8 最後の晩餐に選んだカレー

「約束だから、ちゃんと話すわ。――三月まで文芸部で活動していた二年生の湯浅鮎子ゆあさあゆこは、長くて艶々つやつやの黒髪が美しくて、クールな雰囲気の綺麗きれいな子よ。ちょうど、今の夢叶ゆめかちゃんに似ているわね」

 静乃先輩は、窓の外を一瞥いちべつした。森浦もりうら先輩とかたらう夢叶の長い髪が、潮風しおかぜにさらさらとなびいている。「だから森浦先輩も、夢叶ちゃんがヒロインで嬉しかったんじゃない?」と少しだけとがった声音こわねで言ってから、いだ海のような声音に戻った。

「夢叶ちゃんは小柄こがらで可愛い雰囲気の子だけど、鮎子あゆこは背が高くて中性的ちゅうせいてきな顔立ちで、なんとなく近寄り難い雰囲気をまとってた。でも、話してみたらびっくりするくらいに口下手くちべたで、そんなギャップが可愛い子だった」

 静乃先輩は、遠い目をした。

「でも、ひとたび机に向かえば、彼女は誰よりも雄弁ゆうべんで自由だった」

 僕たちのグラスのどちらかで、溶けた氷がカロンと音を立てた。グラスを伝った結露けつろがテーブルに垂れて、底に沿って円をえがく。

羽柴はしばくんも鮎子のファンなら、分かるでしょう? 鬼才きさいって、こういう物語を書く人のことを言うんだ、ってに落ちたわ。私はきっと、どうしようもなく、湯浅鮎子という作家を愛していたの」

 静乃先輩の告白を、僕は黙って聴いていた。ほんの少しの羨ましさと、湯浅先輩に会ってみたいという気持ちは、今は胸にとどめておいた。静乃先輩に想いを寄せてもらえた幸せ者が、なぜ文芸部を去ったのか。静乃先輩の打ち明け話に、耳を傾けていたかった。

「鮎子が筆を折った原因は、お察しの通り批評会よ。森浦が、文芸部の批評会で鮎子の作品をバッシングしたの」

「でも、見当違いなバッシングなら、気にすることないんじゃ……」

「気にすることない、なんて。そんなこと、君にできる?」

 僕は、返答にきゅうした。僕だって、かつて批評会で作品のあらを指摘された一人だ。自分の作品を大勢の部員から「面白くない」と言われた痛みは、まだ鮮明に覚えている。静乃先輩に恋をしてから心臓に毛が生えたけれど、傷痕きずあとを隠せるわけではない。

「それに、ただのバッシングで済んだなら、鮎子は立ち向かえたはずよ。でも、森浦は鮎子の筆を確実に折る気だった。文芸部の部員じゃなくても批評会に参加できることを利用して、部外の生徒を批評会に呼んで、ろくに鮎子の作品を読んでいない奴らに好き勝手な悪口を言わせたんだから」

「それは……ひどい」

「このことが問題になって、部外者は参加できない規則きそくに変わったの。森浦たちは『忌憚きたんのない意見を言っただけ』とか『作品をもっと良くしたいという熱意を伝えたかった』なんて主張し続けて悪びれないけど、あいつらには間違いなく悪意があった」

「だから、復讐を?」

「そうよ」

 静乃先輩の強い眼差しが、僕を射抜いた。

「一人の小説家に言葉の毒を盛って、筆を折る呪いをかけた人でなしを、地獄に叩き落とさないと気が済まなかったから」

「……たとえ、そうだとしても」

 こんなことを言えば嫌われると分かっていても、僕は言わずにはいられなかった。

「筆を折ると決めたのは、湯浅先輩です」

 案の定、静乃先輩は僕をにらんだ。それでも僕は、懸命に続けた。

「静乃先輩にできるのは、湯浅先輩の気持ちに寄り添うことと、それから……また物語をつむいでほしいなら、その気持ちを言葉で伝えたり、また書いてくれるように応援したり、次回作が生まれることを願うことではないでしょうか」

「鮎子は、全部が嫌になってやめたのに? 私の無神経な励ましを、鮎子が重荷おもにに思ったらどうするの?」

「重荷に思いますか? 本当に?」

 僕の切り返しに、静乃先輩は息をめた。

「そのときは、そのときです。静乃先輩の言葉を聞いて、どうするか。それは湯浅先輩が考えるべきことで、静乃先輩には手出しができない領域ですから。逆に言えば、静乃先輩の励ましに対して湯浅先輩が『余計なことを言うな』って怒ったとしても、他人にどんな言葉をかけるか、どんなふうに働きかけるか、決定権は静乃先輩にあります。湯浅先輩にとやかく言われる筋合すじあいはありません」

「いつの間に、そんなに理屈りくつっぽい話し方をするようになったの?」

「僕の好きな人が、理屈っぽい人だったので」

 静乃先輩は、ちょっとうんざりした顔をした。そのリアクションは、大いに傷つく。けれどまだ言い足りないので、「それに」と僕は言葉を継いだ。

「静乃先輩は、明智あけちさんですから。名探偵が犯人になっちゃだめですよ」

 静乃先輩は、不意を打たれた様子で目をしばいてから、シニカルに微笑んだ。

 そのとき、やっとカレーが運ばれてきた。マスターは無表情だが、カウンター席の常連客はなんだかハラハラした顔でこちらを見つめている。もしや僕たちは、破局はきょく寸前のカップルだと誤解されているのだろうか。僕たちが恋人同士に見えていた可能性に胸を高鳴たかならせていると、静乃先輩は神妙な表情でぽつりとこぼした。

「変よね。ほっとした。自分でメニューから選んだくせに、最後の晩餐ばんさんみたいな気持ちでカレーを頼んだから。もし誰にも罪をあばかれなくても、きっともうカレーは食べられないな、この先の人生からカレーが消えるのかぁって想像したら、つらかった」

「そんな大げさな……いや、僕もこの喫茶店の名前を見たときに、似たようなことを考えました。この現実が、本当に白昼夢はくちゅうむならよかったのに、って。誰かが作品を酷評こくひょうされたことも、誰かが作品をぬすんだことも、傷ついた人たちがいることも」

綺麗事きれいごとね」

「いいじゃないですか、綺麗事でも」

 僕がスプーンを握っても、静乃先輩の手はテーブルにのったままだ。白い皿に盛られた艶々つやつやの白米とルーの茶色のコントラストを、淡い湯気越ゆげごしに見つめている。

「批評会では、真っ当な意見を言ってくれる部員も多いことは知っているの。鮎子の事件が起きるまでは、私も参加していたもの。他人の作品に対して厳しい意見を述べるとき、相手も勇気を出して言ったんだろうなって感じたことも、一度や二度じゃないわ。その一方で、作者へのねたみや個人の好みの問題から、見当違いもはなはだしいことを平気で言う、森浦先輩のような人もいる。けれど、それを『見当違いも甚だしい』と切り捨てる私の物差しは、本当に物事を正確に測れているのか、私は正義の意味をき違えているんじゃないかって、時々ふっと不安になるの。己の良識と心の強さを、つねためされているような気がするから」

 静乃先輩は、顔を上げた。僕に向けて、初めて柔らかく微笑んでくれる。

「私だって、傷つくのが怖いだけの、一人の人間なの」

「知っていますよ。いつも静乃先輩のことを見ていますから」

「君が言うと、とても重いわ」

 静乃先輩は、やっぱりうんざりした顔をした。けれど、その表情はほんのりと明るくて、「羽柴はしばくんの推理、一つだけ間違ってるわよ」と続けたのだった。

「私に勇気がないのは、当たりよ。森浦先輩の罪を夢叶ちゃんにあばかせるラストシーンを、間近で見る勇気なんてなかった。でも、私の短編で映画を撮ることが嬉しい気持ちは本当だし、原作者は私だということを明かせない身勝手なもどかしさとくやしさだって、本当なの。そんな私の複雑な心までは、私にわって名探偵を務めた君にも、あばけなかったようね」

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