海斗が少し赤くなった。
「笑うと、八重歯がみえるとこっ」
「何それ」
吹き出した。海斗の顔が赤いのが照れくさくて、笑い飛ばして有耶無耶にしたかった。
「そうやって笑っとけよ」
照れくささに耳が真っ赤になってる。海斗の可愛げはそういうところだよ、と思いつつ笑った。
「まあ、でも」
小さく咳払いした。よくそんな照れくさいことを口にしてくれたと思う。落ち込んでた私を元気づけようとしてくれたことを感じとった。
「うん?」
「……その、ありがとう」
素直に言えた。少しほっとしたように笑った海斗のスマホがピリリ!と鳴った。なにかのタイマーだ。
「そろそろだ」
スマホの時計を見た海斗が言った。
「うん?もう帰るの?」
聞いた私に、海斗はあやふやに笑った。
その時、車の走行音がして、見慣れた車が駐車場へ滑り込んできた。
ドクッと心臓が鳴った。隣にいた海斗を振り返る。海斗もこちらを見下ろし、緊張の面持ちでそのワインレッドのRV車の運転席を見つめた。
「どうして?」
状況が把握出来なくて、海斗に尋ねる。車のドアが開いて
「昨日、バイト先にあの人が来たんだ。お前からメールの返信もないし電話に出てくれないって」
汐里は車から降りた陸を、眉根を寄せて見つめ、一歩後ずさる。思わずそばにいた海斗のシャツの裾をぎゅっと握った。
「こないだのは、あの人が原因なんだろ?」
「ここに先生を呼んだのは、海斗なの?」
海斗を見上げると、ため息をついて頷いた。
「俺が彼に頼んだんだよ、話がしたいから君に会わせて欲しいって」
久々に梶田の声を聞いた気がする。たった2日前、陸の自宅で顔を見たが、陸の驚愕の表情以外、何も覚えていない。
「どうする?無理なら帰ってもらうか?」
海斗がシャツの裾を握った私の手を見て言った。少しだけ迷って、私は首を横に振った。
「いずれ話さないといけないなら、今でいいよ」
言うと、私は海斗のシャツの裾を離した。海斗は隣に並びなおし、私の肩をそっと、陸の方へと押した。
「俺、家で待ってるから、帰りは送って貰え」
メットを被ると、海斗はバイクに跨る。1度目が合うと、にっと笑って見せた。その笑顔はぎごちない。
バイク走行音が坂を下って行くのを見送り、覚悟を決めて陸を見た。少し痩せただろうか。久々にみる梶田はなんだか少しくたびれた様子だった。
「大澤、急に来て悪かった」
何も言えずに、ただ陸を見つめた。
「話を、聞いてくれるか?」
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