【17】潮田家の朝食

 風呂の後、祖母に電話を入れた時のこと。夜22時過ぎ。祖母はもう寝かけていたようだ。

「バイト先の友達の家に泊めてもらうから、心配しないで」

 私が言うと、いつもなら友達か家の人に代わるように言うが、それも言われなかった。


「ご迷惑にならないようにしなさいね。お家の人によろしく伝えてね」


「うん」


 干渉しすぎないよう、祖母なりに考えてくれたのだろうか。少しは信用してくれたのかな?


「おばあちゃん」


「うん?」


「その、連絡遅くなってごめんね」


 と言うと、祖母は少し間を置いて、


「おやすみ汐里」


 と言った。その声は緊張が解けたいつもの声だった。その声にすこしだけほっとした。


 その後、夕方の梶田の事を考え始めたら、眠れなくなった。頭から追い出そうとしても、まな裏に映るのは、海でずぶ濡れになって、わたしを見つめ返してきた梶田の目だった。愛おしさが溢れ出し、涙が込み上げてくる。その梶田に白いワンピースに青のカーディガンの女性が重なり、大事にしている綺麗な思い出が打ち消される。なんども寝返りを打ち、いつ眠ったのかよく覚えていない。


 ***


 微かに物音がして目が覚めた。一瞬そこがどこか分からなかった。和室の板目の天井をぼう、と見つめた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。そこが海斗の家だと思い出して、汐里は飛び起きた。枕元には昨日着ていたワンピースとレギンスが畳んで置いてあり、間には下着も軽く畳んで置いてある。浴室乾燥機にかけるから、と依子が言っていたのを思い出し、速やかにその服に着替えた。


 間仕切りの引き戸を開けると、ベーコンの焼けるいい匂いがした。昨日は結局夜を食べ損ねていたので、もしその食事が自分のものじゃなかったらどうしよう、と思うほど食欲をそそられた。

 キッチンを覗き込むと、朝食を作っていたのは海斗で、依子の姿が見えない。

「おはよう」


 声をかけると、海斗が振り返った。

「おう、おはよう、よく寝れた?」

「うん、何?朝ごはん海斗が作ってるの?」

「朝メシは俺の役目。顔洗ってこいよ、ヨダレの痕付いてんぞ?」

「え!?」

 汐里は口元を手で覆った。そのときの海斗の嬉しそうな顔に、からかわれたと気がついた。


「ちょっと……」

 軽く睨むと、

「はははっごめん!洗面所にタオル出してあるから勝手に使って?使い終わったら洗濯機に入れといて、歯ブラシも客用のやつ置いてあるから」


 まだ口をとがらせながら洗面時に向かおうとしたところで振り返った。海斗は4枚並べた皿の上に2枚ずつベーコンを並べていく。ベーコンの脂が残るフライパンに今度は卵を順番に割っていく。じゅうじゅうと音を立てる卵。もうもうと上がる湯気の中で8個も一気に目玉焼きが焼かれているのを初めて見た気がする。めちゃくちゃ美味しそうだと思ったら、またお腹が鳴った。私が顔を洗い終わって洗面所から戻ると、海斗はサラダを盛り付けていた。


「汐里、サラダのドレッシングって何系?」


「うん?ああ……その……」


 私は言いにくくて口ごもった。実は生野菜が大の苦手である。トマトしか食べられないことを言うかどうか悩んだ。


「あ、野菜嫌い?」


「うん、ごめん」


「食べられるものはある?」


「あ、トマトだけなら……」


「それなら任せろ、トマトは夏中飽和状態だ」


 みそ汁を温めているIHのコンロにタイマーをかけて、海斗はこちらを振り返った。


「母さんも帰って来てるから、テーブルに4人分料理運んでおいてくれる?」


「分かった」


 海斗はダイニング奥にあるもうひとつの裏口のドアを開けて、庭に出て行った。髪を簡単にまとめて手を洗い、海斗の作った目玉焼きの皿を運んでいると、依子が2階から降りてきた。


「おはよう、もう洗面所空いた?」


「おはようございます、はい、お先でした」


「海斗は?」


「あ、庭に……」


 ダイニングのそばの裏口の方からなにか話し声が聞こえた。


「おっと、美帆ちゃん帰ってきてる。ご飯前に顔洗わなくちゃね」


 依子がリビングを出ていった。ダイニングそばの裏口の方を見ると、話し声が徐々に近づいてきて、ドアが開いた。海斗が片手に3つほど真っ赤なトマトをもって戻ってきた。その後ろから、ほっそりした女の人が顔を出した。


「あ、ほんとだ、女の子いる〜」


 笑顔になる訳でもなく、淡々とした様子でその人は汐里を頭からつま先までササッと見た。


「汐里、うちの母さん」


「どうも、母の美帆です」

 笑顔で挨拶した。まとめ髪のほっそりした女の人。顔は似てないが、美帆は笑い方が海斗に似てる、と思った。美帆は黒に白いロゴの入ったトートバッグを裏口のそばの床に置きながら靴を脱いだ。


「はじめまして、大澤汐里です。お邪魔してます」


「大まかには依子さんから聞いたよ。まあ、よろしくね」


 美帆はスリッパに足を通しながら黒いアームカバーを外す。テキパキと動く様が、仕事中の海斗とよく似ている。その白い細い腕があんまりにも若々しくて、海斗のお母さんだということが信じられなくなる。


「どうも」


「さて、挨拶も済んだし、汐里、トマト洗ってくれる?」


 海斗が3つのトマトをこちらへ寄越した。


「うわぁ、大きい!完熟だ」


 トマト好きな汐里は、思わず感嘆の声を漏らした。ひとつは超特大の大きさで、あと2つはスモモ程の小ぶりなトマトだった。汐里の両手にはみ出てしまうものを海斗は片手で持っていたのが驚きだ。


「庭で作ってるからね、これがなかなか美味いんだよ、一応ハウスものだから」


 海斗は言いながら首に巻いたタオルで額の汗を拭った。


「依ちゃんただいま」


「おかえり美帆ちゃん」


 依子が洗面所から戻ってきた。


「園芸でも料理でも、凝りだしたらとことんやるからね、この子は」


 依子はトマトを洗っている私に言いながら、海斗がよそったお味噌を盆に載せて運ぶ。美帆はリビングの外の廊下にある手洗い場でサッと手を洗ってうがいをした。


「あー、お腹ぺこぺこ、コール鳴りっぱなしで夜食食べ損ねたし。さすがに疲れた」


 海斗が切ったばかりのトマトをテーブルに載せると、依子がよそったご飯も4つ並べられて、美味しそうな湯気が食卓の上にたゆたう。


 依子と美帆は隣り合わせ、美帆の前に海斗、その隣に汐里は座った。


「母さん日勤の仕事探せよ、夜勤、身体に良くないよ」


「だって、あなたを大学出すまでは頑張るって決めてるんだもん」


「あのさ……何回も言うけど俺の頭で大学行けると思ってんの?」


「ハイハイ、その話はまたいずれ。ご飯が冷める、手を合わせて」


 依子の仲裁で、親子の言い合いは幕を閉じる。皆は手を合わせて、それぞれがいただきます、と食事を始めた。私は、ソワソワしながら出されたトマトに箸を伸ばす。


 さっきまで畑で木に成っていた物だ。皮の上に小さな水玉がある。朝日にキラッと光ったその1切れを口に含むと、常温のトマトはめちゃくちゃ風味が強くて美味しかった。思わず目を見張る。


「美味しい……っ」


「師匠がいいんだろうね」


 依子が、お味噌汁の椀を置きながら言った。


「師匠?」


「近くの農家に時々手伝いに行っててさ、そこのおじさんが野菜の育てかたのコツとか色々教えてくれるんだ」


 海斗は、半熟に焼いた目玉焼きの黄身に切れ込みを入れて醤油を垂らす。


「へぇ」


「庭のビニールハウスも建ててくれたんだよ」


「凄く本格的だね」


「そこまでしなくてもいいって言ったんだけど、土地遊ばせとくのも勿体ないし、この人意外とマメにやるからさ」


 美帆が海斗に目をやり、軽く肩をすくめる。私はトマトをあと2切れ皿にとり、食欲に駆られてベーコンも目玉焼きも全て残さずに食べた。



「汐里ちゃんかぁ。可愛い子だね、海斗」


 美帆が食後のコーヒーを飲みながら、私の方を改めて見てニコっと笑った。その笑いには揶揄う色が含まれている。


「そんいう関係じゃないからね?」


「わかってるよ」


 海斗は居心地悪そうにご馳走様、と立ち上がると、美帆の分の食器も一緒にまとめた。


「ああ、やるのに」


「疲れてるだろ?いいよ」


 自分の分も食器を流しに運んだ海斗を微笑んで見送り、美帆は、まとめ髪を止めていたクリップを外して髪を下ろした。ファサっとうねった髪が肩にかかる。先程も思ったが、美帆は高校生の親にしては、随分若いと思った。


「美帆さんは、あの……お幾つなんですか?」


「あ、海斗の親にしては若いって思ったのかな?」


「……はい」


「もう話したよ、育ての母だって事は」


 依子は、自分の食器を重ねて立ち上がる。


「驚いたよね?うん、私今32。保護者で母親って事になってるけど、戸籍上は海斗の姉なの」


「え?」


「ちょっと生まれた家に事情があってね、遠縁だった芹香さんの養子に入れてもらったんだ」


 美帆は昨夜の依子のようにリビングボードの写真に目をやる。少しの沈黙が訪れた。美帆の眼差しからは、ただ故人を懐かしむだけではなく哀愁のようなものを感じ取った。


「海斗に、よく似たお母さんなんですね」


「そうね、最近若い頃の芹香によく似てきたよ、海斗は」


 依子がキッチンから口を挟んで、海斗から黒いエプロンを受け取った。洗い物を始めようとしていることに気がついていそいそと食器をまとめて立ち上がる。


「ごめんなさい、お皿」


 食器を重ねて流しへと運ぶと、依子は「運んでくれてありがとう」と受け取りながら、ダイニングの美帆を見た。


「美帆ちゃん、湯船張ってあるから、お風呂入って休みなさいよ」


 依子の言葉にダイニングの方を見ると、美帆はほんの少しの間にウトウトしてたようだ。


「うん、そうしようかな。あ、汐里ちゃんさ、良かったらここに何日居てくれてもいいよ。その代わりお家の人にはちゃんと連絡はしておくこと」


 汐里は首を横に振った。


「いや、そういう訳には……」


 美帆はリビングのドアを開けてこちらを向いた。


「もし、ちゃんと家に帰るならいいけど、行くところがなくてネカフェとかフラフラするのは良くないよ。うちにならいくら居てくれても構わないから。遠慮しないでね」


 そう言ってキュッと笑って見せた。なんだか見透かされたようで俯くと、依子が洗いカゴに入れた皿が、差し込んできた朝日に白く光っていた。美帆は返事を聞かずに風呂場へと行ってしまった。


「汐里ちゃん、そこに布巾あるから、お皿拭いてくれる?」


「ああ、はい」


 汐里は棚の中段にあるカゴの中から畳まれたリネンの布巾を手に取って拭き始めた。


 いつの間にか2階へ上がっていた海斗が階段を降りてきた。いつもバイト先で見る出で立ちだった。


「汐里、おれ昼の仕込みあるからもうバイト行くけど、もし家に帰りたいなら夕方までは依子さんが居るから送ってもらいな。もし今夜もここに居るなら、今夜はバーベキューだよ」


「え?」


「バイト先の取り引きのある業者と仲良くなってさ、肉を安く売ってくれるって言ったから。うちの毎年の恒例なんだ、12日は。母さんも依子さんも今日は休みだし」


「だから、もし居てくれるなら買い物とか付き合ってくれると嬉しいんだけどな」


 隣にいた依子が片目をつむった。


「どうする?今決めてくれたら肉も量が分かるからありがたい」


 海斗がニカッと笑った。依子さんと海斗を交互に見ると、期待の眼差しでこちらを見ている。甘えても良いのだろうか。


「汐里ちゃん」


まるで心を読まれたのかと思うタイミングで、依子さんは私の肩に手を置いた。


「人数多い方が絶対楽しいしいんだから、もう1日いなさいよ」


 依子さんがもう一押しとばかりに勧めてくれた。


「……じゃあ、はい」


「おーし!」

「いえい!決まり!」


 破顔した海斗と依子が、片手でハイタッチした。

 その二人の仲の良い様子に、汐里の口元にも笑みが浮かんだ。


 不思議な人達だな。どうして知り合ったばかりの私に、こんなに親切にしてくれるんだろ。


 皿を拭きあげながら、少しだけ目頭が熱くなった。気遣ってくれる人が居ることが有難くて、同時にこんな捻くれ者のわがままを受け入れて貰ってることが申し訳なくて。

 今夜のことは祖母には後で電話しよう。その用事を思うとまた気持ちが重くなるが、心配はかけたくない。


「娘がいたらこんな感じかな?」


 残りの皿を洗いながら、ポツリと依子が言った。

 隣を見上げると目が合った。目を細めて笑った。依子は美人だ。涼やかな目元が特に美しい。


「私、親が亡くなったのが随分昔で、親がいたらこんな風だったのかな?」


「まあ、可愛いこと言うわね。もうほんとにうちの娘にしちゃおうかしら」


 それ以上なにか聞き返そうとはせずに、依子は軽口を言って笑った。最後の皿を流し終えて、蛇口を止めると大きな白い手をタオルで手を拭いた。


「あとお願いね、そこの棚に同じものあるからそこに直して。布巾はそこに干しといて。私は洗濯物干してくるから」


 依子はリビングから出ようとして振り返った。


「終わったら待ってて、テレビ観ててくれてもいいし」


 そう言うと、リビングに汐里1人残して出ていくと、しばらくして2階へ上がっていく足音がした。


 汐里は食器を片付けると、荷物から休みに出された課題の問題集を出した。

 ダイニングテーブルを拭こうとして、台拭きの在り処がわからずキョロキョロする。風呂から出てきた美帆に台拭きの在処を聞いてテーブルを拭きあげると、美帆は水を飲んで部屋へ戻って行った。


 部屋着のフレンチスリーブから出た白い二の腕が、母親と言うよりもそこら辺の独身女性のようで、ドキッとする。

 海斗は美帆を母さんと呼ぶが、歳若い彼女はそう呼ばれることに抵抗は無かったんだろうか。


 汐里は、リビングボードの上の、小さな海斗を囲んだ女三人の写真を見つめた。


『母親が三人いるんだ』


 海斗の屈託ない明るさや優しさは、愛されて育てられた証拠なのかもな、と思う。


同じように身内に不幸がありながらも、祖父母に大事に育ててもらった癖に、卑屈になって祖父に歩み寄ろうと出来ない自分が幼く思えて、嫌気がさした。






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