【4】数学教師

 5月に入ったある日、委員会の仕事で帰りが遅くなった私は、空腹に耐えかねて学校の最寄り駅の前にあるコンビニに立ち寄った。


 祖父母と気まずくなってから、食事の時間までに家に帰らないことが増えた。友達の家に避難することも時々あって、祖母はともかく祖父とは口をきかないまま日々が過ぎている。委員会を引き受けたのも体育祭までの準備等が大変で、遅くなることがあると聞いたので、わざと立候補したのだ。


「おう、大澤じゃないの」


 おにぎりの棚の前で、鮭のおにぎりを1つ掴んだ時、後ろから声をかけられた。


 声の主は振り返らずともわかった。数学教師の梶田だ。学園の教師の中で汐里が気さくに話せる教師の1人だった。


 口元が緩みそうになるのを堪えつつ、後ろを見ると、向こうがにっと笑ったのでつられて笑ってしまった。黒い縁のメガネの奥で賢そうな目がくっと細まる。


 去年、学校の裏庭でふいに口をきいて以来、受け持ちの学年は違うのに時々こうやって私に声をかけてくれる。


 噂では数年前の卒業生と付き合っていただの、手が早いだの噂はあるが、まあまあイケメンの部類に入る若い先生にありがちなただの噂だろう。


 梶田は理数系の先生特有の神経質さがなく、ゆうに185cmはあるだろう高身長と、フォルムの細い黒縁のメガネ、サラサラの髪はいつもこまめに切ってるのだろう、そんなところに育ちの良さが出ていた。気さくな性格と優しげなルックスで、女子たちには人気があった。


「委員会?」


「はい、種目ごとに発注する品目がようやく纏まったので、報告の入力が沢山あって」


「大澤は家が遠いんだから、わざわざそんな仕事受けなくてもいいのに」


 言われて、軽く笑って流した。


 梶田は高菜のおにぎりとペットボトルのお茶をサッと私の手から奪うと、自分のパンやヨーグルトなどと一緒にレジへ行ってしまった。


「え?!」


 あれよこれよという間に支払いが済んで、小さなビニール袋を渡された。


「頑張ったご褒美だ」


「ええ〜、いいのかなぁ」


「他には黙っときゃいいの。ほら、さっさと帰りなさい」

 ポンと頭に手を置かれて見上げると、スクエアのメガネの奥の切れ長の目がこちらを見下ろしていた。ドキ、と心臓が跳ねる。梶田は背が高い。学生の頃はバレーをやっていたそうだ。

 コンビニを出たところで電車の音がした。


「あ、乗り損ねた!」


 そこから駅は10m先、乗ろうと思っていた電車がホームに滑り込んだ所だった。


 次の電車は少し先になる。ため息をついた。肩を叩かれて振り向くと、梶田が親指を自分の車へ向けていた。車種なんかはよく分からないのだが、スノボなんかをやってる人がよく乗ってるやつだ、と思った。その赤い車体の天板に手を置いて、梶田は言った。


「送ってやるよ、乗れ」


「え?いいんですか?」


 気持ちが一気に上向いた。


「話し込んで電車乗り損ねちゃったからな、俺もそっちだし、ちょっとくらい遠回りしてやるよ、ドライブがてら」


「じゃあ、お言葉に甘えます」


 いつもならもう少し警戒する。祖母には口を酸っぱくして男の人の車に軽々しく乗せてもらうのはダメ、と言われて来ている。だけどどうしてだろう。遅れてやってきた反抗心が背中を押したのか。


 助手席に乗り込むと、出勤してきたばかりの先生からする、車用の香水の匂いが鼻腔をくすぐった。


(先生の匂いする)


 私はその匂いが好きだった。青リンゴだろうか。男性にしては可愛らしい香りだと思っていた。


「大澤は、アレだな、年齢の割にあんまりテンション高くないよな」


 車を走らせながら言われた。いつもとは違う狭い空間の中で、響く声がいつもよりもダイレクトに鼓膜を揺らす。


「そうですか?」


「大人びてると言うか、他の子達といるとしんどかったりしない?」


「まあ、少し。でも、元々こうなんで上手く周りに合わせてはいますよ」


 お茶飲んでもいいですか?と聞くと、いいよ、と片手を伸ばしてドリンクホルダーを出し、その手の甲が私の膝に当たった。


「あ、悪ぃ」


 プライベートな空間だからか、学校とは違って言葉が崩れる。

 小さなことにウキウキする。憧れの範囲は出なかったとしても、私は梶田を教師としても異性としても好ましく思っていた。それは他の子たちと同じような憧れの感情だ。


 ただ、なんとなく梶田に自分と似た空気を感じていたのは気のせいではないと思う。


「疲れたんじゃないの?」


 何を話していいか分からなくて無口になってしまう私に、梶田は無難な質問を投げかける。


「それは先生だって同じでしょ?大変?先生の仕事って」


「うーん、まあな、大変じゃない仕事なんて無いからな。最終的には自分で選んで教師になったわけだし」


 カーブを曲がるのにハンドルをきる横顔を見つめる。普段話す時とは違う横顔。他の生徒はまだ見た事のない顔なのか、それともこういうことが梶田にはよくあることなのか。


「……なんだ?」


 視線に気がついて、信号待ちでこちらを見た。


「先生、よくこういうことあるの?」


「うん?こういうこと?」


「生徒を家へ送り届けたり?」


「あー、一応ダメだからな、特別扱い。過去にやむなく何回かはあるけど」


 なんだ、と思った。私は助手席に乗せてもらった初めての生徒では無いんだ。それはそうだろう。自分が入学してくるよりもずっと前から梶田はあの高校に勤めているのだから。


 肩下までの髪をひと房指に巻いて触る。私の考え事するときのくせだ。


「17か、若いよな」


「まだ16です」


「ああ、誕生日まだか」


 汐里はため息をついた。誕生日は9月だ。らしくないと言われそうだが、それを越すと、彼氏いない歴がまたひとつ数字を増やす。


「大澤は彼氏いないのか?」


「いませんよ、すみませんね」


 心を読まれたようで面白くなくて憮然として答えると、


「意外だな、モテそうなのに」


 梶田が少し笑い混じりに言った。そうだ、確かにモテないことは無いのだ。中学の時も高校に入ってからも、何度か告られてる。だが初めて付き合うのは、自分が好きだと思う人がいい。妥協で適当な人と付き合うのは嫌だ。


 そんな事をうっかり話してしまい、まだ付き合った事すらないことがバレてしまった。気にするな、と笑われて気にしない訳が無い。


「良かった、思ったより元気そうだ」


 むくれてそっぽ向いた私に梶田が言った。


「え?」


 小さな怒りを忘れて振り向くと、前を見ながら梶田がふっと真面目な顔をした。


「最近見かける度に思い詰めた顔してたから、ちょっと気になってた」


 信号待ちで止まった拍子に、軽くかくんと身体が揺れた。こちらを見た梶田と目があって顔がかすかに火照る。


「心配、してくれてたんですか?」


「まあな」


 もうすぐ自分の降りる最寄り駅だ。

 梶田は家まで送ると言ってくれたのでお言葉に甘えた。


 地元の公園の近くを通りかかると気分が沈み始めた。帰りたくなくて無口になった私を見て梶田が口を開いた。


「もう少し話すか?」


「え?」


「なんか悩みあるだろ?」


 梶田は近くの公園の駐車場へ車を停めた。


「え?いいの?」


 思わず敬語を忘れた。慌てて口を覆うと、梶田は可笑しそうにくくっと笑って真顔になった。


「俺で良かったら聞くけど?」


 不意打ちのその声が柔らかくて、思わず目頭が熱くなった。ダメだと思うほど込み上げてくるものを我慢しつつ、落ち着いた後、私は祖父母達から聞いた話をすっかり話してしまった。


 祖父を知っているアサ達や、クラスメイトの友達なんかにはとても話せない話だ。言えなくてずっとひとりかかえたままだった。それを吐き出せた事で少しだけ気持ちが軽くなった。


 梶田は自分のハンカチを握らせてくれて、相槌を打ちながら黙って聞いてくれた。


「で?結局、それからおばあさんとは話せてないんだ?」

「はい、顔合わせると申し訳ない気持ちで顔が見れなくなるんです。何か言いたくても話せなくなるの」


「そっか」


「おじいちゃんのことも、なんかヤダ。気持ち悪いって思ってしまって、そんな風に思ったことが申し訳なく思えたり、でもやっぱり嫌で」


 ふわっと温かい何かが私の頭に触れた。顔をあげると、梶田が頭を撫でてくれてるのだと気がついて、顔が熱くなった。


「落ち着いてて大人っぽいとは思ってたけど、やっぱまだ高校生だな、大澤は」


 可笑しそうに笑った梶田の言葉に、くちびるを突き出してむくれた。梶田は真顔になった。


「そんなの悩んで当然だ」


 頭を撫でていた手が離れた。


 照れくさくて、怒ったフリして顔を背けた。きっとどんな生徒にもそのくらいのスキンシップはするのだろう、それが許される程度には清潔感もあってかっこよくて。


「まあ、家庭の事情なんか色々あるわな。うちももう大人なのに親があれこれ……」


 言いかけて、梶田は口を噤んだ。


「なんですか?」

「ああ、いや、俺のことはいいんだ。ただの愚痴だし」


 眉を下げて笑った。


「先生の悩みとかも、聞いてあげられたらな」


 私が言った言葉を反芻するように瞬きして、梶田はへにゃッと笑った。


「生徒に悩み聞いて貰ってるのバレたらちょっと問題かもなー」


 生徒。少し近くなった距離がまた離れた。予防線張られたようで、寂しかった。今夜の私はちょっと変だ。こんな年上の人に、いや、年上だからかもしれない。甘えて寄りかかりたい気持ちになってしまう。


「でも、まあ」


 梶田はメガネの奥の目を細めて、微笑んだ。


「聞いて欲しい時は言うわ。だから大澤も遠慮しないで言えよ?聞くくらいいつでも聞いてやるから」


 胸が、顔が熱い。ほんとに私なんだか変だ。梶田がなにか握った手を差してきたので、手のひらを上に向けると、そこにいちご柄の包が1つコロンと載った。その飴の意味を私は知っている。梶田と目を合わせて笑いあった。

 生徒と生徒、その範囲ギリギリでいちばん近い場所にいる免罪符を手に入れたような感覚だった。


「やっと笑った」


 梶田も嬉しそうに笑った。


「よし、帰るか?」

「はい」


 梶田はスターターを押した。おしりから僅かな振動が伝わる。


 この、2人だけの時間が終わることが残念だ、そう思う事は不思議では無い。梶田ともう少し話していたかった。


 その日、少しだけ梶田との距離が近づいた。


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