いつか絶対に

ライリーに酷くやられたオリヴィアは、びくびくと怯えたままフローレスから離れようとしなかった。いつライリーが戻って来て、痛めつけられるか分からなかったからだ。


フローレスはもう戻って来ないと何度も言ったが、完全に怯えたオリヴィアは、ヘクターが迎えに来るまでフローレスの服を握って離れなかった。

迎えに来たのがヘクターだった事に不満げな様子だったが、慣れている人間が迎えに来てくれたせいか、ヘクターの顔を見た途端オリヴィアは顔をくしゃくしゃにして涙を溢れさせた。


「何だ、俺から離れなかったくせにヘクターが来た途端それか」

「おい…鼻水を付けるなよ」


抱き付いて離れないオリヴィアに嫌そうな顔はするが、ヘクターは無理に引き剥がそうとはしない。何があったか聞いているせいか、オリヴィアの両肩にそっと手を置いた。


「怪我は?」

「肩と腕、それから頬に擦過傷。前髪を酷く乱暴に掴まれたからな。少し赤くなっている」

「見せてみろ」


涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている顔を上げたオリヴィアに、ヘクターは僅かに眉間に皺を寄せた。


「酷いな」


傷を確認し、まだ泣きじゃくっているオリヴィアの後頭部を撫でた。しゃがみ込み、目線をオリヴィアに合わせると、ヘクターは小さく「悪かった」と詫びた。


「何で、ヘクターが謝るの?」

「鼠はどこだと聞かれた。外で遊んでいるとだけ言ったんだが、まさか探すとは思っていなかったんだ。怖い思いをさせて悪かった」


眉尻を下げるヘクターは珍しい。いつだって小汚い鼠を見るようにオリヴィアを見下ろす癖に、今日のヘクターは優しい。

否、今日だけではない。オリヴィアが落ち込んでいたり、元気がない時は優しくしてくれるのだ。

どちらが本当のヘクターなのだろう。汚い鼠を見下ろすのが本当なのか、それとも幼い子供を心配するのが本当なのか。


どう接したら良いのだろう。

ルイスのように、とても優しいだけではない。厳しい目を向ける時もあるし、出来れば早めに城から追い出しルイスの傍にいる事を良く思っていない。


何を考えているのか分からないし、怖いとも思っているが嫌いではない。


優しく傷を確認する指先の温かさに、不思議と安心してしまう。それが何故なのかは分からない。無意味に暴力を振るう事はない。ただそれだけで良い。


「部屋に戻るぞ。アンナが着替えの支度をしてくれている。汚れを落として着替えたら、傷の手当てをするんだ。良いな?」

「うん」

「フローレス隊長。ありがとうございました」

「ああ。じゃあなチビ。また明日」

「さよなら師匠」


遠慮がちにヘクターの服を握り、オリヴィアは黙って自室へと歩き出す。

もうあの恐ろしい男はいない。もう怖い思いはしない。分かっているのに、どうしても怖かった。


◆◆◆


傷の手当は苦手だ。

痛む箇所を痛いと言っているのに弄られるのが怖い。悪気は無い、悪意を持って痛い思いをさせられているわけではない。それが分かっているから耐えられるが、痛みに顔を顰めてしまうのは仕方のない事だ。


「痛い」

「我慢しろ」


湯浴みと着替えを済ませたオリヴィアは、手当の道具を持ってきたヘクターに自室で手当てをされていた。

細く長い指で器用に傷を手当するヘクターは、普段よりも優しい気がする。


「殿下のお戻りは夜遅い。今日は先に寝ておけよ」

「何しに行ってるの?」

「婚約者様のお供だ」


そう言ったヘクターは、留守番をさせられて不満らしい。その上あまり良く思っていない子供の世話までさせられているのだから、不機嫌になっても仕方ないだろう。


「どこまで行ったの」

「教会だ。司祭が体調を崩したから、クラーク嬢が見舞いに。その付き添いだな」

「あの怖い人は?」

「…何をしに来たのか聞きたいのか?」


怖い人。それがライリーの事だと判断したヘクターは、オリヴィアの肩から顔へと視線を移す。

小さくこくりと頷き、あの人は何?と眉間に皺を寄せたオリヴィアに、ヘクターは大きな溜息を吐いた。


「あのお方の考える事はよく分からん。この間の狩りでお前を拾った話をご存知で、お前を見てみたくなったと言っていたが…」

「あの人大嫌い」

「俺もだ」


思わず零れてしまったらしい言葉に、ヘクターはルイスには言うなよと付け足す。

約二か月の間見てきたヘクターは、次期伯爵である事を誇りに思い、将来は王家の為、もといルイスの為に働く事を誓うお堅い男。そのヘクターが、王子であるライリーを嫌いだと言った事に、オリヴィアは思わず笑った。


「何で嫌いなの?」

「昼間見たなら分かるだろう。あの方は自分が王の息子だからと、この世で誰よりも偉いと思っている。酒と女の事しか頭にないくせに…」


ぶつぶつと文句が止まらない辺り、ヘクターなりに鬱憤が溜まっているのだろう。


ルイスを無能と言うが、本当の無能はあいつだ。どうせクラーク嬢について来たのは女を漁りに来ただけだろう。何でも良いから問題を起こさないでくれ。聞き取れただけでもそれだけ出て来たのだから、恐らく文句は掘り出せばまだまだ出てきそうだ。


「ねえヘクター」

「なんだ」

「あの人本当に王子様?」

「まあな」

「やり返したら怒られる?」

「殺されるぞお前…」


呆れ顔のヘクターだったが、やり返したいと言い出したオリヴィアが面白かったのか、くっくと喉を鳴らして笑い出す。

小刻みに震えるヘクターの頭を見つめ、オリヴィアは何故そんなに笑うのだと不服そうに唇を尖らせた。


「そうか、やり返したいと思うようになったか」

「だってあの人ルイスの事悪く言ったんだもん」


ルイスの事を愚弟と言った。自分の家族なのに、弟なのに蔑んだ。

家族がどういうものなのかよく分からないオリヴィアでも、あの物言いは酷いという事くらいは分かった。

イセルに与えられた本には、血を分けた家族は何よりも大切にしなさいと書かれていた。親は神と同等に扱い、兄弟は親よりも長い時間を共に生きる友として扱えと。だがライリーはルイスをそう扱っているようには見えなかった。誰が見ても、ライリーはルイスを嫌っている。


「師匠…あー、フローレス隊長から聞いている。真面目に鍛練に励んでいるようだな」

「楽しいよ。ちょっとは体力付いたかも」

「始めたばかりで生意気言うんじゃない」


ふっと口元を緩めたヘクターに、オリヴィアはぱちくりと目を瞬かせた。

嫌っている人間の前でこんなに柔らかい表情を見せると思わなかったのだ。


「何だ」

「ヘクターって私の事嫌いだよね?」

「何だいきなり…」


あっという間にいつも通り眉間に皺を刻んだヘクターは、どう答えるべきか考えるように自分の顎に手をやった。

うんうん唸って漸く出した答えは、「嫌いではない」だった。


「殿下のお傍に置くのは気に入らないが、何を言っても殿下はお前を手放さない。それならば、私はお前が殿下のペットとして傍に居ても良いように躾けるだけだ」

「やっぱりヘクターって怖い」

「せいぜい励めよ、鼠」


にたりと笑ったヘクターに、オリヴィアは嫌そうな顔を向けた。

優しいだけの男ではない。だが怖いだけの男でもない。ルイスとは違うが、オリヴィアはヘクターへの苦手意識は少し減ったように思えた。


「いつか絶対あの王子様ボコボコにしてやる」

「やれるものならな。私の分も頼んだぞ」

「自分でやって」


そう反論したオリヴィアの頭をぐしゃぐしゃとかき回すと、ヘクターはにたりと笑いながら立ち上がる。

食事にしようと告げると、ヘクターは支度をさせに使用人を探しに部屋を出て行った。


怖い思いをしたというのに、すっかり落ち着きを取り戻したオリヴィアは、ころりとベッドに寝転んだ。


疲れて重たくなった瞼を何とか持ち上げようと努力するのだが、徐々にオリヴィアは夢の中へと落ちて行く。

ルイスが早く戻ってきたら良いなと、ぼんやりと考えながら。


◆◆◆


オリヴィアがルイスの帰りを待ちわびている頃、ルイスは婚約者のお供を終え城に向かっている所だった。馬車の中には婚約者と二人きり。

城から出る時は兄も一緒に出たのdが、兄は今は一緒では無い。


「ライリー殿下は相変わらずですのね」

「恥ずかしい兄だよ」


目を閉じ、呆れ顔の婚約者も、ルイスからすれば相変わらずだ。

ホールタリアの司祭が体調を崩したからと、わざわざ馬車で三日もかけて王都から来たのだ。

エルシー・ミラ・クラーク。国内の教会を取り仕切るスローン侯爵家の御令嬢。第三王子ルイス・エズラ・フォスターの婚約者。深く神を愛し、神の存在を信じる女。


長く伸ばされたクリーム色の髪は癖毛で、ゆるゆるとウェーブが掛かっている。湖の浅瀬を思わせる透き通った水色の瞳が、ふいにルイスの顔を見据えた。


「殿下を巻き込んでしまって申し訳ございません。久しぶりにお会い出来るかと思い、押しかけてしまいました」

「婚約者なのだから、構わないよ」


本当はまだ正式な婚約はしていない。ルイスが二十歳になったら婚約という事になっているのだが、ルイスとエルシーは将来夫婦になる事が決まっていると、子供の頃から言い聞かせられていた。

その為か、二人は既に婚約しているものとして扱われる事が多々あった。

今日もそうだ。教会に顔を出した途端「式の日取りがお決まりですか?」なんて揶揄われたし、エルシーもエルシーで「パーティーにも参加してくださる?」なんて冗談を言っていた。


正直言うと、ルイスはエルシーが苦手だ。

どこまでも良い子。神に愛される為に生きているといっても過言では無いし、ルイスにも神に愛される生き方をしなさいとちくちく小言を言ってくる。


神なんて嫌いだ。

神は乗り越えられる試練しか与えない。ルイスに一番初めにそう言ったのはエルシーだった。右目の視力を失った時、エルシーは泣きそうな顔をしながらも、にっこりと微笑みながらそう言った。


悪気がない事は分かっていた。まだ幼い子供が、教わったばかりの事を自慢げに披露したかっただけなのかもしれない。


あの日、可愛らしく後頭部に大きなリボンを付けて、ふわふわと柔らかなドレスに身を包んだ幼いエルシーが、ルイスの両手を取って笑った。

不気味だった。

普通右目を失った未来の婚約者に向かって、「神からの試練ですのね」と笑うだろうか。右目を失った理由を知らなかったのかもしれないが、それでも心配するよりも先に頬をうっとりと赤く染めながら血の滲んだ包帯を見つめるだろうか。


「ライリー殿下の女性との不埒なお遊びは…神もお怒りになられると思うのですけれど」

「え?ああ…あれは病気だから」


昔のあまり良くない記憶を思い出していたルイスは、はっと意識を戻した。

ゆったりと微笑んでいるようなエルシーは、相変わらず何を考えているのか分からない。ライリーがふらりといなくなった理由を知っていて、それが不愉快な理由だから気分を害しているのだろうか。


「あのシスターは別の場所に移動させましょう。神に仕える身でありながら、まさか殿方に体を許すだなんて」

「王の息子に迫られて、断れる人が居るのかな」

「断らなければならないのですよ。神は儀式によって夫婦として認められた男女以外が結ばれる事を許してはおりません」


婚前交渉は罪。同性愛も罪。神が認めるのは、清く正しい男女のみ。

妻を迎える前から大勢の女性をつまみ食いしているライリーは、エルシーには罪深い咎人なのである。


今日も一緒に教会に行ったライリーは、好みの容姿だったのかシスターを捕まえてお楽しみだ。

呆れて物も言えず、ルイスはエルシーを連れて早々に教会から逃げた。司祭は良い顔をしなかったが、神の一族である王の息子が相手なのだからと、何か言う気は無いようだ。


「身籠るなんて事が無いと良いのですけれど」

「堕胎も罪だからね」

「それもそうですが、また殿下が巻き込まれるのが嫌なのですわ」


数年前のライリーの尻拭いをさせられた時の事を言っているのだろう。不満げに唇を尖らせ、エルシーはちろりとルイスの顔を見た。


「同じ屋根の下、女性が共に生活するだなんて」

「ヘクターがしっかり壁になってくれていた話はしただろう?それに、流石に二度目は無いよ」

「新しいお気に入りも、女の子でしたわね」


すっと細められた目。冷たく見つめてくる水色の瞳が、ルイスを突き刺すように思えた。

城でライリーに痛めつけられていた所を見た後、エルシーはオリヴィアの事を気に掛けていた。


怪我は酷くないと良いだとか、あんなに小さな子になんて事を。そもそもあの子は誰なのだ。

馬車の中で矢継ぎ早に言葉を投げるエルシーに、ルイスは丁寧に説明してやったばかりだった。


「あの子はどうするおつもりなのです?」

「どうって…ペットは責任もって世話をしないとね」

「ペットだなんて…あの子は人間ですのよ?そのような物言いは如何なものかと思います」

「本人も気に入って自分からペットだと言ってるんだ。良いじゃないか別に」


ああ、面倒くさい。

きいきいと文句を並べ立てるエルシーの言葉を聞き流し、ルイスは漸く見えて来た自分の城の門に安堵の溜息を吐いた。


漸く開放される。

好きでもない、これから好きになれるとも思えない、愛情なんて欠片もない婚約者候補と時間から。


「殿下!」

「聞いてるよ。あの子は私のお気に入りなんだ。可愛がってやっておくれ」


にっこりと微笑んだルイスに、エルシーは唇を噛み締め小刻みに震える。怒りなのか、それともまた別の感情なのか。どちらにせよ、頼むからこれ以上騒いでくれるなよと無言の圧を掛けながら、ルイスは窓の外に視線を向けた。


お気に入りばかりを集めた城に、全く気に入らない女を迎え入れたくない。どうにかして婚約を破棄してしまおう。この女が妻となれば、絶対に毎日神様神様と煩いのだから。


我が城は訳アリたちの城。神に愛されない者たちの救いの場所なのだ。

神など信じない。神など愛さない。この女を入れてはならない。


「エルシー」

「なんです?」

「気を付けて帰るんだよ」


そして二度とこの地に足を踏み入れるな。

言葉に出さずに飲み込んだ言葉は、数時間後ヘクターに替わりに吐き出す事となった。

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赤目の黒兎、片翼の鷲 高宮咲 @takamiya_saku

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