2 恋に落ちた日

 僕が明智静乃あけちしずの先輩に恋をしたのは、三か月前。文芸部に入った僕は、大学生になって一か月が過ぎた頃に、部室棟ぶしつとうの一室から最悪の気分で退室たいしつした。新鮮しんせんな空気を求めて外へ逃げたとき、日当たりのいいキャンパスの中庭に、見知った顔を見つけたのだ。

 桜の青葉が作る木漏こもの下で、その人は青いベンチに座って本を読んでいた。緑のつらなりを掻いくぐった日差しの欠片かけらが、白いカーディガンと水色のワンピースの上を、自由気ままな魚のように泳いでいる。明智静乃あけちしずの先輩は、部内の顔合わせで異彩いさいはなっていた二年生だ。知的な美貌びぼうに、他者を寄せつけない硬質こうしつな雰囲気だけでなく、『明智あけち』という名字も江戸川乱歩えどがわらんぽのミステリ小説『D坂の殺人事件』や『少年探偵団』シリーズに出てくるもじゃもじゃ頭の私立探偵・明智小五郎あけちこごろう想起そうきさせて、新入部員に強い印象を残したのだ。自己紹介の言葉は簡潔かんけつで、「私は小説を書きません。皆さんが部誌に掲載する作品を読む専門の部員です。よろしくお願いします」と義務ぎむのような口調で言っていた。

 僕の視線に気づいた明智あけち先輩は、どうでもよさそうに会釈えしゃくをした。すぐに本の世界に戻ろうとした明智先輩のもとへ、僕はよろよろと近寄った。

「明智先輩は、文芸部の批評会ひひょうかいには参加しないんですね」

「そうよ。参加は個人の自由だもの。人がたくさんいる場所は好きじゃないし」

 しれっとした明智先輩の言葉に、僕は少しだけ腹を立てた。刺々とげとげしい感情は空気をつたうのか、明智先輩は僕をひたと見上げた。言いたいことがあるなら言えとうったえる眼差しは、琥珀こはく色よりもさらに透き通った薄茶うすちゃ色で、今までに感じたことがない引力にたじろぎながら、僕はあとに引けない思いを口にした。

「作品を良くするために、部の批評会に参加したのに……そんな冷たい言い方をしなくてもいいじゃないですか。先輩は、批評会に参加しなかったのに……」

勘違かんちがいをしているようだけど、私は批評会の参加者を非難ひなんしているわけではないわ。現在の筆力にみがきをかけて、さらなる高みを目指そうとする姿勢しせいこのましいもの。立派だとさえ思っているし、私なりに彼らに敬意けいいを持って接しているつもりよ」

 明智先輩は、僕から目をらさなかった。薄茶色の瞳に映り込んだ春の日差しが、初夏の訪れを予感するするどさでぎらついた。

「ただし、それは大学の講義と一緒よ。卒業に必要な単位を得るために、必須ひっす履修りしゅう科目とは別に、自らの意思で選択科目の講義を履修するでしょう? 自己研鑽じこけんさんの形の一つとして、君をふくめ批評会に参加した生徒たちは、『自分の作品を、赤の他人から批評される』という形でもたらされる努力によって獲得かくとくできる成長を、各々おのおのが望んで選んだの。当然、そこには『別の方法で自分の能力をみがく』という道が存在するわ。にもかかわらず、別の講義を選択した生徒たちに『この講義を履修しないのは怠慢たいまんだ』とでも言わんばかりに被害妄想ひがいもうそう喧嘩腰けんかごしからむのは、お門違かどちがいだと言いたいの。批評会に真剣な気持ちで参加した人たちにとっても、連帯責任れんたいせきにんのような悪印象あくいんしょうを勝手になすりつけられてかわいそうだし、何よりとっても迷惑だわ。おおかた批評会で作品を酷評こくひょうされて傷ついて帰ってきたところでしょうけど、私は『自分は参加しない』と言うおのれの選択を、あなたにわれて答えただけよ。傷心しょうしんの八つ当たりなら他所よそでやってくれる?」

 想像を絶する苛烈かれつさの反駁はんばくという鎌鼬かまいたちが、いたいけな新入部員の僕を容赦ようしゃなくなます切りにした。すさまじい密度みつどの言葉の意味を、脳が短時間では処理できない。目の前の先輩は明らかに議論に慣れていて、僕は異世界の始まりの村で木刀ぼくとうを手に入れて浮かれた低レベルの勇者ゆうしゃか、あるいは勇者にもなれない名もなき村人ふぜいで魔王にいどもうとした身の程知らずだと突きつけられた。それに、確かに僕の台詞せりふは『傷心の八つ当たり』と切り捨てられても仕方がないものだった。負け犬の遠吠とおぼえめいた僕のくだらない愚痴ぐちと甘えが、明智先輩の逆鱗げきりんに触れたことだけは、十分過ぎるくらいに骨身ほねみに沁みた。

「す……すみませんでした……」

 こてんぱんに論破ろんぱされた僕が、産まれたての小鹿こじかのようにぷるぷるとふるえた声で謝っても、明智先輩は「そう」と再びどうでもよさそうに返しただけだ。悲しさとやるせなさで僕のメンタルは満身創痍まんしんそういだったけれど、このまま引き下がるのもあまりにつらくて「何を読んでるんですか」と訊いてみた。すると、意外にも返事があった。

夏目漱石なつめそうせきの『吾輩わがはいは猫である』」

「ああ、えっと……」

 こちらから質問しておきながら、どう話をふくらませたらいいか分からなくなった。へどもどしている僕に、明智先輩は言った。

羽柴智規はしばともきくん、だったわよね」

「えっ、はい」

 新入部員は五人もいたのに、明智先輩は僕のフルネームを覚えてくれたのだ。少しだけ心がはずんだ僕に、「私の名前にも『智』の字があるからね」と三度みたびどうでもよさそうに言って、そして実際に「どうでもいいけど」と声に出してつぶやいたことで僕の心をへし折ってから、読みかけの『吾輩は猫である』にしおりを挟んだ。

「羽柴くんは、猫にはアロマや精油せいゆどくだってことを知ってた?」

「はい……?」

「人間は、アロマなどに使われている植物由来の成分を摂取せっしゅしても、問題なく消化できるように身体ができているの。でも、猫は違うわ。彼らは肉食動物だから、植物成分の消化は難しいの。人間であれば肝臓かんぞうに備わっているグルクロン酸抱合さんほうごうという解毒げどく機能が、猫の臓器ぞうきにはそなわっていないから。消化できない物質は、猫の体内に溜まっていき、やがてはやまいに繋がってしまう。だから、種族が違う生き物と暮らすなら、人間はその種族にとって適切てきせつな食べ物を与えなくてはならないの」

「へ、へえ……?」

 丁稚でっち奉公に出た幼子のような相槌あいづちを打った僕は、今度は分かりやすく混乱していたと思う。桜の木の下で美人の先輩と二人きりという、キャンパスライフで胸がときめく何かが始まりそうなシチュエーションなのに、話題は猫の臓器ぞうきと食生活。この人はひょっとして、相当な変人なのではないだろうか。明智先輩は、少し引いてしまった僕の様子なんか気にもめずに、あるいはくだらない議論を吹っかけてきて読書の邪魔をした後輩こうはいの価値なんかミジンコ以下だと信じているかのように、冷めた眼差しで断言だんげんした。

「私がこの大学の文芸部の批評会に参加しない理由も、これと同じよ。私の身体には、赤の他人からの叱咤激励しったげきれいという善意ぜんいとお節介せっかいかわをかぶった誹謗中傷ひぼうちゅうしょうや、いつかふでのろいにける可能性がある毒素どくそから、文豪が後世こうせいに伝えた文章のように美しい栄養素だけを抽出ちゅうしゅつして執筆しっぴつに役立てる機能はないし、有害物質ゆうがいぶっしつ分解ぶんかいしてとびきりポジティブな成分に変える臓器がないの。分かった?」

 僕は、かみなりに打たれたような衝撃しょうげきを受けていた。

 なんて根暗ねくらな人だろう。あやまれば許されるわけではないにしろ、愚痴ぐちに対してここまで理屈りくつっぽい追撃ついげきが来るなんて思いもしない。持論じろんをもっともらしく展開しているが、ようは赤の他人に好き勝手に自分の作品を批評されるのが我慢ならないだけではないか。

 だが、違う考え方もできるのではないだろうか。ここまではっきりと自分の気持ちを主張できる人間が、僕の周りにいただろうか。少なくとも、この衣着きぬきせぬ物言いの先輩は、おのれの身に降りかかる火のの払い方を知っている。強烈きょうれつなインパクトに打ちのめされた僕の心は、毒素のかたまりのような先輩の言葉のバズーカにち抜かれて、粉微塵こなみじんに吹き飛ばされていた。どうかしていたと思う。イカレた恋だということくらい、明智先輩にも伝わったに違いない。僕をちらと見上げた明智先輩は、リップグロスでつやめくくちびるで、さっきの演説えんぜつ比較ひかくしたら悲しくなるくらいにざつな言葉をつむいだ。

羽柴はしばくんって、変態へんたいでしょ」

 どうせ恋がやぶれるなら、もっとマシな言葉で引導いんどうわたしてほしかった。

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