珪花壁雑歌

流崎詠

氷花凍剣

 いまだ仄暗い一階、花門へ続く廊下に長柄箒を持って右往左往している少女が一人。細々と動くごと、少し遅れて袖が撓んだり弾んだりしているのが可愛らしくもおかしい。しかし彼女の顔色は真剣であり、つまり真剣に右往左往している様子だった。

 それを見かけて、昨夜から楼内巡回の役に就いている青怜せいれいは不審を覚えた。それが他ならぬ自分の妹であったからだ。

 彼より二歳年下の妹は、楼の下働き全般を受け持つ楼下人でも、楼の彩りにして主役である妓女でもなかった。いずれ妓女になる見習、という「侍妓じぎ」であり、掃除などより余程に身につけるべき嗜みが山ほどある。ゆえに夜が明けきらぬ早朝、泊まりの客も帰って内外の喧騒が絶えた中でも、先達の傍らで学ぶべきことがあろう。にも拘わらず、我が妹ながら変わり者か頑固者か彼女は無類の家事好きで、朝な朝な二つある玄関前で箒を振るうのである。それを世話し、しつける役を担う妓女は大らかに笑って好きにさせているが、兄としては諦めと共に悲哀を覚えてしまう。近隣随一の色街、珪花壁けいかへきの艶風を以てしても染みついたものは変えられぬのだろうか。元々は、家事を好きになるどころかやり方すら知らぬ少女であった。

 自分が、刀の扱い方を知らなかったのと同じく――淡くも暗い追憶を胸奥に押しやり、青怜は縛ってはいない横髪を一度大きくかきあげた。

青林せいりん

 呼びかけると妹こと青林が一瞬間身じろぎ、白藍色の袖と裳裾を翻して振り向く。齢十六の彼女は、化粧をしても美々しくこそならぬが清らにして可憐、野でそよ風に揺れる白詰草の風情がある。兄を認めて見上げる大きな瞳が喜びに明るく輝き、笑った。

「おはようございます、青怜様」

 躾られた他人行儀な挨拶は、聞き慣れていてもやはりほろ苦い。

「青怜様か。誰だかそれは」

「さあ、誰でしょう?」

 笑み混じりの問いに、青怜は肩を竦めた。兄妹であろうと今、二人は身分で分かたれている。それぞれこの楼の、妹は侍妓であり兄は用心棒なのだ。珪花壁では古来より用心棒を「守人しゅじん」と呼び、腕の立つ者の中には有名妓女ほどの人気を得、楼の看板となる者もある。だから、眉目秀麗に生まれつき剣の才にも恵まれている青怜は、「花形守人」とされるその鮮烈な看板を欲していた。身を立てる野心もさりながら、文字通り妹を守るために。しかも、この楼は「歴史一千、楼塔一千」と謳われる珪花壁の頂点を極める「麗楼」の一つ、深麗楼しんれいろうである。楼主や筆頭守人に「深麗楼の花形守人」を嘱望され、受けて立とうというのであった。

 そうなれば自分は勿論のこと、青林の方も「麗楼の花形守人の妹」となるから無下な扱いはされまい。即ち、利害は一致している。その読みは数年後に悲しい形で現実になるのだが今の彼は守人になりたてであって、守人としての己を磨くのに汲々としていた。

 ゆえに、客が帰ってからでも気を抜かずにいた青怜は、いつもと違って玄関内でうろついていた妹に声をかけたのだった。外に怪しい者でもいて、困っているのやも知れぬ。昨年は厳冬で、生活が立ちゆかずに浮浪となって珪花壁内へ流れ込んだ者たちが起こす騒ぎが、この頃の懸案となっているのだ。ともあれ、何かあるのは間違いない。尋ねると、青林はきゅっと音でも聞こえてきそうにきつく箒の柄を握り直し、締めつけた。

「……お掃除しようかどうしようかと……思って」

「何?」

 思わず青怜は驚きの声をあげてしまった。

「おまえが迷うとはおかしいな。掃除だろうが」

 大げさな言いぶりに少々気分を害したらしく青林は表情を曇らせ、細目で兄を睨みつけた。

「それはお掃除ですけど、お兄様……」

「掃除ならばそうだろうが。だが、そうだな」

 口を尖らせる妹が、ほろりと「お兄様」と言ってしまったのは聞かぬふりで大きく頷く。

「浮狼、流草の類でもいるというなら、話は別だ。仕事だからな。これから露払いしてやる」

 音を立てて腰につけている刀の柄に手をかけ、青怜は片目を閉じた。「浮狼」「流草」共に珪花壁に籍を置かぬ浮浪に対する呼称である。性急な質ではないが、妹相手ゆえに意識して勢いづいて見せている。また、さすがは麗楼か深麗楼の客には人品のよい者が多く、要するに腕ずくの仕事は余りないので心の何処かでは退屈があった。

 いいえっ、と慌てて青林がそんな兄の腕を両手で掴む。

「そ、そんなこと……大丈夫です、そんな人たちなんかではありません」

 兄であれ楼の守人であれ、客でない男に触れるのは妓女としてよろしくない行いだ。運よく周囲に人の気配はない。青怜は心配と兄妹らしい接触を持った嬉しさをない交ぜに苦笑したが、意外に妹は無人だからこそとしたたかに判じて甘えているのかもしれぬ。だが、そうして彼女が手放した箒が胸にぶつかってくると、それは考えすぎかと思い直した。それもそれで困るが、と、つい妹の思惟を探ろうとするのは、純朴なままでいて欲しいという感傷なのであろう。そんな虚しさには余りにも似合わない箒を手に、彼はますます苦笑した。

「そうではないなら、何がある」

 とりあえず眼前に箒の柄を突きつけると、青林が「ごめんなさい」と引ったくるようにして受け取り、握り締める。そして、半眼を伏せて綺麗に整えた睫毛の影を肌に落とし、ふっと過去を思い出す顔になった。

「それは……昨日の、あの……お向かいさんの……」

「ああ、なんだそのことか」

 青怜はそれで得心がいった。浅黒い身体を黒衣に包み、黒髪を背に流し、秀麗で弁も立つ男ぶりから既に剣侠の色をも匂い立たせている青年だったが、彼も彼で妹と二人きりでは気安くなってしまう。甘いな、と思うものの不快ではなく、両腕を組むのに留めた。

「それじゃお兄様も、もう知っているんですか」

 ぱっと目を見開いて、頭一つ低い処から青林が勢いよく見上げてくる。

「少しはな」

 実際は少しどころか、楼では昨日から大変な噂になっている。青怜は閉まっている朱塗りの二枚扉に視線を投じた。「昨日のお向かい」というなら思い当たるのは唯一無二、間違いない。なぜなら、楼の守人から聞いた処では、青林が「目撃者」というからだ。が、傷つくなど害されてはいないというので、特に会いには行かなかった。この辺、溺愛といっていいほどに気にかけていながらも彼は守人として妹に一線を引いていて、数日ろくに顔を合わせない時もある。ゆえに咄嗟にこの出来事には思い至らなかったのであった。

 今にして思えば、害されていなければよいものではない。何かあれば青林を躾ける妓女が目敏く察してくれるだろうと、すっかり信じきっていた。しかし或いはその時に、人には容易に知らせられぬこともあったのかもしれぬ。そうでなくとも、事の次第を訊かれるなど常になく人と係わった気疲れがあり、好きな掃除もためらっていたのではないか。彼女は陰気ではないが、内気ではある。今の憂色がそのせいであるなら、少しなりと顔を見に行ってやればよかったと悔いた。

「色々、大変だったようだな」

 労ると、青林は少しはにかんだ笑みを浮かべて箒の柄に指を絡めたり外したり、竹の節を撫でたりと落ちつきなくいじり始めた。だが、その笑顔もすぐに消え、まなざしも暗くなってしまった。

「大変、といいますか……怖かったです。とても怖くて、私」

 声も出ませんでした、というか細い言葉は、兄に告げているというより自ら反芻する声音で続いた。

「怖い?」

「近づけば、切られるような……人、です」

 答えながら、青林はその相手に寒気でも感じたかのごとく、小鳥のようにふるりと小さく身を震わせて柄を固く握り直す。塗った白粉が残る手の甲はいやに白く見え、最早そうしなければ立っていられないがごとき危うさである。肩を支えた方がいいかと案じ、しかし、手を伸ばすのはためらった。この可憐さが男気ある客を惹きつけよう、と深麗楼の楼主の目にとまったのをふと思い出した。

(幸か不幸か、どちらか)

 どちらでもあり、どちらでもないのかもしれなかった。この珪花壁に辿り着くまでの流転を知れば哀れむ者もあろうし、十数軒しかない麗楼に居場所を得ている幸運を羨む者もあるだろう。だが、どうしようもない記憶や感慨よりもこの降って湧いた話の方だと、彼は意識を切り替える。そう、それはまさに深麗楼に降って湧いた話、出来事だった。

 ――前触れも何もなく忽然と向かいに現れた絶世の美影、剣風。

 昨日の早朝、竜門前を掃いていた青林が邂逅したその相手を、楼の者の多くは飾り物または虚仮威しと見なした。彼女が刃に怯えただけではないのかと一笑に伏したのは、同僚の守人であった。しかし、楼主や筆頭守人は「あそこは楼主が楼主だ」と苦笑しているし、何より当の妹がここまでまともに怖がっている。確かに妹は武芸に通じてはいないが、俄然、興味が湧いてきた。

(寄らば斬る、か)

 切られそうであるのは果たして、剣風か美貌かその双方か。そうか、と頷きつつ、青怜の心身に期待の熱が快く巡り始めた。

 もしその剣風が本物であれば、大変に面白い話だ。楼主らがなぜ苦笑したか、向かいの楼とは楼主同士が大変に険悪な仲だからである。ゆえに、その関係が繰り下がる形で輸贏ゆえいを競うのも悪くはない。否、望む処であった。楼内に好敵手は既に筆頭守人しかなくなっている彼は不敵に笑み、妹に頷きかけた。眉根を寄せているその顔が、奇妙に愛しかった。

「そうか。なら一度見てみたいものだが……今朝は、いると思うか?」

 わかるわけがないのを承知しながらも、心が躍る余り愚問を口にしてしまう。

「……さあ……。ただ、私は、いたら、怖いと思って……」

 今まで花門を出るに出られずにいたのだとは、うつむいて言い淀む沈黙の下に沈む。が、青林は少しの後に「でも」と呟くようにひっそりと、だが不思議と力を帯びた一言を足した。

「いると、思います」

「いやにはっきり言い切るな。おまえにしては」

 からかい混じりに切り返した兄に、彼女は少し瞬きして瞳を細める。

「そうですね。――……だから、怖いのかもしれません、私」

 声は何処か遠く、虚ろに聞こえた。滅多に浮かばない、翳のある微苦笑がそのまなざしや紅をさした唇に浮かぶ。そうして箒ごと自分自身を抱き締めるのが寒さをこらえる様に感じた時、青怜は「百聞は一見に如かず」という箴言に従うことにした。これ以上は、質しても要領を得ない言葉しか返らぬだろう。そうか、と話を終わらせて、その言動の真偽を自分で確かめるべく妹を後にした。

 扉の片側を開け放つ。相手の何が、善良で他者への好悪の起伏が大きくない青林を一日経ってもなお恐れさせるのか。興味にも増してそれをなんとかしてやりたいと思いやる兄としての気持ちが、彼を突き動かしていた。



 切れ切れと広がる朝靄が錦綺の綾を連想させる、美しい朝だった。

 ただ今の青林には無地の白藍色しか許されていないが、縫い取りのされた衣装を纏う時がいずれ来る。青怜は白さに一瞬間気を取られ、表情を引き締めて扉を振り返った。その時が、妹が完全に身を苦界に沈める時だ。左側の扉に、女神の絵が大きく色鮮やかに描かれている。彼女が守るとされる花門すなわち裏玄関から出入りするのが慣習であった。纏う羽衣を靡かせて花を抱き締める優しげな微笑みに、彼は吐息した。決して優しくはないかいなに、青林は奪われ男に売り与えられるのか。守人など花形でもなんでも所詮は楼の、女神の飼い犬に過ぎないと思い知らされる瞬間だった。

 花門の前に人はなく、客が帰るのだろう車輪が走る音が聞こえる合間に、鳥獣の声があがるばかりである。風はなく、靄は晴れも動きもしない。ざわめきも限りなく小さくなる珪花壁の朝、それを画布にして描かれた墨絵のような黒衣の麗姿が、表の大路へ出る路地を歩く。後片付けなどをこなす楼下人ろうげにんを始め、住人の誰しもがこの時間は妓女たちを厭って静かにしてやるのを慣習としているため、青怜も足音を小さく抑えていた。だが、珪花壁伝統の美風とされるこの静寂を、彼は好きではなかった。それは大輪の花を丹精するのと同質の優しさではないかと。そして静寂であればなお馳せる思いも多くなり、湿りをも帯びて重くなるからであった。

 それ振り払って青怜が苦笑したその時、楼下人の少女が表の方から小走りに近づいてきた。用事の最中であろう、初春の空気はいまだ冷たいので弾ませる息はくっきりと白い。そうしてすれ違いざまに彼女は卵形の顔を赤らめ、「おはようございます」と小声で挨拶していった。彼が頷き返した時にはもう、花門の扉が音を立てて閉まっている。そういえば、表の方にいるかどうか訊けばよかったと少し悔いて思った。

 しかし、大したことではないかと思い直し、青怜は刀の柄を軽く叩いた。太古からの要衝で今は双焔国そうえんこくの都である九宮くきゅうの傍ら、一千年に及ぶ長く厚い歴史を紡いできた色街、珪花壁。妓女の花と守人の剣が繚乱してきたこの薄紅色の壁の中、花と剣にまつわる様々な挿話が語り継がれてきた。

 果たして青林の目撃譚はそれに連なるのだろうか。青怜の足が早くなり、勢いで髪が揺れた。恐れてなお青林は迷った。怖いもの見たさという言葉もある。そうした一種の魅力をも併せ持っているのかもしれない、魅力も実力も本物であれば、そう昂揚しはじめていた。沁みる寒さが薄れていく。感傷も押し流されていく。妹を女神の腕に委ねなければならないやりきれなさを、そこにぶつけたいだけであろうとも今、彼はまだ見ぬ敵手に期待する剣客だった。口の端が、つりあがる。片隅で丸くなってまどろんでいた仔猫が、それに驚き怯えたとばかりに一声あげて身じろぎした。

 もうすぐだろう、と、何かが猫ならぬ自分の声で告げる。空と空気の色が少しずつ明るく澄んでいくのさえ、狂おしいほどもどかしい。大路を挟んで向かいの楼の前に出る瞬間を、青怜は渇した。妹が見かけたままに、朝靄の中に佇んでいる気がしてならなかった。

 ――向かいの楼に、新しい守人が入ってきた。

 と、楼主から正式な通達がもたらされたのは、青林の話がみるみる深麗楼中に広まっていた、昨日の昼前であった。

 守人の雇用時は、楼主や筆頭守人がその守人を連れて紹介に回ることが多い。危急時に連携を取るためだ。向かいとは仲が悪いのでそうした交流はなく、青怜が守人になった時も「いらぬよ」と楼主は薄く笑った。しかし向かいは此度、深麗楼はおろか近所にも挨拶回りをしていないという。楼主がそれでも存在を確認できるのは、守人を雇用するには珪花壁を統轄する珪花壁府の認可を受けなければならぬため、その旨を珪花壁府へ照会したからである。が、原則として認可に面接は要さないので、珪花壁府もその人相風体などは知らぬ。また、向かいの楼下人や妓女も口を閉ざしており、つまり箝口令が下されているのだった。

 だから、青林の他に語る者はない。新たな守人の絶世の影を。

 「近づけば切られるような」、怖さを。

 とはいうものの、実にこの界隈では「深麗楼の侍妓が毎朝掃き掃除をする」のは知られていた。帰り際に青林に目をつけた客が、色々と気の早い申し出をしてくる程度には――それを利用したのではないか、と恐らく深麗楼のみならず多くの者が推測し、青怜も自分の妹のことなので苦笑した。その守人を妹と邂逅するよう仕向け、後は黙秘することで話題作りを企てたのではないかと。寧ろありふれたやり口だが、それを守人に用いるのは少々尋常ではなかった。あくまでも売り物は妓女や男娼で、彼女らほど楼に縛られない守人の人気は重要視されないのだ。が、向かいの楼主というのは、「珪花壁の化身」と名声を轟かせた往年の名妓で、麗楼の主になりおおせて今や「珪花壁の女帝」とまで呼ばれる人物である。理由は知らないが仲が悪い、商売敵であるこの楼にまず仕掛けてきた、というのは大いにありえることだった。

(手並、拝見だ)

 そうなると青怜もまんまと乗せられているわけだが、乗ってやるさ、と漆黒の双眸が挑む笑みを浮かべた。虚仮威しであったとしても、「女帝」がいわば満を持して出してきたのであればただの虚仮威しでもないだろう。それを見極めるのもまた面白い。青怜は非常に好戦的な気分で大路へ出た。

 大路の方も朝靄が濃く、往来にも動かずたなびいている。深麗楼も向かいも表玄関である竜門は静まりかえり、妓女が朝影を引いて客との別れを惜しむ光景は終わっていたが、向かいではそれが延びたらしかった。その楼前の燈籠はまだ茫と光り、仕込まれた麝香を放って男女の交情を窺わせた。いつもは燈火は消えて青林が箒を振るっている頃だが、当然ながら青林はおらぬ。今は人通りも絶えており、すなわち件の守人もいなかったが、それでも青怜は不思議と心を打たれて立ち尽くした。深閑という言葉にふさわしい、興奮していた心身を鎮める粛然とした静けさであった。麗楼が向かい合う界隈でもこのような時間が生まれることに、千年もの歴史ある色街の懐の深さ底知れなさを急に感じた。

 珪花壁に流れ着くまでの年月は、急き立てられてただただひたすらだった。死ぬなら死ぬ、生きるなら生きると胸に刻み、妹を失うまいとだけしてきた。肌の色と守人としても卓絶した刀の腕は、そうしてせわしなく生き抜いてきた証に他ならなかった。

 尤も、守人となった現在の日々もとてもせわしい。客や妓女は勿論、界隈や珪花壁府に多く配慮しながら悶着を収めねばならず、時には否応なく人を手にかけた。が、青怜はすっかり深麗楼ひいては珪花壁に落ち着いている。確かに深麗楼の待遇はこれまでで最もよい、いや文句のつけようもないが、この静寂に身を浸していると珪花壁に棲むをよしとしている理由がそれだけではないような深遠な気がしてならなかった。だが、妹は珪花壁にいるからこそ妓女になる身であり、心の何処かではそれをもよしとしてしまっているのか。静寂から自分だけが乖離してゆく心許なさに陥った。

 だからこの静寂は好きではないのである。吐息しつつ青怜が瞼を閉じて幾分か肩を下げ、すぐに瞼を開けると、薄い外衣を一枚剥いださながら靄がいささか晴れた。

 ――忽然と、早朝の往来にはふさわしからぬ絢爛たる色彩が彼の目を射った。

 その瞬間、足裏から全身へと重い衝撃が駆け抜け、場に縫い止められた。しんと、何処かが冷える。いかな物思いに耽っていたとはいえ、間近に近づかれるまで気づかなかった屈辱を、青怜は信じられぬ思いで受け入れざるを得なかった。そしてその一目で確信した。これが件の、新しい守人だ。だから、いつもであれば後れを取った失敗を巻き返そうとしたであろう。が、一瞬ごとに靄から明らかに、鮮やかに歩み出る姿を凝然と見つめるしかできなかった。

 青林が大仰なのだろうと笑った同僚の声を、脳裏に甦らせつつ。

『いきなり現れたんだそうだ。霧が出ていたからだろうがな』

 昨日のこの時間も、今朝と同じく朝靄が立てこめていた。視界の悪さで徒に驚いたのではないかという言葉が、反芻される傍からかき消えていった。

 そんな青怜の耳を、何処か近く舞い降りたらしい烏の羽音が打つ。それのみであった。大路の中央へ進み出る、艶を放つ黒い刺繍沓から足音がしない。いや、気配すらないのが烏の立てる音に紛れているからでも、慣習で潜めているからでもないのを悟り、同僚の言を否定するどころではなくなった。これが普段の身ごなしなのである。ならば、ただの玄人でもありえないのだ。今や路上は歩む者と立ち尽くす者の一対が切り離された場となり、彼は否応なく静かなる輸贏に突入していた。

 瞬きもするにできぬ熾烈な沈黙に心身をさらす最中、青怜は直観した。顔色一つ変えずに受けて立つからには、まず間違いなくこの守人にも似た「前歴」がある。青林はその暗い匂いを嗅ぎ取り、恐れたのに違いなかった。彼にしても、面白いなどという昂揚や余裕はとうに消え去り、背に冷たい汗が噴き出す。もし敵なら必ずや背後を取られ、やられはせずとも傷は負った。朝風が流れたか、それとも錯覚に過ぎないのか。道を空けるかのように揺らめく靄から現れ出る、混ざり合う猩々緋と橘色の生地に金糸銀糸で繊細になされた刺繍。並の妓女より豪奢な外衣は、足首の位置まですらりと垂れる長さながらも動きやすさを追求したつくりで、細い肢体にしっくりと合っていた。彼の衣服も同じように作られているから同業者との察しはつくが、何より、薄黄緑の絹帯を締めた両腰に一本ずつ帯びた剣と、柄を取るべき両腕だった。さりげなくも、柔らかく構えられてある。そして、いささかの隙も逃すまいとばかりの鋭く暗いまなざしが、力量の程を雄弁に語った。

 それを聞き取った青怜は、だが、緊張に息を継ぎつつ胸中に漏らした。

(――……やりたくは、ないな)

 実力や容姿からではなく、若さと性別からだ。背丈は青林より少し高く青怜よりは低く、白皙の肌は青みががっていたが瑞々しくはある。肩口までで切り揃えられた髪も黒々と艶やかで、癖一つなくさらりと落ちていた。二十歳を越えてはおらぬだろう。同年代の好敵手としたい処だったが、女では話が別であった。

 その全身の輪郭は鋭いものの見間違えようはない。守人としての男装をした、女である。妹とさして変わらぬ歳の女と出会い頭から斬り合いする気が俄然、失せた。青怜は敢えてあからさまに両肩から力を抜き、戦意のなさを見せつける。さもなくば、「彼女」は抜く。彼が向かいの守人であると名乗るより早く。そう確信させるほど、妹の言う「近づけば切られるような」という形容がふさわしい底冷えする少女であった。

 まさに向かいは楼主が楼主である。さすがは「珪花壁の女帝」、麗翠楼れいすいろう楼主、礼季西らいきせい――何処からこのような少女を掘り出したのか、と感嘆する彼に、同僚の影が軽視する口調で告げた。

『で、双剣を使うんだとさ』

 双剣、双刀はそう珍しい得物ではないが、女が使うのは珍しい。どうしても腕力が劣るからである。しかし、大路のちょうど中央で足を止めた少女の剣は使い込まれているのが一目瞭然で、寧ろ美麗な衣装よりも遙かに馴染んでいた。本当にとんでもないな、と青怜は思わず怯んでしまった。

 それを見て取っていようが、少女の気配は変わりない。表情らしい表情のない面に呼び覚まさせられる記憶があり、青怜は目も心も惹かれていく。否、その記憶がなくとも惹かれはするであろう。装いにまったくひけを取らない、麗楼の妓女を見慣れた目にも鮮やかな顔貌だった。

 少年とも取れる面立ちに薄紅色の化粧が瞼を彩る瞳、仄かで絶妙な朱が彩る形の整った薄い唇を見つめながら彼はゆったりと腕を組み、その美しさに吐息した。対峙を完全に投げ出す態度に、彼女のまなざしに怪訝げな揺れが兆したものの気を許すまでには至らぬらしく、言葉が紡ぎ出される気配はなかった。

 かといって青怜から話しかけもせず、一触即発の見つめ合いは続いた。話しかけられぬのだ。黒真珠よりもなお深く墨と見紛う、円かに凍結した双眸からの視線に射抜かれて、寒さと戸惑いを覚えた。珪花壁に来てから、この自分に小揺るぎもしない女に初めて出会った。自惚れではなく、よきにつけ悪しきにつけ「深麗楼の青怜」の秀麗さや男ぶりに動かぬ女という女はいなかったのである。礼季西は「すかした面」と言い放ったものの、裏を返せば顔は無視できぬということだ。しかし、少女は青怜をそういう目で見るつもりは微塵もなさげだった。

 唇は引き締められたまま、誰何する気もないのだろうか。敵と、見なされているのだろうか。問いかける思いが、寧ろ彼自身へと食い込む。認めたくはないし悔しくもあるが、様々に場数を踏んでいるこの自分が少女一人と未だ一言たりと言葉を交わすに至れず、成す術もなくなってしまった。

 尤も少女は青林とは墨と雪そのもの、好漢に心惹かれるような明るさ、たおやかさが欠け落ちている。これほどの美貌でなぜ女らしくないのか、なぜ双剣を使うのか、使わなければならないのか尋ねたくなる冷たい鋭気が、朝の空気に息づく春めいた温かさや優しさ、青怜の詮索をすべてはねのけているのであった。

 瞬間、少女の腕が閃いたと同時、細い剣先が胸元に向けられた。

「――っ」

 抜いた動きが見えなかった。それでもその剣気に青怜は本能で、身を低めて刀の柄に手をかけていた。距離は十歩ほど、互いに斬りかかるには微妙な間合だ。しかし少女が殺すつもりなら、既に懐まで踏み込まれていたであろう。膝に力が入る。きっとして彼女を見据え、柄をきつく握った。冷え固まっていた身体に熱が噴き、消えていた戦意の芯に再び火がついた。

 青怜は何より剣客である、共に守人であろうと命を懸けた輸贏を望まれたなら息の根を止める気で、受けて立つ。まったく、何処が飾り物だと? 虚仮威しだと? 稀有な雄敵ではないかと感嘆と呆れを相半ばに、光る刃の先に立つ彼女に構えた。

 少女のまなざしが暗さを増す。今ここにある冷厳な美しさに、青怜は芯からぞくぞくして隙とならぬ程度わなないた。

 抜くか、抜かざるか。間合を測りつつ、彼女の全身に目を配った。美しい面は冴え冴えしく、先制している余裕や侮りはいささかも見当たらぬ。すらりと伸びる、外衣の内に着た白絹の上衣の袖がいささかも揺れていない腕も剣さばきの速さ、確かさを示していた。剣を突きつけ、威嚇して佇んでいるだけに見えるが、こちらが一歩でも踏み出せばすぐさま反応するのは瞭然。この状態からこちらから戦うのは至難と結論し、彼は息を殺して隙を探しつつ待ち受けた。

(このまま、退けるか……!)

 燃える闘気を研ぎ澄まし、体内に潜める。こうなれば、刃を浴びせなければ気が済まない。いささかならず頭に血がのぼっている気もしたが、それでもぎりぎりで逸らなかった。

 だが、少女は速やかに剣を引くと、あっさりと鞘に収めた。

 いやに大きく聞こえる澄んだ音を合図に、場の緊張が一気に薄れる。なくなりはしないのは青怜が構えを解いていないからだが、攻撃をかけてこないならばとばかりに彼女はそれきり興味を失ったように顔をそらし、一見は無防備に横顔を晒してのけた。そして上下左右を一瞥すると、――今度はごく普通に、双剣を抜き払った。反射的に頭頂から爪先まで緊張するが、彼に剣先は向かない。そんな、何事もないかのように光る双の刀身の美しさに、眩しさと共に形容に難しい感情を覚えて顔を顰めた。

 何を、と、青怜は構えを保ちつつも著しく平静を欠いてゆく心のまま、何度も呟く。疑問とも怒りとも苛立ちとも希求ともつかない乱れた感情の渦を堪えきれなくなり、そして知らぬ間に唇を噛んでいた。同じ麗楼の守人とわからずとも、実力はわからぬはずがない。その彼を一顧だにしない心が向かう先を見極めたいとも、見極めたくないとも胡乱に思った。

 彼女はそれぞれ剣を持つ両手を宙にさしあげる。細くしなやかな胴をがら空きにする大胆不敵にも程がある所作を、だが、青怜は勝機と判じるどころかはっと息を呑む。否応なしに呑まされる。天へ垂直に掲げられて白い輝きを増す双剣には竜神を祀る神器の威厳が、それを持つ彼女には清澄なる巫の近寄りがたさが粛然と、或いは厳然と彼には感じられた。

 その手を、その剣を、――必ずや血に染めてきていながら。

 少女は、凄絶なまでに清冽であった。


『そしてだ、剣舞……なんだろうな、そんなのをやり始めたそうだぜ』


 その一身だけが陽光を浴びたがごとき圧倒的な美貌が一瞬、朝靄に溶け入って見えた。

 しかしそれは、少女が何歩か素早く動いたがために過ぎなかった。彼女の感情のない瞳が晴れやかな蒼穹を見上げた。見入るがごとく束の間、依然として青怜には構わぬ様子で静止する。そうして、たん、と軽やかな音響が耳を打つや否や、湖面から飛び立つ冬の白鳥を彼に想起させる鮮やかさで、地を蹴った。



 ――……青怜の唇が、知らず震えた。

 妹を抱き込んで湖辺に立った冬。周囲の木立よりもなお白く輝いて、目に痛いほどに眩しかった白鳥の群れが鳴く声がどんなにも羨ましかった虚しく悲しい記憶に、すべてを攫われてしまった。

 郷愁、という感傷とは到底片付けられぬ思いが白鳥が互いに呼び交うように重なり、連なって青怜の内に響き合う。それからの星霜を生き抜いた彼の瞳に遠い、何処か優しい色が霞となってよぎった。肌を刺す寒さ、吐く息の冷たさに震えて明日に怯えたあの時と似た心地で、故郷一帯に伝わる竜神賛歌を声なく口ずさんでいた。眼前にある光景に動じずにいるには、さすがの彼も若かった。

 妹も昨日、自分と同じ過去の情景を目にしたに違いないというたまらない確信が、冷水となって胸に満ちていく。過去を完全に振り切るなどできはしないから、彼女は箒を手に玄関先でうろうろしていた。

 とはいえ、耳を突くのは白鳥の羽音ならぬ空気を切る鋭い斬撃であった。鋭く、速すぎて残響もない。麗翠楼の竜門や大路を舞台、いや祭壇にして少女は縦横無尽に立ち回っている。跳躍すれば髪や剣、衣装が硬質にきらめき、白い軌跡を引く。蒼天の下、外衣の刺繍が複雑に輝いて青怜の双眸を射る。先程まで濃く澱んでいた朝靄が薄れつつあるのが、細腕が振るう双剣が断ち切り、突き、裂き、払って散らせたかに見えた。一つ一つの動作には素早いながらもすべて「形」があったが、それを「見せる」あるいは「魅せる」剣ではなかった。ゆえに直感して思う、これを「剣舞」と言ったのは青林ではなかろうと。彼の背から首筋に戦慄が駆けあがり、柄を握る手に力がこもる。彼女が纏い、生み出す輝きと冷気に声をあげ、闇雲に動きたくなる衝動を懸命に耐えた。

 じりじりと、強烈な痺れがこめかみを伝う。そんな青怜の目と鼻の先へ、不意に鮮麗な衣装が大きく迫った。身を打つ旋風、散る黒髪。眉根も動かさぬ冷然たる美貌が、何歩か踏み出して腕を伸ばせば届く処にあった。が、肌数枚分を隔てた胸元すれすれを、それを許さぬとばかりに剣先が斜めに切り上げる。殺意こそないが剣筋は冴え、殺傷に極まっていた。彼は驚きや怒りは覚えず、ただ凍えた気配に圧迫されて沓の中で足指が強張った。彼女の上衣の袖が艶めき、澄み冴えた音が鳴る。流麗で無駄を削ぎ落とした動きを思わず追った目と、身を翻すまなざしが交わった。

 短い間だから内に抱くもの一切窺えぬ、というのではない底の底までも凍えきった双眸に青怜は息を殺した。その時には既に彼女は離れた処で天を仰ぎ、片剣をすらりと掲げ上げている。他の往来がないのは必然ではないか。そんな気がしてくる刹那の「形」に、彼は打たれて肩の力が抜けた。竜神に剣舞を奉納する巫の印象を抱かずにはおれぬ、麗姿に圧倒されずにおれなかった。

 竜神か、と青怜は胸中に低く、重苦しく呟いた。

 竜神、この大河竜牙に棲み、天地をも統べる荒ぶる竜神。竜牙流域で広く信仰されるこの異形の神は雄性とされるため、仕える巫は女がほとんどで奉納舞も存在する。しかし、竜神が常に祈りに応えて恩寵を授けるわけではない。巻き立つ不快感に半眼を伏せた。

『畏れよ至天 坐す竜に祈りを

 江湖の神祇 竜の下に在り』

 しばらく思い出さなかった詞を、これまでにもう何度呟いていたか。珪花壁では女神信仰の方が人気があった。妓女が多く棲む色街であるから竜神より厚く信仰されるのは当然といえるが、青怜は虚しい安堵を抱えていた。寝ても覚めても竜神という故郷の気風が珪花壁にあったなら、守人として生きる中やり過ごしてきた割り切れなさはもっと深くなっていただろう。かといって、竜神にまつわる憎しみとも蟠りともつかぬ込み入った負の感情は息づき、少女の麗姿に疼いた。

 ――天の高みにおられる竜神を畏れ祈りを捧げよ。

 ――世にある天地の神々も竜の下に在るのである。

 その賛歌を兄妹の子守歌にした母が、父が非命に襲われたのを見落としたはずがないにも拘わらず、竜神は手を差し伸べたりなどはしなかった。どんなに畏れ祈りを捧げても聞き届けはせぬ神の峻厳を、青怜は思いを馳せて嘆息した。錯綜する感情の鎖に胸を締めつけられる痛みに見舞われながら、もう一度見交わし、向かい合いたいのかもしれないと遠い心地に陥った。この少女と、そして、巫に見えずにはいられない少女の上に坐す竜神と。なぜあの日、あの時に爪先たりと御身に仕える男女のために動かさなかったのか。戻りえぬ過去に双眸が炯と閃いた面上、暗色が広がって肩が弾む。一瞬の微動は、だが決定的であった。厳寒の湖から十数年ほど奥底で燻り続けていた負の情動を、咄嗟にせき止められなくなって彼は一気に刀を引き抜こうとした。

 瞬刻、無心に剣舞を演じて見えていた少女の様相が一変する。

 少女が並の者であれば、察して青怜が刀を鞘に収め直せばそれで終わったろう。が、殺られる前に殺る、それが暗い処に身を置く者の絶対の感覚だった。彼女が身を返し、迫りくる。獲物を襲う蛇さながらの滑らかな疾走に、彼は刀を抜いた。反射して刃を斜めにかざす。

 刹那、少女の右剣が目に止まらぬ速さで刃を打った。

 高い剣響と共に、手首から肘に痺れが走る。剣勢は存外に重い。腕力も相当に鍛えてあるのだろう、刃を壁としなければ額を割られていた。青怜は散った剣花を目の裏に刻み、ぎりぎりの戦慄と歓喜の狭間に笑む。

 これほどとは! 顔前で止めた剣を払い飛ばそうとする。しかし彼女は一瞬間早く飛びすさり、十歩前後の間合を取った。間髪を容れず双剣を腰の前で縦横に構え、黒氷の瞳をひたりと据えてくる。いかな手練であろうと剣は細身。まともに戦っては刀身を損なうと知悉する鮮やかな攻守に、彼の血という血が瞬時に冷たく滾った。

 少女が命のやり取りを数多重ねているのをいよいよ肌身で味わうと同時、研ぎ澄ました感覚が甦る。珪花壁で生命、身分を保障されているうちに眠りつつあった、非情の感覚だ。殺る――同じ鋭気にいや白く見える面に、青怜の顔貌に酷薄な影が宿った。醒めた二対の冷眼が真っ向から衝突する。彼女はもう竜神の清冽なる巫などではなく、血で血を洗う雄敵だった。今や朝靄はほとんど晴れ、先に麗翠楼の壮麗な門構えが見通せる。だがそれがどうしたか。弁明して戦いを避けるなどといった穏便で普通の考えは頭から消え失せ、彼は殺意を凝らして一呼吸した。期せずして、期待していた戦いが勃発したのであった。珪花壁で名物である輸贏どころか生死を分かつ戦闘であったが、どうあっても眼前の敵を仕留める気迫が心身を一色に染め抜いていた。

 長くも短くもある対峙の中で態勢を整え、来い、と脳裏に呟く。

 と、まるで聞き届けたかのように、少女が正面から肉薄してきた。

 今度は左剣が生み出す白光を受け止め、薙ぎ払う。しかし青怜は地面を強く踏み、薙ぐ流れに乗って身を捻りつつ飛び離れた。半瞬、切りつけた勢いを得て繰り出された右剣が空を切る。この二撃を読み、避けたのだ。彼は背で受け身を取り、はね起きて刀を突き出した。朝霧どころか陽光をも貫く鋭さに、追い打ちをかけんと踏み込んでいた少女の足が止まった。すぐさま体位置を左へずらす。双剣では保ちこたえられぬ、逃れる。かと思いきや、彼女は留まり、その刀に片剣を添え当てた。そしていま一つの剣尖を突き出す。彼が刀を横へ振れぬよう抑え、切り返す俊速の三撃! 刀で防ぐ間などなかった。

 落命の危機ただ中に落ちた青年は、だが、狼狽するどころか力強い笑みを湛えた。

 刹那、厳しく短い音が胸元であがる。

 黒氷の双眸が初めて瞠られた。驚きが彩る美しい面を目の鼻の先に、青怜は眩むような快感を覚えた。握った手の内に、冷たく剣呑な感触。細身であればこそ、外衣そして心臓を抉らんとしていた剣を掴み止めたのだ。だが白刃取りは、前後に指や掌を切り裂くなど危険を孕む大技である。果たして少女は剣を、身体ごと押し込まんとした。恐るべき冷静さだった。しかし戦う修練を積んだ手は固く、びくともせぬ。膠着した一瞬間、彼は事実上は空いた胴へ挙止ない回し蹴りをかける。彼女は柄を手放して背後へかわし、身体ごと旋転して遠くへ退いた。互いに呼吸を取るが、息や顔に疲労が混ざるどころか冴えが増している。瞬間ごとに命を奪い合いながら、余りの卓絶ぶりに筋書ある演武さながらの死闘であった。やろうとしてできるものではない白刃取りをした青年も青年ならば、攻撃を防がれても冷静至極、即座に一剣を捨てられる少女も少女だ。深麗楼を背に片剣を構え直す花貌には乱れや焦りは一切なく、双剣でなくとも雄敵に変わりない現実を知らしめた。

 奪い取った形になった剣を、青怜は素早く一瞥する。感触でわかってはいたものの薬は塗られてはおらぬ。変哲のない意匠で剣文も入っていない、何処にでもある細身の剣だった。が、やはり相当の年季が入っている。礼季西は骨の髄まで珪花壁の女である、新たなる美しい守人のためにこれは美麗に新調しなかったのは愛用ゆえか。確信し、即ち両者守人である現実に立ち返った刹那、殺意が崩れ落ちた。

 なお戦えば、いずれかが死ぬか相打ちまで已まぬ死闘となる。だが深麗楼の守人としては、麗翠楼の守人との意義も何もない以ての外の私闘であった。

 再び少女を見やる。胸臆を引き出すという意味では確かに剣舞かと自嘲した一方、自覚もした。昔ならば、触れただけでも命取りの劇薬の塗布を鑑みて白刃取りなどしなかった。極限の所作だからこそ、深麗楼ひいては珪花壁に慣れて心肝が変わっていると認めざるを得ぬ。

 しかし、それでいい。氷づけの花、花氷のごときこの少女はかつての青怜だ。守人になったばかり、すなわち珪花壁へ来たばかりだから鋭気に本能で反応し、戦った。ただそれだけの。そんな、いわば以前の自分と出会い戦って彼は最早どうしようもなく、透かし見てしまった。生ぬるく、妹が妓女となるのをみすみす見送るとしても、あの殺るか殺られるかの世界に戻るかと問われれば否と答える。自分が手にかけるべきは珪花壁を乱す輩であり、戦うべきも守人として競う「珪花壁輸贏」のみ。それでいい、妹と重なろうが惹かれようが、殺気一つでゆえなく命を奪い合える非情の感覚など、眠らせられるならば眠らせればいいではないか。少女とはゆえない死闘でなく珪花壁輸贏で決着をつけたいと思った。

 深麗楼と麗翠楼の守人の珪花壁輸贏となれば、寧ろ周囲が進んで段取りをつけよう……全身の力を抜き、青怜は剣を投げ出した。硬い音を連ならせ、自ら還るかのように足元へ転がってきた己が得物に、少女の気勢が撓む。が、すぐ引き締まった。彼は既に平生に戻り、涼やかな余裕すら湛えていた。だが目前の青年が向かいの同業者と知らぬ彼女が、剣を返す「温情」に硬化するのは当然ではあった。

 それもまた昔の自分である。青怜は手負いの獣を慰撫するぬるい錯覚を抱き、切り出した。

「取れ」

 と、挨拶も何もない無造作な一言が、少女に放った第一声となった。

「戦う気はない――私は青怜。色の青に、怜悧の怜。貴女の背後にある深麗楼の、守人」

 緊迫しつづけている空気に構わず刀を鞘に収めて名乗ると、彼女は「本当にそうなのか」とばかりに色を正して見返してきた。警戒しているのか姿勢はそのまま保たれ、剣を拾おうともしない。あれだけ戦った挙句、戦う気はないからそちらも剣を引けと急に言い出したのを簡単に聞き入れられるわけがない、とは承知ながらも青怜は困った。守人と楼主は交わした契約と信義を大元としているため、珪花壁府へ届ける他には守人の身分を証拠立てる何かは特に存在しないのだ。そこで、仕方なくこう答えて謝罪することにした。

「貴女の剣が見事で戦ってみたいと思い、このような仕儀になってしまった。知っているだろうが、珪花壁には守人が腕を競う輸贏ゆえいの伝統がある。されど、輸贏は互いに同意を得た上でやるのが慣例だ。それをなし崩しに戦ってしまったこと、大変にすまなかった」

 詭弁だな、と自分自身でも肩を竦めたくなる言い草だから少女にも嘘臭く聞こえるのであろう、気勢はやわらぐどころかかえって強まった。青怜はさらに仕方なく続けた。

「――私を疑うなら、深麗楼に青怜という黒衣の守人はあるかと訊いてもらえればいい。本当にすまなかった。剣は貴女にお返しするゆえ、剣を引いて拾ってもらいたい」

 それをはね返し、だが謝意を込めて手を伸べて促す。そちらの楼主殿に訊いてもらってもいい、そう続けようとしてやめた。いらぬ警戒心を与えかねぬし、何より尋ねて欲しくなく思った。礼季西は青怜を嫌っている。犬猿の仲である深麗楼で頭角を現しつつある守人だから嫌っているのだろうが、彼女が何を吹き込むか知れたものではなかった。既に吹き込んでいるのかもしれないが、それでも故郷の情景を想起させる相手から必要以上の悪感情を抱かれるのは勘弁だった。

 しかし少女の瞳は翳り、彼の言を聞き入れざる不審が窺われた。口を開く気もない、か。自分と自分の身分についてどう言葉を連ねれば通じるのか、彼女から言葉を引き出せるのか咄嗟に思いつかず辟易する。尤も自業自得であり、刀の柄に手をかけてしまったのが返す返すも悔やまれた。よもやまさか、青林が見た新しい麗翠楼の守人が花氷の少女であり、それと出会い、戦い、手こずりままならない状況になろうとはつくづく一寸先は闇であった。

 ……別に、惚れて心を通い合わせたい、その過去を知りたいなどと望んではおらぬ。だが、そのように今ある少女への心のほどを確かめるのが、惹かれているがためであると薄々勘づいてはいても、青怜はついふっと見とれてしまいかかった。この冴え渡るまなざしと気配、である。珪花壁の女の多くが持つ艶めかしさや豊麗さを飽いたり嫌悪したりは全然しておらぬが、彼女の花氷の美しさ冷たさは記憶を抉るほど鮮烈な衝撃で、冷静に立ち返るとその際立った資質が快く好ましく感じる。そう、ただそれだけだ。それを何を、いかにも言い聞かせているようにしているのか。浅はかな意地を張っているような自分が、しまいにはひどく嫌になった。

(まったく……な)

 噂に違わぬ美貌と噂に違った実力の持主と輸贏を競う楽しみに喜ぶどころか、妙な物思いを抱える羽目になっている。後で妹にどう言えばいいのか当惑し、彼は横髪をかきあげた。

 ややあって、少女がかすかに首肯する。ふっと、睨み合っていても埒が明かぬととりあえず思い定めただけにしても、青怜の内に思いがけず大きな安堵が巡った。手負いの獣が少しは信を置いてくれた、そんな類の気持ちだろう。そうして彼女が腰を屈めて剣の柄に手を伸ばした、刹那その双眸に厳しい眼光が閃いた。

 女の小さな悲鳴があがるよりも早く、青怜は抜刀して駆け出す。

 いつの間に忍び寄ったのか、ぼろを着た大柄の男が少女に背後から打ちかかろうとしている。浮狼か、と呟いた。

 珪花壁に流れ込んだ浮浪で乱暴を働いたり金品を強奪する輩を「浮狼」という。男は麗楼上製の上等な衣装を奪うのが目的と思われた。少女を不意打ちで襲って昏倒させ、それを人質に青怜を抑えようと皮算用したのなら、随分なめられたものである。舌打ちした次の瞬間、彼女が素早く身を沈める。倒立する風に男の顔面を鋭く蹴り上げた。がっ、と耳にしたくない痛い音と共に男が苦悶の表情でのけぞった時には、強烈な足払いを叩き込んでいる。からりと男の手から木刀が落ちた。倒立から足払いまでに一度も地に足をつけず、腕二本で体重を支えてのけた体術に、ただ者ではないと承知していても青怜は驚嘆せずにはおれなかった。

 だが、さらに身体のばねを使って立った少女が、あっけなく俯せに倒れた男の背を強く踏みつけた時、彼は切迫した声をあげた。

「やめろ……――!」

 止めに、入ろうとする。背骨を折るまではしなかったのはいい。守人には珪花壁内に限り殺傷の権限があるが、受け身もろくに取れぬ素人にそれ以上は明らかに無用だった。捕捉した上で楼への報告と珪花壁府への通報を行い、官吏に引き取ってもらえば一件落着する。が、彼女の面には冷酷非情の影が宿り、拾った剣で首の血脈を断とうとしていた。

 見過ごせば少女は男を殺す。なんとなれば、かつての青怜は武器を向けてくる者はすべて敵とみなして葬った。無知無謀にも程がある浮狼に同情はしないが、彼は今は徒に殺傷してよいわけではない珪花壁の守人である。振るう必要のない剣は防がねばならなかった。

 だがいかんせん距離がある、間に合わない! すぐ目前を獣の爪牙のような白い剣閃が行き過ぎて哀れな男に襲いかかり、首の付根から迸るであろう惨たらしい鮮血を瞼の裏に見た。

 しかし、少女の剣は首筋ぎりぎりで止まった。

 直後その傍らに辿り着き、男の生存を見て取って青怜は胸を撫で下ろす。が、思わず唸って慄然と息を呑んだ。全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出した気がする。切る寸前で止めたかと思いきや、刃は男の喉に些少食い込んでいた。その刃に沿って蚯蚓腫れのように血の帯が浮き、流れ落ちて地面を赤く染めていく。男は泥で汚れた顔を恐怖で今にも泣きそうにぐしゃぐしゃに歪め、飛び出さんばかりに目玉を己が首へやって震えあがっている。青怜もさすがに哀れを感じた。だが少女は瞬き一つせず、いつとどめを刺してもおかしくない無表情でその様を見下ろすばかりだった。

 その冷艶な立姿に、不意に彼の脳裏に再び故郷の情景が大きく弾けた。

 寒風に乗って輝きながら流れ、髪や衣服に纏いついて凍らせ肌を痛くした無慈悲な氷塵。とにかく妹には少しでも当たらせまいとして、懸命に胸の中に抱き寄せて庇った。


 ――氷花。


 衝撃を咄嗟に収めきれず、青怜は強烈に目眩んでしまっていた。

 故郷では冬の最も厳しい時期になると、湖岸に鬱蒼と生えて深い森となしている草木に冷気が纏いつき、氷花と呼ばれる白氷の花が一面に咲き乱れる。幼い頃、ある時まで彼は毎年、その絶景に感動して妹といつまでも眺めていた。しかし、今こうして思い出した絶景は半ば恐怖であった。全身に寒気が走り、腹腔が凍りついて吐気に襲われる。彼には少女の白皙の花貌はまさに氷花、周囲に煙る朝靄が冷気さながらの白い刀身はまさに樹氷のごとき凍剣としか見えなかった。

 なんという冷たさにして凄まじさ、しかしなんという美しさか。胸がどうしようもなく痛み、深麗楼の青怜ともあろう麗楼の守人が呼吸さえできなくなる。そうして立ち竦んで青怜は、仲裁するどころか声もかけられずに漫然と氷花凍剣の様を見つめた。



 にゃあ、と猫が鳴く愛らしい声が遠くからした。

 上目にすると、仔猫と箒を抱いて深麗楼脇の路地から顔だけ覗かせる青林と目が合った。途端、彼女が血相を変えて駆け寄ってきた。踏まれた腰が痛いと苦鳴をあげ、未だに起きあがれずにいる浮狼の男を見張る態の青怜だが、顔面蒼白で立ち尽くしている表情は生気が乏しく、さながら幽鬼である。もしも男が這って進めるなら、いくらでも逃げおおせられたろう。とにかくも麗楼の守人たる矜持と余裕が完全に剥落している、常にない悲惨な顔色だった。

「大丈夫ですか、大丈夫ですかお兄様!?」

「――……ああ」

 箒を放り出して猫ごと抱きつく妹のなりふり構わない叫びに、青怜は答えながらも鈍重に頭を振る。身体は正直でかすれきった声、隙だらけの仕草だ。少女がいなくなってから少し経つが今もまだ、彼はあの氷花凍剣の寒さを脱して春の朝に帰れてはいなかった。

「あんなことになって、どうなるかと思って、私……よかった、お兄様が無事で」

 それでも怪我などは本当にないのか確かめずにおれぬのか、青林は兄の胸で瞳を忙しく巡り巡らせている。黒衣には綻び一つないものの、青怜としてはとても無事などとは言いがたい心境だ。一体全体あの少女は何者なのか、なぜ凍気とさえいえる凄絶な気色を身につけたのか。知りたくもあり知りたくなくもあり、その面影は湖の記憶と相俟った凍える恐怖として深く刻み込まれていた。しかし、安堵と心配に声を濁らせて身を寄せてくる柔らかな温もりが伝わってきて幾ばくかは何かが解け、彼の瞳に少し理性の光が灯った。

 そういえば浮狼が彼女を襲おうとした際、女の悲鳴が聞こえた。要するにその主は青林だったのである。首の肉が冷たく突っ張っていて、そんな妹を労ってやることはまるでできなかったが。

「おまえは……見て、いたのか」

 はい、と彼女が頷いたように感じられた。

「心配になって、それで、ずっと……でもまさかあんな」

 戦いになるなんて、と消え入りそうな声で呟くように言い、青林は兄の腕に顔を伏せた。

それでは彼女は一部始終を目撃していたのだ。青怜もこうなるとはゆめ思わなかったのだから、妹がどれほど肝を冷やし固唾を飲んでいたかは想像するまでもない。二日も続けて、と心の何処かで本当に気の毒に思ったものの、そのすまなさを軽口に紛らせようとするも唇が動かず、不甲斐なく小さな息を吐き出すだけであった。

 そうして青怜は、目だけで麗翠楼を仰ぎ見た。外壁や窓枠、格子に丹塗りを絢爛に施された楼は静まり、楼下人が立ち働いている物音もしてこない。

 あれから少女は何事もなかったかのように剣についた血を払い、鞘にしまって楼へ帰って行った。今頃は平然と朝食でも摂っているのだろうか。後に残った、地面に伸びる影の細さ長さがひどく鮮やかな印象となっている。青怜が向かいの守人と信じて後を任せたのではなく、男も青怜も敵でなければどうでもよくて放置したのだろう。現に、彼女からはついに名乗り返されなかった。守人という以前に無礼極まりない態度だが、かつての青怜と同じならむべなるかなである。ゆえに怒りはないが、ただひたすらに寒くて仕方がない。黒衣に氷塵が付着し、霜となっている心地がする。その余りに彼は、自分が名乗ったのだからと名を問うさえできなかったのだ。痛切に打ちのめされた。

 ――……だが、彼は実の処その名をとうに聞き知っている。昨朝、少女は青林には名前と身分素性を告げた。だからこそ、深麗楼楼主が珪花壁府に問い合わせられたのだ。しかし、彼女に告げられるまでは絶対に、名を呼びかけるつもりはない。それは意地であり、また過去の克服でもあった。

 次はいつ、顔を合わせるか。向かい同士だからそう先ではあるまいが、再会した時も何もできなくなってしまうやも知れぬ。記憶に囚われて、また戦闘などに陥ってしまうやも知れぬ。

 しかし、昔と同じくこうして妹を傍にしていると、果てに珪花壁へ辿り着いてそれなりの状況にあるように此度もまた、少女に口を開かせることができる気がしてくる。よもやまさか、自分までもが妹の二の舞を演じようとは思わなかったものの、これもまたどうしようもない回り合わせなのかもしれなかった。思い切り、青怜はようやく常の青怜らしい微苦笑を浮かべた。

 その氷花の名を、深く胸にしながら。


 ―了―

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