庭園抄

 早く帰らなければ雷が落ちてしまう。

 女人はひたすらに道を急いでいる。彼女の主人の用であった布に包んだ荷物を懐に抱え、今にも自らの裳服の裾につまずいて転びそうな危うさだ。身分を語る、切り揃えられていない眉に皺が寄っている。戻れと命じられた刻限までもう間もない。焦りに視界が狭まってゆく。彼女の尋常ならぬ様子に、往来には気を利かせて自ら行く手を空ける者もいたが、さすがにすべてがそうとはならなかった。果たして、彼女はのんびりと歩いていた子供とぶつかってしまったのである。

 足がもつれて躓きながらも態勢を立て直してようやく、女人は少年の非難のまなざしに気づいた。

「いてえよっ」

「ご、……ごめんなさい」

 たおやかな声が荒息に乱れる。弾き飛ばされて路上に尻餅をついた痩せた少年に形ばかりの謝りを口にし、再び走り出す。彼がそれを不満たらたらの顔で見送り、そして立ち上がろうとした一瞬を見逃さない者がいた。

「そこの派手に転んだ子供」

 実に的確な表現で呼びかけられ、少年は頭上を振り仰いだ。

「あ、あっ、あんたは!」

「謝るのはおまえではないのか?」

「なに言ってんだよ、あいつが」

 少年は二階の窓へ向かって話していた。そこにいる、彼の喜怒哀楽に構わぬ平坦な女の声音に笑みと、そして強烈な皮肉が宿った。

「子供が獲物をあいつ呼ばわりとは、また大した物言いだな」

 子供はげっと呻き、硬直した。

「返してこい。もし嫌ならわたしが捕まえて珪花壁府に突き出すぞ。その身体に鞭打ちは保たぬと思うが、どうする?」

「保たねえってのに、突き出すとか言うのかよ!?」

「おまえが保とうが保つまいが、わたしはそれを見逃せる立場にはない。それでおまえがどうなるも、それがおまえの運と報いというものだろう」

 窓中で少年を穏やかに、しかし半ば脅しているのは、この界隈では誰ひとりとして知らぬ者のない美少女であった。だが、それにしては銀のように硬質な言葉や声音に、少年が追い詰められた必死さで反撃する。

「なっ、なんだよっ、掏摸っくらい誰だってやってるじゃんか! おれ一人捕まえたって世の中変わりゃしないんだぞっ!」

「別にわたしは世の中を変えるつもりなどない」

 彼女は平然として応じた。

「ただおまえがわたしの目の前で、しかも知人の懐を狙ったのがいけなかっただけのこと。……もしくは、おまえの掏摸の腕がまだまだ窓からわかる程度だったことが悪い。楼下人ろうげにんの財布くらいで牢屋に入るようなつまらん意地など張らぬ方がいいのではないか?」



 双焔国そうえんこく首都、九宮くきゅう珪花壁けいかへきといえば、近隣諸国にも名が響く春街である。九宮南西部の一角を囲う四方の境壁が薄紅色に彩られているため、その名がついた。九宮中心にある宮殿から東西南北に伸びる大路に立つ九宮四市よりも繁盛している、と専らの評判であった。

『男ならば出世と麗楼』

 という言葉もある。珪花壁にある楼娼館の中で九宮王府が最高級と認めるものにだけ「麗」の一字を名乗らせる伝統から、麗楼に行くというのはその者の富や権勢の大きさをも意味する。ゆえに今年は、麗楼を始めとするこの珪花壁の当たり年であった。

 今年の男たちは羽振りがいい。四ヶ月ほど前、古くから宿命的に争っていた隣国宝珠国に大勝し、莫大な賠償金を取った。宝珠国との国境となっている東の大河・竜牙での水上戦における、水軍を統べる陵妙りょうみょうの鮮やかな指揮は既に伝説と化している。

 そのため、

「副将の「飛天」純守雋じゅんしゅしゅんさまが、今夜お上がりになるのですわ」

 という知らせに、麗楼の一つである麗翠楼れいすいろうの妓女や楼下人と呼ばれる召使たちはわらわらと浮足立っていた。

 あの陵妙将軍を強力に補佐し、戦を天から見下ろすがごとき策謀を駆使して「飛天」と呼ばれた参謀が訪れるのである。最上階に特別な宴席を整え、麗楼の誇りにかけて最高級の料理を厳選し、舞や楽を合わせているというわけであった。甲高い笛の音が響く下で、料理長の怒鳴り声が聞こえる。実際の御到着はあと三刻も後の夜だというのに、既に上から下からの大騒ぎであった。

 気が引き締まるのは玲珠れいしゅも同じだったが、妓女や楼下人ではない特殊な身分だけ、まだ本人が到着しない限りは余裕がある。

 珪花壁における玲珠の職名は「守人しゅじん」だった。楼館が個々で雇う警護の武人、つまり用心棒と訳するといかにも屈強な男を思わせるが、玲珠は少なくともその先入観を破砕する一人だ。彼女は麗翠楼の守人としても美少女としても珪花壁に名が通っているため、衣服は動きやすさに配慮したものであると共に、その中性的な美貌を最大限に引き立てるものが選ばれていた。尤も、自らの美しさに頓着していない本人としては、楼の主や親しい妓女が選ぶものをそのまま身につけているというだけであったのだが。

 そうして窓際で何処ともなく人の流れを眺めているうち、玲珠は掏摸の現場を目撃した。まだほんの少年ながら何処で仕込まれたか妙に筋がよかった。場所が場所であるからそういった組織もあることはあるが、世の中などと知った口をきいてきたのが少し癪に障った。そうして念入りに脅しつけて盗品を返しに行かせた矢先、今度はふくらはぎ辺りを長箒ではたはたと撫でられた。

「玲珠さま、どいてくださいませ。柱のお掃除ができませんからね」

 振り向くと、一番仲のいい妓女である梁蘭りょうらんが胸を張っている。瑞々しい美しさに恵まれた十七歳の彼女は口が巧いながらも率直な性格であるがゆえに失敗も多いが、この麗翠楼を担う人気妓女の一人である。

 ゆえにこそわざと笑った。

「よくもわたしを置物か何かみたいに」

「置物は磨けばよろしゅうございますけど、物ならぬ玲珠さまは箒では磨きようもありませんわ。陽が高いうちは置物にもなりませんから、外へでも行っていらしたらいかがです? 西桜園は緑桜が盛りだそうでございますわよ」

 人相手の仕事柄か口の悪い妓女もいるにはいるのだが、麗翠楼で梁蘭以上に弁が立つ者はほとんどいない。今日も舌の滑りがいいな、と玲珠は肩を竦めた。

「置物以下のわたしは純守雋どのの御到着までせいぜい花を愛でていろ、か?」

 苦笑混じりに嘯くと梁蘭が優雅に、そしてぬけぬけと頭を振った。

「そんな聞こえの悪い言い方はいけませんわ。お忙しく立ち回っている玲珠さまに息を抜かせてさしあげたいと思っただけですのに、わたくし」

「置物以下をも思いやる心ばえ、まったく素晴らしいな」

「まっ、玲珠さまったら」

 おほほほと明るく哄笑する梁蘭だが、玲珠が口で勝てるのはせいぜい十度に一度くらいのものである。わたしより二年ほど遅く生まれたはずなのだがな……と、爽やかな舌戦が終わるごとに思わずにいられないことを例によって脳裏に浮かべつつ、彼女は傍らに立て掛けておいた双剣を手にした。

 二本の厚刃の剣を剣帯にしっかりとくくり、軽く背伸びをする。

「確かに、残念だが陽の高いうちはわたしの仕事は余りない。おとなしく柱の掃除をさせてやるさ、梁蘭」

 梁蘭が満足げな表情で応える。

「嬉しゅうございますわ、玲珠さま」

「それはどうも……ありがとう」

 今さら何をしゃあしゃあと、と思ったが、玲珠とて自分の美貌や武名への諂いなどよりも梁蘭の遠慮がない言いぶりの方がずっと気持ちがよかった。だから、梁蘭は言いたいことを言う割にはそれほど嫌われぬのだろう。柱の埃をはたいている後ろ姿を返り見、玲珠はふと愛らしい彼女を少し羨ましく感じた。

 勿論、自分は自分だとわかっているし、玲珠が男勝りに武技を身につけたのにはそれにふさわしい過去と事情があったのだが、それでもちらりちらりと夢を見る。艶やかな幾重もの裳服、絢爛と飾り立てた全身にふさわしい優雅な物腰、そうして奏でるは舞楽。玲珠は仕事柄から華美にすぎる装いはできぬし、髪も結い上げてまとめるだけだ。妓女の労苦などを知ってはいても、どうしても彼女らが放つ「女」の華に眩しさを覚えないではおれずに、いた。

 色街、珪花壁。血塗られた過去ゆえに得物を友に世を斬り渡ってきた玲珠には、ここはどうあっても近くて遠い世界だ。それでもいくつかの偶然が重なって選んだ守人の道を、時に疎んでしまう自分の浅さを玲珠は笑った。本当は大した感慨でもないのだと思う。客の寵を失えばほぼ終わりになってしまう妓女であればあったで、今度は守人の強さに羨望するのに違いないのである。ないものねだりは、するだけ心虚しくなるだけかもしれなかった。

 玲珠には最早、道を選び直すことも放棄することもできない。

「結局わたしは――」

 楼主の勧誘に乗った時点で、その命運はほとんど決したのだといえよう。

「こういう風に生きるしかなかったのだろうな」

 呟いて、彼女は喧噪高らかな麗翠楼を出た。



 珪花壁の東西南北には、それぞれに意匠を凝らした名庭園がある。東に東梅園、西に西桜園、南に南藤園、北に北蘭園という。五十年前に双焔国の王族が最愛の妓女のために最高の材と庭師を尽くして珪花壁の北に蘭園を造らせて以来、その子孫や親族らが立て続けに東、南、西の順にさらに庭園を築かせた。この四庭園はそれぞれに中心となす植物を名に冠している。西桜園は、無論ながら桜を中心に設計されていた。

 実際には主な桜の時期は過ぎていたが、梁蘭が言ったようにこの時期にこそ盛りとなる桜もある。殊に初夏に開花する緑桜は遅桜として名高く、薄緑色の花弁が後から一人舞台で咲き誇る様は古来から名詩を生んできた。

「最も美しき緑なるは、夏桜なり」

 と、玲珠が詩句を漏らしてしまったのも無理はない。噂は聞いていたが、なんとなく今日まで行かなかったのが口惜しくなるほどの絶景は、梁蘭の言う通りであった。存分にその美を見せてくれる緑桜の中で、彼女は自分がそのまま溶けてしまいそうな快さに目を閉じた。

「本当に緑だ……な」

「そうでしょう?」

 ふっ、と澄んだ高い声が耳元に入る。

(なに……!?)

 玲珠は驚愕に目を剥いた。いかに遅桜に見入っていたからとはいえ、人がすぐ側に来たならば気配でわかったはずだ。自惚れではなくして実力を自負する彼女が、しかし完璧に気づかなかったとは尋常ではない。何者が相手であれ、まず剣に手をかけながら跳び退った。

「誰だ?」

 迫力ある誰何を飛ばしたまではよかったが、その相手の姿を確かめた瞬間、玲珠は意外な思いに首を傾げていた。

 たった今まで彼女が立っていた場所に、すらりとした女が佇んでいる。恐ろしく血色の悪い白皙の肌だが、萌緑の裳服に不気味によく似合う。顔立ちはよくも悪くもないものの、見事な緑色の睫をした一重瞼の双眸が印象的で、謎めいた美女と称しても差し支えないと玲珠は感じた。神秘的とも、この世のものとも思えないともいうべき異様さに包まれた、まるで空気に溶けこんでしまいそうな透明感がある女だった。

「あなた、は」

「麗翠楼の、玲珠様ですね?」

 誰何ではなく既に確認する問いである。いかなる理由かは知らないが、ここに玲珠が来るのを知っているようだった。尤も、それは己の知名度を未だに実感しきれていない彼女の主観ではあるが。ともかくも、頷くべきかどうか数瞬迷った末、女には殺気はないのでとりあえず認めることにした。

「確かにわたしはそうだが、あなたは?」

 血腥い仕事柄、敵は少なくないし覚えのない恨みを受けもする。怪しい仕草に及んだ時は抜き放つ、そんな威嚇を込めて玲珠は剣の柄に手を置いたまま尋ね返した。

犂緑れいりょくと申します」

「……犂緑どの、か」

 女こと犂緑があっさりと名乗ったのは、警戒を殺ぐためだろうか。偽名の可能性を考えつつも彼女のまなざしは柔らいだ。とりあえず、相手が今は戦いよりも話し合いを望んでいる様子であるのは間違いなかった。

(ならば、人の路として話だけでも聞かねばならないか)

 玲珠はす、と姿勢を正した。

「それで、わたしに何の御用があるのですか」

「実は、あなたをこの西桜園に導いたのもわたくしです……先日、この庭園を訪れた梁蘭殿の心に軽い術をかけさせて頂きました。玲珠様、あなたをここへ行かせるように、と」

「なに!?」

 反射的に剣の一本を抜き放ち、犂緑に対して構える。

 それではおびき寄せたということではないのか。常は早計に走らぬ玲珠だが、術という胡散臭い言葉から既に臨戦態勢に入っていた。人の意識に働きかけて相手を操る、それは催眠術の一種だろう。だが、やはり守人という環境にあって「術」にはろくな過去がなかった。

 犂緑は、まるでそれが己の無実の証明であるかのように、怯えもせずに玲珠の強い視線を受け止めた。

「御安心を。あなたを殺すつもりであれば、梁蘭殿にはもっと別の事をして頂きます」

 淀みも躊躇もない言葉に、玲珠は知らず微苦笑する。要するに、そのつもりならば梁蘭に彼女を殺させる、わざわざまどろっこしく呼び出して正体を見せはしない、そう言っているのだった。

 とはいえ、玲珠は剣を構えた姿勢をすぐには崩さない。二人の瞳が互いを見つめ合った。表面的には犂緑が嘘をついているようには見えぬ。或いは余程の者であるゆえかもしれぬが、玲珠は美貌には頓着しないが双剣の腕についてはそれなりの誇りがあった。ゆえに、術を弄する者が、そんな玲珠を狙うのにこのような効率の悪い方法を選びもすまいと思われる。そう自分に改めて納得させ、彼女はようやくひとまずは柄から手を外した。

 もしも裏の裏があって敢えて油断させる目論見だった時は、その時こそ抜剣すればいい。今は仮初めでも犂緑を信じなければ話は進まぬだろう。豪胆な計算を立てて、玲珠は彼女に礼を取った。

「大変失礼をした。申し訳ないが話を続けて頂きたい。あなたが立腹して、もう用がないならそれで仕方ないが……」

 梁蘭には敵わないとしても、玲珠とてこの程度の弁はふるえる。できればこのまま怒って去ってくれればいいのだが、とさえ期待してしまった。どう転ぶかわからない事態は経験上、余り望ましくない。

 だが、少なくともその期待は空しく終わった。いいえ、そう思われるのも当然です、と犂緑が優雅に、何もなかったかのように平然と微笑む。どうやら玲珠でなければならないとでも、先方は胸に決めてしまっているようだ。これで一転して敵に廻ったら大した役者だな、それこそかなわない、と玲珠は皮肉に思ったが、次の言葉は予想外であった。

「純守雋殿が今晩、そちらの楼館を訪う事は存じております」

 皮肉な思惟を消し飛ばされ、息を呑む。てっきり自分に用があると思い込んでいたのが、目的は彼女が雇われている麗翠楼の客だったのである。

 玲珠の双眸が鋭く輝いた。

「つまり、……純守雋どのに、用事がおありなのか?」

 肯定を意味する沈黙で犂緑が応える。

「なんの用か、そしてあなたがあの方とどういった関係にあるのか聞かせてください。わたしも守人で客の身に責任があるゆえ、それを伺えなければこの話はなかったものとさせて頂くが――」

「噂通り、筋の通った方……何も訊くな、とは言えぬようですね」

 彼女が困ったように冗談めかしたが、玲珠は最早愛想さえ見せなかった。

「無論」

「では、私の素性を申し上げましょう」

 表情を綺麗に消して言った刹那、犂緑の背後に立っていた緑桜の花弁が宙に散った。

 突然起こった風に舞う花の中で玲珠は目を瞠り、硬直した。その瞠られた目は、その緑桜へ寄りかかる犂緑から離すことができない。なぜならば背中から、二の腕から、足から。水面に沈むように、彼女の全身が桜の幹へとみるみるうちに溶け入ってゆくのだった。

 そして犂緑が幹の中に消えた瞬間、呼応するかのように桜が仄かに光を放つ……!

(こんな、桜そのものになれるのは)

 目の当たりにした美しすぎる異変にさしもの玲珠も愕然となり、呆然と呟いていた。

「まさかあなたは、樹精か!?」



 その少女に会うのは実に十日ぶりであった。年齢的にはもう「慣世」、世に慣れる年ではあったものの彼女に会うとどうしても、

「おお。ひさしぶりじゃねえか、お嬢ちゃん」

 と、言ってしまう流露りゅうろであった。どこにも属さずに刀をのみ頼りに生きているといえば威勢がいいが、この少女にかかると「ひねくれているだけだろう」とからかわれるだけになってしまう。そう、彼女は珪花壁屈指の麗楼の守人という身分を三年ほど前から手に入れていた。

 少女が本当に嫌そうな表情を浮かべる。

「お嬢ちゃん、はそろそろ勘弁してくれないか」

「おれも悪いとは思うんだけどよぉ、こう、ついついやっちまって、なあ……」

「ついもなにも、いくら生き別れの娘の年格好に似ているからといって」

 苦笑いするが、実は彼女に近づくためにとっさについた大嘘だった。流露は現在三十歳であり、いくらなんでも十歳で当年二十歳の娘の父親になれるはずなどない。が、完璧な老顔ゆえに平気で嘘をつき、そして今も本気で信じている相手が可愛くてならずにいた。

 思えばこの少女とは、少し前に起きた妓女無差別殺しの解決のために組んでからのつき合いである。常は一人でふらふらと珪花壁を渡っている流露は珪花壁を統括する珪花壁府から依頼され、少女は守人という立場から動いたのだ。それ以来、会えば挨拶くらいは交わしていたものの、その縁が今もしっかり繋がっているのが確認できて、彼は素直に嬉しかった。何しろこんな美少女など滅多にいないのだし、なんとかして親しくなりたいと願う男はそれこそ大河、竜牙の底に転がる石の数ほどにいるのである。

「しかしよ、よくここがわかったじゃねえか、玲珠」

 ふう、と少女こと麗翠楼の玲珠が疲れた息をつく。麗楼とは比べるべくもないが女がいるのは同じ貧乏楼館を出た処を待ち構えていた彼女は、憮然として天を指さした。

「おかげで今、日が暮れそうだろう? 行きつけの賭場やら食堂やらを走り回って一刻くらいここで張り込んで、今ようやく――だ」

 声が幾分低くなっている。怒ってはいないようだが、玲珠が不機嫌であるのはまず間違いなかった。が、本当に苦労したと言外で吐息する疲れ混じりの口調に、流露は妙に笑いを誘われてしまう。当人に笑うのは気が引けたので、わはははははは、と、頭上に広がる鮮やかな夕焼け空に向かって空笑いをあげて紛らわせてから、激怒はさせない程度に味のきいた台詞を返してみた。

「そりゃあ悪かった。今日は気合を入れて楽しんでたからなあ」

「それは、まあ……よかった、な」

 そう言うしかない、という顔で、玲珠がやや顔を赤らめて再度嘆息する。そして彼女の方にはどうやら立話をする余裕がないらしく、やおら流露の腕を引っ掴んで路地裏へと連れ込んだ。周囲からの好奇の視線も気にした風さえない。

 玲珠は極めて真剣な表情をしていた。いつもはすましているので面識の浅い者には見分けがつきにくいらしいが、今回は雰囲気にただならぬものがあった。

 が、この急な反則的攻撃にはさすがの流露も慌てて玲珠に声をかけた。

「おいおい、どうしたってんだよ」

「頼みがある。礼はきちんとする。時間がないから、単刀直入に言ってもいいか?」

 ぼそぼそ、と小さく彼女が訊いてくる。

(なあるほど、そういうわけかい)

 玲珠の切迫したまなざしの理由を納得して、流露は知らずほくそ笑んでいた。そろそろ蓄えがまずいと心配していた矢先の依頼に、依頼主は妓女も嫉妬する美少女である。これほどおいしい役回りは、人生でもなかなかないものだった。

「まあ任せろよ。おまえが相手なら、萎えたものもすぐ立つぜ」

「なにをつまらぬ冗談を。先の女性と比べられながら抱かれるのは真っ平御免だ」

「けっ、可愛くねえ……で、お嬢ちゃんの頼みってのはやっぱ、物騒なやつなんかい?」

 力強く、玲珠は頷いた。

「ああ、とても鳴物入りだ」

 頼むのが流露しか思いつかなかった、となにげに男殺しな台詞が薄く紅をひいた唇を飛び出す。それだけでもなんでもしてやりたい気持ちにはなっていたが、年の功で理性までは失わなかった。

「へえ……それでおれにどうしろって?」

 いくら玲珠を可愛く思っていても、いくらなんでも訊くべきことは訊かねばならない。

 切り出した流露に彼女は、言いにくそうでもなんでもなく、一聞するに弟に使いでも頼むのと変わらない口調であっさりと言い切った。

「今晩、我が麗翠楼に来られる純守雋将軍を派手に襲ってくれないか」

「そりゃなりも………なにいぃぃっ!?」

 美少女の依頼に有頂天になっていた彼の顔色が呆然となり、一変して真っ白になっていた。上手い話には必ず裏がある、そんな名言が脳裏に浮かぶ。最近めっきり抜けてゆくのが多くなった布冠の下の頭髪が、今さらながらに減っていくような気がした。



 流露にほぼ強引に頼みを押しつけてから麗翠楼に戻った玲珠は、緊張感に満ち溢れた楼内を見回って歩きながら肩を小さく上下させた。もう少しで純守雋が来る、とすれ違った梁蘭から聞いて、彼女は梁蘭たちとは別種の緊張によってため息混じりに独り笑った。

「しかし、樹精とはな……」

 ただ梁蘭の毒舌につき合っただけのつもりが、なんともおかしく怪しい事態になったものである。犂緑は、西桜園にある緑桜の樹精――だから刺客でないのはわかった。いかなる術士にも、人の魂魄や魑魅魍魎といったものは使役できても自然に宿る精霊を従えるのは不可能なのだ。それゆえに、精霊が人間と係わることは滅多にないのであり、玲珠が精霊に恨まれる覚えもまったくない。その点についてはとりあえず解決し、結果として相手を拒む理由はなくなった。

 だが、犂緑の「依頼」は実に謎と困難を極めた。

『あの人を、ここに連れてきて頂きたいのです』

 勿論、玲珠は始めは「断る」と即答して突っぱねた。

 水軍副将の純守雋は、いわば陵妙に次ぐ戦いの殊勲者である。そうなので、今も物騒な噂が絶えない。敵である宝珠国からの恨みだけではなく、味方の嫉妬もある。戦後、この英雄を標的とした暗殺や陰謀の噂を十種類ほどは耳にしているし、実際に襲撃事件も起こった。麗翠楼が昼から大騒ぎだったのは、そういう事情に備えるためでもあるのだ。守人は客の守護が第一の役目である。それが守人自ら純守雋を連れ出すとなると、いかなる理由であろうが麗翠楼にも玲珠にもどれほど聞こえの悪い事態になるか。下手をすれば、純守雋を害する手先ではないかと疑われてしまうだろう。畏怖すべき樹精相手とはいっても彼女にも立場と生活がある。だから断ったのだが、犂緑がそこで泣き出してしまったのである。

『そうしなければ……あの人の身が、危ういのです……もう、私には……』

 「私には」どうなのか、どうして純守雋の「身が危うい」というのか、到底尋ねられる雰囲気ではなかったが、切れ切れの言葉を吐く様は凄まじく切羽詰まっていた。

 何より玲珠を驚かせ、疑念をねじ伏せたのは緑桜が再び輝き出した霊異である。訴えるように震えて低く唸り出した、犂緑が宿り、共鳴する桜の木に玲珠はその思いと真実とを見た。否、見せられたと思ってしまった。

『信じて下さい。この緑桜に誓います。あの人やあなたに決して害を成すものではありませぬ。どうか……ああ、どうか……っ!!』

 自然と共に生きる精霊は、自らが息づくものへの宣誓は決して破らぬ。そういう絶対の理が彼らにはあるのである。だから玲珠の猜疑はそれでとりあえずは晴れてしまい、即ち犂緑の依頼というか懇願を受けざるを得なくなってしまった。

 だが、犂緑はすべてを話してはいない。

 純守雋と彼女がいかなる関係にあり、何がどうなって純守雋の身が危ういのか。純守雋が狙われているのは以前からであるというのに、なぜ今になって玲珠に接触してくるのか。悪く言えば核心は涙でごまかされてしまったような気がするが、依頼を果たせばおのずからわかるだろう。或いは彼には心当たりがあるのかもしれなかった。

 その辺は好奇心というか疑いが働いて、玲珠はつい詮索してしまっていた。

(恋愛関係にあるとか……か?)

 ありえない話ではないので、さらに想像は進む。人との係わりが少ない精霊であるが、それでも人と精霊との恋を先祖の伝説とする家も存在するなどしている。緑桜の美しい樹精と若き優れた参謀の恋、そして恋人の危機が此度は特別なものであるとでも察知してなんとか救おうとする美女、そして自分、という構図であろうか。梁蘭が好みそうな美譚に玲珠は苦笑いした。

「まあ、受けてしまったものは受けてしまったものだが、だが……」

「ちょいと玲珠。なに笑ってるんだい!!」

 不意に肩を小突かれて、玲珠は思わずよろけてしまった。考えごとをしていたから、というより危険な気配でなかったがために反応が遅れてしまった彼女の醜態を、相手は呆れたように見据えていた。

「……楼主」

 麗翠楼楼主であり、玲珠の養母でもある礼季西らいきせいだった。さすがは元花形妓女であっただけはある円熟の美貌を、唇を彩る深紅がさらなる鮮やかさで引き立てている。「女」という美しさ妖艶さ以外のいかなる印象も、彼女は決して与えない。三十六歳の若さにして麗楼楼主にまで昇り詰めて珪花壁の「女帝」とまで呼ばれている女傑が、豪奢な衣装の垂袖でぴしりっと玲珠をはたいた。

「そんなふらつく腰つきじゃあたしゃ心配だよ。純守雋っていったら今や天下の将軍様なんだよ。きちんとお護りしないと、麗翠楼の威信もがた落ちなんだからねっ」

 礼季西の切長の目がきりっと細まる。

 この養母上が梁蘭よりも上手だった事実をすっかり忘れていた、と玲珠は苦瓜を食べすぎた気分に陥った。最近は角が取れたように穏やかになっていたが、そういえば、情人がよりにもよって一番の商売敵である向かいの深麗楼の妓女に心移りしたとか、しないとか……いやいや、と玲珠は何も言わないことにしておいた。

 確かに、今回は犂緑の事情もあるが、純守雋自体は守人としては実に守りがいのある貴人である。玲珠は空惚けて首肯した。

「わかっています」

「まったくだよ。是非ともここの常連客になっていただいて、深麗楼の奴らを悔しがらせてやるんだからね――いいかい、玲珠! 変な処から殺害予告も入ってることだし、首尾の善し悪しは特にあんたにかかってるんだからね!!」

「は……殺害予告、ですか」

「なんだいっ、その気の抜けた返事は!!」

「いえ、そんなものが来たのかと」

 今夜についての守人向けの打ち合わせはこれからだから、初耳である。流露の仕業だろうが、また芸の細かいことをしてくれるものだとまず呆れて思った。尤も、純守雋を狙う本物からのものであれば、礼季西の言通りに玲珠の腕が問われようが。

 どうにしても、流露に純守雋を襲わせて安全な場所へ非難させるという口実を作り、西桜園に連れ出して犂緑と会わせる、という守人たる玲珠だからこその計画の基本は変わらなかった。ただ連れ出すのが猜疑を招くなら、連れ出さざるを得ない状況にすればいい。流露ならば間違っても珪花壁府の警吏などに捕縛されるへまはせぬだろうから危険な計画も頼めたのだし、あの通りの豪放磊落な男だから後腐れもないだろう。

 ただ、強いて言えば、なんとなく、この件がとても厄介事になりそうな不吉な予感だけが彼女の心に根差したのであった――。



「純守雋さま、御上がりにございます」

 日暮れから暫くした後に、当の純守雋が供の者を連れて馬で乗りつけてきた。

 見るからに高貴な人間のために人垣が道を開ける様は、玲珠の目にも壮観であった。絹の礼服に螺鈿が入った太刀を腰にさしている純守雋自身も、犂緑と恋をするのにも遜色ないなかなかの容貌である。理知的な表情が、実に参謀そのままの風情だった。馬丁がその駿馬を裏の馬屋に連れて行く間、表玄関前で出迎えた礼季西が満面の笑顔で言上を述べあげた。

「我が麗翠楼へ、ようこそおいで下さいました。存分に御楽しみ下さいませ」

「ああ、実は楽しみにしていた」

 純守雋もまた笑った。確か三十を越すか越さぬかという年齢のはずだったが、相好を崩すとかなり若やいで見える。才能と人為とは必ずしも一致しないとは言うが、この参謀はまさにそういう男というわけであった。

 そうして、礼季西の斜後ろに控えていた玲珠に視線が向いた。

「噂は聞いている。麗翠楼には、珪花壁第一の美しい守人がいると」

 噂通りだ、とその顔が語っている。まるで女性自体を初めて目にしたかのような純朴げな賛嘆のまなざしに、いくら守人としてであれ、腕にしても顔にしても珪花壁第一とまでではないだろうと内心で苦笑しながらも、玲珠は一礼して応じた。

 まあまあ、と礼季西が高らかな笑い声をあげる。

「参謀さまは華よりも剣の方に興味がおありですの。後で玲珠が皆から恨まれてしまいますわねえ」

「いや、私は戦場に身を置いていたから、やはりな」

「重ね重ね果報者にございますわ、玲珠は」

 ちらり、と礼季西が目で玲珠を促した。

 何か言って客のご機嫌を取れ、と命じているのである。自分に会うがために麗翠楼を訪れる者が決して少なくないのをこの三年間で十二分に承知している玲珠は、その辺りは慣れていた。

「わたしごときに興味をお持ちになってくださいまして、ありがたき幸せです」

 いいや、と純守雋が真剣に頭を振る。

「そのようなことはない。いや、まったく素晴らしい……まさに精霊のごとき美しさ」

(ということは、やはり犂緑と面識があるのだろうか)

 微笑を浮かべる下で玲珠は冷静に考えたが、今は問うべき時ではない。考えてみるとよく引き受けてくれたものだが、これから暗殺者役の流露の凶刃を避けて連れ出す時にでも心当たりを尋ねれば、恐らく謎は解けるだろう。自らに呟いた瞬間、狙いすましたように殺気が周囲に渦巻いた。

 察知するが早いが玲珠は素早く身を乗り出し、礼季西を楼内へ突き飛ばす。出迎えの者や名高い参謀を見物に来ていた観衆がどよめいた。異状を悟り、純守雋が刀を抜き払った。

 その刹那だった、周囲の楼上からいくつもの黒影が降ってきたのは!

 影たちの手には、月光と篝火に光る刃があった。

「伏せろ!!」

 悲鳴と狂騒の中、玲珠が一喝した。

 流露は徒党を組むとは言っていなかった。予告を出すとも言わなかったから礼季西から聞かされた時には或いは、と思ったが、事ここに至って玲珠は直感した。あれは間違いなく、大胆にも「本物」からの予告であるのに違いないと。それでも純朱雋を連れ出す計画には変更はないものの、楼内に避難はさせられない不利には覚悟を決めた。そうして彼女はその傍について腰の双剣を構え――る間もなく、急降下の勢いに乗って迫る刃を迎え打った。

 双剣を抜き、一閃させる!

 いかに厚刃であれ、女の片腕の力では成せることは多くない。剣も、まともに攻撃を受ければ折れてしまう。しかし、それでも玲珠の得物は「双剣」であり、それによって珪花壁に名を馳せてきた。すれ違いざま、力ではなく技量によって、斜め上方に薙ぐただ一撃にしてその手から刃を弾き飛ばす。ほぼ同時に、もう一本の剣で相手の胸部を正確に抉った。その刺客が倒れる頃には、彼女は既に別所でもう一人の喉笛をざくりと斬っていた。純守雋も、一人を一刀で血の海に沈めている。文武に優れた飛天、という評判はただの伝説ではないようだが、数人が彼の命を狙って群がってきていた。

 純朱雋が少しは強くとも敵はその筋の刺客であり、一対数名でなどと戦わせられはしない。果たして彼の背後を取ろうとした一人に気づいて玲珠はそれをさらに斃し、巧みにその背に割って入った。

 玲珠の剣は、雷光さながらに一瞬で相手の急所を貫く。珪花壁第一とまで謳われる絶技だ。しかし、刺客には第二陣がいた。新たに現れた濃密な殺気は十人分ほどもあるか。いささか危険だがここで、例の計画を実行に移すしかないと彼女は思った。

(決戦は西桜園、か)

 麗翠楼の他の守人が観衆を叱咤して巧みに戦場離脱させていたので、幸いにも道は空いていた。それに、彼らも手の空いた者から続々と加勢に駆けつけてきている。普段なら場に留まって撃退するしそれが最上だったが、この場で決着がついてしまうと純守雋を連れ出せなくなってしまう。

「純守雋どの! ここは危ない!」

 と、さもそれらしく叫んで促し、玲珠は彼が後に続くのを確信して西桜園の方へと走り出した。おお、と純守雋が動き出す。刹那、横の裏道からこれもまた黒装束の人影が出現して彼に迫った。

「ぬうっ!」

 その斬戟を、純守雋はかろうじてとはいえ躱した。と、別の刺客が出現する。退路を断つ気だ。そうはさせまいとする玲珠の双剣が、凄まじい冴えを見せた。鋭い攻撃を最小限の動きで受け流し、次の半瞬で二本の剣先が彼らの喉と眼窩を抉る。次の刺客は蹴りつけることでまず威嚇を食らわせ、かかる一瞬に止めを刺す。純守雋を絶妙に護る玲珠の剣舞は流麗かつ変化に富み、命すら宿っているかのようだった。

 彼女の圧倒的な強さに安心したのか、純守雋が頼もしげに声をかけてくる。

「さすがだな、玲珠どの」

「わたしの後についてきて下さ――」

 振り返った玲珠は、新手が後方にいるのを察知した。が、今度の刺客は、鋲と呼ばれる柄のない直線形の手剣をその手から放った。これは純守雋を先導していた彼女には防げぬ、不利な攻撃だ。

 複数の鋲が、純守雋の急所へ真っすぐに飛来する! 彼も目に見えて動揺の表情になった。そしてすべてを避けきれないと察してか、顔と心臓とを庇う。玲珠もなんとか鋲の軌道上に回り込もうとしたが、玲珠の背後にも黒影が迫っていた。

(しまった……!)

 さしもの彼女も冷汗をかいたその瞬間、甲高い音が響き渡った。

 焦りに染まった玲珠の瞳の中で、鋲の悉くが月光に光りながら夜空へと舞いあげられていた。純守雋は無傷である。そして、彼の前には日暮れに会ったばかりの玲珠の知己が抜刀して立っていて、一瞬後には鋲を投じた黒影に猛然と向かって行った。

 そしてただの一撃で、黒影の首は斬り飛ばされていた。

「流露!」

「悪かったな! 遅れちまってっ!」

「それでもいい! 助かった!」

 玲珠は本気で叫び返す。

「嬢ちゃんに恩を売っとくのも悪くねえやな」

 本来の「刺客役」であった流露が、苦笑しながら敵を片付け始めた。昔、さる山で教わったという古流の剣技は相変わらずの壮絶さであった。斬るというより壊している。頭蓋を叩き割り、胴を半ば切断して平然と笑みまでも浮かべるとんでもない男の登場に、刺客どもは目に見えてたじろいだ。 無論、その隙を突いて玲珠と純守雋は再び駆け出した。追おうとする黒影を、流露がさらに薙ぎ倒してゆく。そんな彼に安心して彼に背後を任せて、玲珠は今度は純守雋の斜め後ろについて目的地へと向かった。

 犂緑が待つ西桜園は、わりと遠い。



 ほとんど走り通して西桜園の石門をくぐった瞬間、二人の行先を予測して待ち伏せていたのだろう刺客たちが飛びかかってきた。

「随分と大掛かりなものだな! そんなに私が気に食わないのか、貴様らは!」

 刃の激音が連鎖する乱戦にあって、純守雋が豪胆に叫んだ。目の周りを除く頭部を黒布で覆った彼らは言葉では応じず、まなざしがさらに昏く凶悪なものに変わった。玲珠は一瞬ごとに相手を斬り倒しながら前進してゆく。犂緑の緑桜はかなり奥の方だと思い出しつつ、喉を狙った剣先をかわしてその胸を刺突し、のけ反って斃れた刺客の影から現れた黒影の頸動脈を切り裂いた。

 しかしながら、犂緑の許へ進めば進むほど彼女らは不利になる。桜には「夜に見てはならぬ」という古い伝説があった。桜の樹精が集うためといい、つまりは夜桜見物する者もないから篝火などはまったくない。木々の花葉に月光や楼館の灯火も遮られ、視界が利きにくくなってしまうのだ。玲珠は夜目がいい方だが純守雋はどうであるかわからぬし、やはり不意打ちには多少反応が遅れ気味になる。

 ……刹那、玲珠は弓弦の音を聞いた。

 さっと身体を捻らせる! すると、心臓があった場所を矢が突き抜けていった。

「……っ」

 身体を捻って体勢を立て直しながら、玲珠は剣を投げつけて反撃した。かわされたのが気配でわかった。だが玲珠は投じると同時に敵の気配を追って走り、第二の矢を放とうとしていた刺客に迫る。狼狽で対処しきれぬ相手に残る剣を振りあげ、一気に肩口から斬り下げた。

「ぐあ……っ」

 ふっ、と素早い足捌きで立ち位置を変え、返す刃で背後の黒影の喉を断つ。

 一瞬後に、迸る鮮血。その紅が衣服の華となる凄絶な戦いながら顔色一つ変えぬ処が、玲珠の生き様を雄弁に物語っている。敵の気配が途切れたのを見て玲珠は近くに転がっていた、先に投じた自らの剣を拾いあげた。そうして純守雋の無事を確かめようとした瞬間、愕然と目を瞠って宙を仰いだ。そこにあったのは、信じられないような鮮烈な光景であった。

 迫る幾本もの凶刃を、純守雋はかわした。

 そして次の瞬間、彼は翼があるかのように空中高く舞い上がり、しかもそのまま静止して余裕の表情で地上を見下ろしたのである! 「飛天」、その異名が今まさしく玲珠の前に具現されていた。さしもの彼女もこれには少し意識を奪われてしまった。

(飛天……本物の……?)

 空を飛ぶ人間など、当然ではあるが初めて見た。

「玲珠どの!」

 息を詰めて純朱雋を仰ぐ玲珠の意識を醒ましたのは、左に刺客の殺気を感じたからだった。力強く斬り込んでくるその大刀を玲珠が間一髪で避けた時、純守雋が突風のように高速で舞い降りてくるのが見えた。彼女にその手を差し伸べている。第二撃をよけた時には、その手が頭上にあった。

「玲珠どのっ!」

 反射的に、玲珠は双剣を片手に持ち替えて手を取っていた。

 途端、彼女までもが純守雋と共に空へと浮かびあがった。一瞬ごとに、美しい夜桜が水面のように足下に広がってゆく。

「助かりました。純――」

「西桜園の中を戦うのは分が悪い。それを知らぬあなたではあるまい?」

 玲珠の腰を引きあげて態勢を整えながら、純守雋が突然に確認口調で尋ねてきた。

「何、を?」

 はっとなって見つめた瞳には、問い以上の強い光があった。いかなる反応も見逃さないという厳しさに満ちている、いや、それどころか……思わず息を呑み下した玲珠に、純守雋が微笑みかける。

 彼女の腰に、剣が突きつけられた。

「逃げるには条件が二つある。一つはただ離脱する場合。そして、二つ目はさらに有利を導く場合。あなたは練達の守人、逃げるだけなど問題外だろう」

 尋問するような口調に思わず身構えようとした玲珠に構わず、純守雋は淡々とした声音で続ける。

「しかし、わざわざ不利になる場所で決着をつけるために、そのあなたが遠い西桜園に逃げはせぬはずだ。それ以前に、あのまま麗翠楼前で戦っていた方が有利でさえあった。あなたは、私をこの西桜園に連れて行きたかった――そうではあるまいか?」

 穏やかな、しかしながら凄まじい鋭気を孕んだ表情が問うた。確かに、玲珠が純守雋を西桜園におびき寄せたとも考えられる状況である。それも、この言い振りからすると、どうやらかなり前から怪しく思われてしまっていたらしい。さすがに双焔国第一の知将とされる者ではあった。

「その……通りです」

 当惑しながらも玲珠は素直に認めた。

「私の命が狙いか? もしそうなら、あなたを突き落とすかこの刀で刺せば終わることだが」

「あなたは、そのために……」

 物騒な台詞に、知らず玲珠の声が上擦った。ここから墜落すれば命がないのは必至である。つまり、尋問するため、純守雋は最も効果的な一瞬を選んで空中に引きあげた。あざといほど自然に! 無実とはいえ、汗が吹き出た。

 純朴と思っていた当初の印象は、今の純守雋には最早ない。玲珠から読み取るものを読み取ろうとする眼光は、刺客などより遥かに厳しく鋭かった。なんとか否定しようと紡ぐ声が、だからこそ戦慄によって無残にひび割れてしまう。

「それは……違います。わたしは、この西桜園の樹精から依頼されたのです」

「私を殺すように、か?」

「いいえ、ただあなたを連れてくるようにと」

 そうして玲珠は空中にて事情のすべてを純守雋に話すことになった。これで納得させられなければ万事休すだと恐怖しながら。



 ふわり、と玲珠と純守雋は木々の中を抜けて地上に降り立った。

 樹精が誓ったという事実と、さらに事情を話しているうちに眼下にある木の一本が着地場所を知らせるかのように淡い緑に輝き始めたために、彼も納得したのである。そう、人が精霊の言動を偽れば例外なく天罰が下って破滅へ至る。この世には、そうした人知の介入を許さない理がいくつか働いているのだ。それで墜落死は免れたものの、玲珠の膝はかすかに笑っている。ようやく踏みしめた大地が、たとえようもなく素晴らしく感じられた。刃は恐れないが、空中から落とされるのはまったく別次元の恐怖であった。

 光り、玲珠の潔白を証明してくれたのは犂緑が宿る緑桜に違いない。とはいえ、一応用心を重ねることにしてだろう、純守雋はそこから少し離れた場所に着地した。無論、彼女に異存はなかった。

「そういうことだったとは、すまぬな。この処は誰が敵か味方か、ほとんどわからぬ状態になっていてな」

 いえ、と彼女は頭を振って笑うが、どこかが引きつっているのを自覚していた。

 気を取り直し、二人共に武器を鞘に収めずに歩いて行く中、純守雋に小声で尋ねる。

「犂緑を、御存知ですか?」

「いや、知らぬ。それどころか、精霊に知り合いは、残念ながらいないな」

 それでは少なくとも恋物語ではないのだろう。最もありそうだった可能性を潰されて、玲珠は内心首を傾げた。ならばどういう関係なのだろうか。しかし、純朱雋の様子ではさらに問うても答えを得られそうにないので、仕方なく話題を変えた。

「飛天、という噂は、真実なのですね」

 空中での感覚がまだ身に生々しく残っている。不安定な浮揚感といい強い風といい、純守雋にすがりつくだけがすべてであった。身震いする彼女に、純朱雋が首肯した。

「子供の頃からそうだった。戦場でも、こうして襲われた時にずっと私を助けてくれた。だから、神か精霊にでも授けられたのだと感謝することにしていたが……」

「それを告げるために、玲珠様にお頼みしたのです」

 凛とした美声が闇の向こうから響いてくる。

「あなた、は……」

 既に輝きを失った緑桜を背にして佇んでいた犂緑の姿に純守雋が目を瞠る。だが、表面的には寸分変わらぬ美しい樹精に対して、玲珠は違和感を覚えた。

(なんだ、窶れているのか……?)

 犂緑を包む雰囲気が微妙に弱まっているような気がする。そう考えてみれば表情にも深い疲れがあった。

 そんな疑念を知ってか知らずか、犂緑がまず玲珠に頭を垂れた。

「ありがとうございました、玲珠さ……」

 刹那、疾風のように数本の矢が飛来する!

 しかし、この時の玲珠の剣技は人間業を越えた。双剣を一分の無駄なく操り、犂緑や純守雋を狙った矢までも悉く切り落とす。純守雋が犂緑を背に庇い、玲珠は双剣を構え直した。

「つまり、あなたは私が『飛天』に生まれた謎を解いて下さるというわけか?」

 彼が背後の犂緑に驚いた口調で尋ねた直後、周囲に剣呑な気配が急浮上する。どうやら地上から追っていたらしかった。余程の厳命を受けたのか。そうして、犂緑が答えるよりも早く四方から多数の影が飛び出した。

 玲珠の双剣が二人の命を同時に奪った。突出して孤立しないよう、巧妙に相手を引き寄せては正確に死界へと送る。相手も充分に巧者だが、玲珠の戦いは天稟といえた。不意打ちも鋭い斬戟も物ともせずに、次々に絶鳴と死を与えてゆく。一人の心臓を貫いた時に、犂緑がその通りです、と答えるのが剣戟の合間に聞こえた。

「あなたの片親は人ではありません。その力は、それゆえです」

「……そうか、やはり。そうだったのか」

 さもありなん、といった声音で純朱雋が言った。

 玲珠には、背後にいる彼がいかなる顔をしているのかはわからない。戦っている最中ゆえ、知らされた真実に衝撃を受けている間は許されない彼女は、ただ納得した。精霊の血を引いているから「飛天」であるのだと。そう納得しながら揺るみなく双剣を振るい続けた。

 そうしてもう一人を血煙に沈めた後に、玲珠は純守雋を振り返った。その先で、青年は穏やかな表情をさえして刺客を相手取っていた。自らの出自が判明した動揺は欠片もなく、それどころか心なしか剣勢が強くなっている。助けは不必要と判じ、玲珠は自らの戦いに専念した。繰り出した剣が刺客の手首を正確に傷つけ、太刀を落とさせる。殺傷を妨害しようとして飛び出してきた別の影を、双剣が十文字に斬り裂いた。断末魔の絶叫が終わらぬ間に、彼女は当初の相手の喉を抉った。すべて一瞬刻みの戦いである。犂緑を庇って立ち回る純守雋の技量も見事で、まさしく文武に優れた飛天そのものであった。

 結局はこの西桜園で相手にしたのは総勢十二人、悉くが冷たい骸と化した。彼女が最後の刺客を死界の神の許へ葬って息をついた時、純守雋が大したことでもなさそうに犂緑に問うて言った。

「それで、あなたが母親とでも言われるのか」

 犂緑はただ一度だけ、心に染みるような深い愛情を込めたまなざしを向けながら頷いた。ああ、そうか、と玲珠は剣を鞘に収めながら驚くと共に再び納得する。恋人ではなく親子だったのか――邪魔者がようやくいなくなって静寂が支配する夜桜の下で、真相は静かに語られた。

 犂緑は三十年前に純守雋の父と恋に落ち、子も成したという。 だが、宿るものを離れて、精霊は生きられない。ゆえに父は、毎日赤子を連れて西桜園を訪れた。しかし、この時はさすがに単身だったものの、嵐の日にまで愛する樹精に会いに行ったがために彼は病を得てしまい、あっけなく死してしまった。西桜園へとやってきた夫の父母からそれを告げられた犂緑は、精霊たる自らのゆえに夫が死んでしまった、と深く嘆き傷ついた。そしてそれゆえに、子供には母恋しさに夫と同じようなことをされたくないと心底から願った。

 そこで彼女は、父母に頼んだ。

 母は父と共に死したことにして欲しいのです、と。

 夫の父母、つまり純朱雋の祖父母はそれを承諾し、犂緑と緑桜とに沈黙を誓った。

「精霊の誓いは、人にとってもまた絶対たるもの。そう、誰も教えてはくれなかった。どれほど尋ねても。ようやく、わかった」

 遠い目をして、純守雋が呟いた。

 玲珠は複雑な思いで瞳を伏せる。明らかに人と違うものを有していながら自らの疑問に答えてくれる者がなかった彼の、三十年の生――そう考えると、胸が詰まった。

 純朱雋は初めから神か精霊の祝福と思い切れたのか。自らの出自に疑問や恐れを覚えずにいられたのだろうか。悩み、そして己なりの答えを心に刻んだからこそ今真実を受け止められたのではあるまいか、そんな切ない思いを玲珠は抱いた。強い方だ、と胸中に呟く。彼女がその立場であったならば、自らへの疑問に押し潰されていただろう。

「しかし、何故に今になって誓いを破ってまで真実を?」

「あなたに、精霊の力が継承されていたからです」

 飛天、その力のことを犂緑は言ったのだった。哀しげに言葉を紡ぐ。

「普通は精霊の血は継承されません。精霊は自然に宿り、その化身としてこの世界に存在しますが、人は肉体を持って完全なる形で世界に存在します」

「それで人の血の方が精霊のものより強く、継承されぬというのか」

「ええ。ですが、あなたの場合は違いました。……それがなぜかは私にも他の精霊たちにもわかりませんが、時にはそのようなこともあるといいます。そして確かなことは、このままではあなたは、精霊と化すということです」

 精霊と化す、と犂緑に断言されて、純守雋は怯んだように瞳を眇めた。

「あなたが力を使うごとに微小ずつとはいえ精霊の血が輝き、人の血に勝ってゆくのを風精に告げられて、私はこの園の長に伺いを立てました。長は、あなたに選択させるよう命じたのです」

「選択?」

 問うたのは玲珠だった。純守雋本人も同じ驚きを顔に出して返答を待っている。

「それゆえに玲珠様を介してあなたを招きました。あなたの人生はあなたのもの。私に勝手に封印するなり放置するなりすることは、できません。今ならまだ間に合います。あなたが精霊として生きたいのならばこのままでよし。――ですが、人として生きるのなら、私がその飛天の力を完全に封印して精霊の血を眠らせます」

 彼はその刹那、あっさりと答えた。

「私は人として生きる」

 玲珠の方がはっと狼狽してしまう。とても重大な選択のはずであり、衝撃的な事実であるはずだった。しかしながら、まるで兵法書の内容を問われた生徒のように、答えが唯一それだけであるかのように純守雋は決然としていた。

 なんとも形容できない表情に顔を歪ませた犂緑に、彼がさらに言を継ぐ。

「私には、幸い陵妙将軍を始めとして私を必要としてくれる者が大勢いる。精霊となっても役には立てようが――彼らと同じ処での生を、私は歩みたい。飛天という言葉で私のすべてを受け入れてくれた彼らと同じ、人の生を」

 ならばこの力を封印して欲しい、と、純守雋はためらいも惜しみもせずに告げた。

 否、選択したのだ。共に戦い抜いた仲間との生を、純朱雋は。玲珠は泣き笑いに似た感動を覚えた。答えに迷う必要がないほどに彼は仲間たちを心から愛し、愛されているのだろう、と……凛然たるその立姿には、気高ささえも感じた。

 犂緑は我が子に深く頷き、晴れやかに笑った。

「嬉しく、思います。自らの道を迷いなく決められるあなたを、私は誇りに思います」

 彼女の双眸から、涙が滑り落ちた――。



 純守雋は、以来麗翠楼の常連客となった。正確には玲珠の友人といった処であるが、時々は妓女と楽しむこともある。だが、それはこの出来事から半月ほどが経ってからようやくのことであった。

 なぜならば、選択の代償が余りにも大きく残酷に過ぎたのだ。

「知らなかったのだ……」

 あの夜、犂緑が宿っていた緑桜に跪いて、純守雋は顔を覆った。

 押し殺しきれない嗚咽が、低く夜気に漏れて流れてゆく。

「私の封印があなたの命と引き換えだなどと、知らなかったのだ……っ!」

 干からびてぼろぼろに立ち枯れた幹は、緑桜の死を意味していた。封印をかけ終わった瞬間、犂緑の身体の輪郭が薄れて桜が急激に枯れていったのである。最期の一瞬に純守雋と玲珠が事態を悟って愕然となった眼前で、彼女は穏やかな顔を浮かべながら消えていった。

「……はは、うえぇ……っ!!」

 純守雋が子供のように叫んだ。

 伸ばした手は、だが薄れゆく犂緑の影を擦り抜けてゆくだけだった。

 ――気にしないで。悲しまないで。

 ――あなたの選択を……貫いていきなさい……。

 玲珠の脳裏にも直接響いてきた優しい言葉が最後となった。

 盛りを誇っていた花がことごとく散華し、無残に変わり果てた樹木が「選択」の終わりを告げた。この余りにも悲しい成りゆきに、玲珠は凝然と立ち尽くす。そしていつの間にか瞳から流れ出していた涙が、しばらく止まらなくて視界が曇った。が、ややあって、「知らなかったのだ」「そんなこと」「知っていれば」などと譫言のように呟き続けて泣きじゃくる純守雋の背を、そっと抱いた。抱かずにはおれなかった。

 犂緑が何も言わなかったのは、そうすれば我が子が精霊たるを選ぶか……そうでなくとも純粋な選択が成せなくなると危惧したからであったろう。それも正しい判断であったのには違いない。違いないが、と玲珠は震える純守雋の肩に顔を埋めていた。

 死んだと聞かされていた母の真実を知り、そしてあれほど短い時間で母を二度失ったも同然の苛酷事を負った純朱雋は? この男はどうなる? なぜよりにもよって犂緑の命と引き換えだった。引き換えでなければならなかった。玲珠の存在など、彼が負った宿運に対してなんの意味も力もない。だが、それでもただ一人で打ちのめさせたくなくて、せめて行き場を閉ざされたその辛さを彼女なりに受け止めたかった――。

 結局、純守雋はそれから二日、衰弱して倒れるまで犂緑の緑桜を離れずにいた。そして、西桜園の管理人から聞かされた、犂緑の緑桜自体に寿命が近づいていたという事実は玲珠の胸にのみ息づいている。いずれは彼に話す時、或いは彼が自らそれを知る時も来ようが、それは今ではないしそうであって欲しくないと思った。

 もしかすると、犂緑の命を贖わなければならなかったのではなく、犂緑が衰弱していたがゆえにその命を削り落とさねば封印が成せなかったのかもしれない。だが、深く傷ついて打ちのめされた純朱雋がそのような事実を知ったとしても、気休めになるどころかさらに惑い苦しんでしまうだろうと判じて、玲珠は管理人にしばらくそれを口外せぬように頼んでおいたのだった。

 その悲劇から半月が経った今、だが純守雋は、麗翠楼で玲珠と酒を酌み交わしながら不意に虚無の目で夜空を見上げる時がある。

「あの力は、戦いに出るようになってから重宝したものだ。それまでは使う必要もなかったからな……」

 玲珠の返事を期待しない独白を漏らして、重すぎる吐息をつくのだ。だからどうであるとは、しかし決して繋げない。気にするな、悲しむなという母の遺言を、純守雋はこちらの方が切なくなるほど頑なに守り続けていた。きっと生涯、彼は悲しみを酒に紛らせて言葉の続きを身の内に封じてゆくのだろう。

 そうして、今日の王令をもって陵妙は大将軍に、純守雋はついに軍師に叙された。

「きちんとお相手するんだよっ、玲珠!」

 礼季西の冷やかしや妓女たちの羨望の言葉に、玲珠は上辺だけのはっきりしない微笑で応じるのみであった。純守雋は今夜も麗翠楼を訪うと先触れを寄越していた。中にはとうとう玲珠にも年上の恋人ができたのでは、と大騒ぎする者もあったものの、そんな華やかで優しい事情では決してない。ただ一人事の真相をわかち合っているのが彼女だから、それで会いに来るというだけだった。

(軍師、か)

 陵妙たちのために催される祝宴の開始を告げる銅鑼が、宮城の方角から響いてきた。

 それが純朱雋が陵妙たちと生きてゆく道であり、犂緑の命の上になされた「選択」の結果に他ならぬ。とはいえ彼はこの祝宴を心からは喜べぬのに相違なく、抜けられそうなら抜け出して麗翠楼へ行くから、と先日に玲珠に言った。

 桜かどうかはわからぬが、自然に宿らずにおれぬ精霊と化していたならば、純守雋のためには決して鳴ることのなかった銅鑼――もしも母の命を代価にせねば陵妙ら友たちとの人生が叶わぬと知っていたら、彼はどちらを選んだだろう。幾日か悩むかもしれない。時が許すならば未だ、答えが出せないでいるかもしれない。

 しかし、恐らくは、命の限りが迫っていた犂緑があらゆる言辞を傾けて純守雋を押し切ったのに違いなかった。それでは即ち、彼がいまひとたび母の喪失に直面する巡り合わせにあったということか。避けられぬ悲劇であったという、そういうことだったのかと玲珠は哀しみに瞳を伏せた。

 玲珠はかつて親兄弟を非運によって奪われている。状況が違うものを比べても詮なきことだ。が、自らの選択によって母を失った純守雋の方が、やりきれなさも何もかもが彼女より深刻なものに思われてならなかった。

 ならば最高の酒を用意するしかあるまい、と心に決めて、ふっと日暮れの空を見つめた。

「飛天なら空から抜けてこられもしただろうが……いかがする、軍師どの?」

 紛らわせるように軽く嘯き、玲珠はいつ純守雋が姿を見せるか、梁蘭と賭けでもすることにした。


―了―

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

珪花壁雑歌 流崎詠 @nagarezaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説