客人

その日は朝から騒がしかった。

バタバタとあちこちで使用人が忙しなく動き回り、城中を可愛らしく飾り立てる。


誰もが忙しそうにしており、アンナも同僚の仕事を手伝うからと、普段よりも手早くオリヴィアの身支度をしてくれた。


「何でこんなに忙しいの?」

「お客様が来るからだ」

「誰が来るの」

「殿下の婚約者様と、兄上様だ」


拗ねているオリヴィアを背中に乗せ、フローレスはせっせと腕立て伏せを繰り返す。

剣の鍛錬をするようになってまだ二週間程度だが、オリヴィアはすっかりフローレスに懐いていた。

彼は不器用なりにオリヴィアを可愛がった。

鍛練は厳しいが、終わったら優しく傷の手当をしてくれたし、きちんと夕飯も食べろと言いながら甘いお菓子を与えてくれた。

今日は何が駄目で、どうすればもっと良くなるのか。何が上手に出来たかを話しながらおやつを食べる時間は、オリヴィアのお気に入りになっていた。


「婚約者って、ルイスのお嫁さんになる人?」

「ああそうだ。大教会を取り仕切るクラーク侯爵家の御令嬢でな。熱心な信者だ」


つまり婚約者である令嬢は、神様大好き人間の一人。そう解釈したオリヴィアは、げぇと嫌そうに舌を出した。イセルが見たらすぐさま説教が始まり、三時間は逃げられないだろう。


ああ嫌だと眉間に皺を寄せるオリヴィアは、クラーク侯爵家について記憶の引き出しを漁る。


いつだったかイセルがうっとりとした表情で言っていた。

かつて神の息子がこの国を治め始めた頃、初代王を支える為働いた者がいた。初代王の側近。それがクラーク侯爵家の始まりなのだと、イセルは説明してくれた。


現在では教会の全てを取り仕切る家。つまり神の存在を強く信じ、悪魔の存在を許さない。オリヴィアの赤い目は、絶対に認められないだろう。


「目を見られたら面倒って事は分かった」

「賢いな」


最近出来上がったばかりの皮の眼帯に触れ、オリヴィアはフンと不満げに鼻を鳴らす。ルイスの眼帯と似たデザインのそれは、真っ黒な皮に一粒だけ赤い宝石があしらわれたシンプルな物だ。


包帯よりもしっかり目を隠してくれるが、皮膚に擦れて痛む時もある。まだ慣れていないこの眼帯に慣れるのは、いつになるのだろう。


「そういえば、警備隊長なのに師匠は行かなくて良いの?」


せっせと腕立てを繰り返すフローレスに、オリヴィアは質問をする。

いい加減上下に揺られて気分が悪くなってきた。


「俺はライリー殿下に嫌われてるんでね」

「ふうん」


動きを止めたフローレスの背中からぴょこんと降りると、オリヴィアはぐいと背中を伸ばす。同じ姿勢のままそれなりに長い時間じっとしていて背中が痛いのだ。


「何で嫌われてるの?」

「俺も訳アリでな。ライリー殿下は訳アリたちを嫌っている」

「師匠も訳アリなんだ?」

「ああ。俺は人殺しだからな」


それだけ言うと、詳しい事は話すつもりがないのか、フローレスはゆらりと立ち上がる。

オリヴィアも、詳しい話を聞く気は無かった。この城の訳アリたちは、外で普通に生きていけないからこの城に居るのだ。それぞれに深い事情があり、あまり話したくない秘密を抱えている者もいる。それくらいは分かっていた。


「人殺しに城の警備を任せるとはな」


聞きなれない男の声。

声の主に顔を向けたオリヴィアとフローレスの目の前で、男はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた。


黄色味の強い金色の髪。肩に付く程度の長さに伸ばした髪は癖があるようで、後頭部でハーフアップに纏めている。

誰なのか分からないオリヴィアの前に、そっと庇うようにフローレスが立った。


「このような場所に…ご機嫌麗しゅう、殿下」


恭しく頭を下げるフローレスに、殿下と呼ばれた男はふふんと鼻を鳴らす。

フローレスに庇われ、背中に隠れたまま出てこないオリヴィアをじっと観察するその目は、意地の悪い狐のような青い瞳をしていた。


「そこの薄汚い子供。俺に挨拶も無いのか」


びくりと体を震わせたオリヴィアに、男は不愉快そうな目を向ける。

びくびくと怯えながら、オリヴィアは顔だけをフローレスの背中から出した。


「お前がルイスのお気に入りか。小汚い鼠を拾ったとヘクターから聞いていたが…本当に汚いな」


ニタニタと嫌な笑みを浮かべる男が、ゆっくりとオリヴィアの傍に歩み寄る。

少しでも守ってやる為、フローレスは身を捩ってオリヴィアを背中に隠し直す。


「何だ。退かないか」

「申し訳ございません。この子はまだ…城の者以外と触れ合った事がございませんので」

「初めての部外者が俺か。光栄に思えよ、この国の王子に相手をしてもらえるのだから」

「王子、様」


震える声でそう呟くオリヴィアは、再び記憶の引き出しを漁る。

この国の王子は三人いる。一人はこの城の主であるルイス。彼は第三王子だ。

そして、もう一人は第一王子であるルーベン。彼は病弱でベッドの上から殆ど動けず王都の城で生活している。


そしてもう一人が、恐らく目の前で偉そうにふんぞり返っているライリーだ。彼は第二王子、この国の王妃が産んだもう一人の王子だ。


「オリヴィア、です。殿下」

「名前など聞いていない。興味も無い。わざわざあいつの拾ってきた薄汚い鼠の名前を覚える必要があるのか?」


不愉快そうに両腕を組み、トントンとつま先を地面に叩きつける。

まだ若い男だが、オリヴィアにとってライリーは怖い人というカテゴリに入った。あまりこの人に近付きたくない。早く何処かに行ってほしい。彼はきっと、自分に良くない感情を抱いている。


「出てこい鼠」


冷たくそう言い放つライリーに、フローレスはやめろと咎めるような目を向けた。

ぎゅっと目を閉じたオリヴィアは、頭に浮かぶ嫌な記憶に吐き気を堪える。


蔑むような目。冷たく見下ろす目。痛い、やめてとどれだけ叫んでも、振り下ろされる拳が恐ろしかった。

ライリーのオリヴィアを見下ろす目は、村の男たちと同じだ。


自然と震える体。出るまできっと、この男は引かないだろう。フローレスが守ってくれる背中に隠れているのは簡単だが、それではいつまでもこの時間は終わらない。


震える足を必死で動かし、オリヴィアはそっとフローレスの影から出る。現れた細く小さな体に満足したのか、ライリーは口元をゆったりと歪ませた。


「成程。思ったよりも素直じゃないか。躾はちゃんとしているらしいな」


じろじろとオリヴィアの頭の先から足の先まで観察するライリーは、何を思ったのか乱暴にオリヴィアの前髪を掴んだ。

痛みに顔を顰めるオリヴィアの顔を無理矢理上に向かせると、ライリーは楽しそうに声を漏らした。


「陰気な顔だな。おまけに顔の半分は眼帯で隠している。まるで愚弟のようだ」


愚弟というのはルイスの事だろう。

ルイスを酷く言われた事が気に食わないのに、前髪を鷲掴みにされている事で碌に抵抗する事も出来ない。生理的な涙を目尻に溜め、ライリーの手を両手で掴んだ。


「薄汚い鼠如きが俺に触れるな」


オリヴィアに触れられた事に気分を害したのか、ライリーは眉間に皺を寄せてオリヴィアを睨む。乱暴に前髪を掴んでいた腕を振ると、そのまま地面に叩きつけるようにオリヴィアを投げ捨てた。


「う…っ」


ぶちぶちと髪が抜けた。じんじんと痛む頭を押さえ、地面に叩きつけられた衝撃で体が痛む。ガタガタと震える体を起こす事も出来ず、地面に丸まって頭を抱えた。


「ひ、ひっ…ひっ」


呼吸が苦しい。どれだけ息を吸っても、肺が上手い事膨らんでくれないのだ。もっと酷い目に遭ってきたのに、たったこれだけでこんなにも恐ろしい。

そっと背中を摩ってくれるフローレスの手が温かい。落ち着けと何度頭の中で繰り返しても、恐怖に落ちたオリヴィアは、ただ黙って震えるだけだ。


「その目の下は、あの出来損ないと同じように濁っているのか?まさか抉り取ってあるわけでは無いだろうな?」


転がったまま動けずにいるオリヴィアを見下ろしながら、ライリーはまだ小馬鹿にするようにオリヴィアを詰る。

ルイスを出来損ないと言われた事が悔しいのに、怖いという感情に支配されたオリヴィアは動けもしない。必死で呼吸を繰り返す事しか出来ないのだ。


「何か面白い事は出来ないのか?折角あいつの目を盗んで見に来てやったのに」

「ごめ、なさ…ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」


ぶつぶつと呟き、体を丸めて震えるオリヴィアを庇うように、フローレスはオリヴィアの上に覆い被さる。自分よりも体格の良い男に睨みつけられても動じないライリーは、余裕ありげな顔でニタニタと笑った。


「兄上!」

「何だ。もう見つかったのか」


つまらん。そう零すと、ライリーは不機嫌そうに溜息を吐いて背後から走り寄ってくるルイスに視線を向けた。少し後ろを追いかけてくる女性に気が付くと、さっと表情をにこやかな物に変えて見せた。


「オリ―に何をしたんです!」

「少し遊んでやっただけだ。何をそんなに怒ってるんだ?」

「少し遊んだだけでこんなに怯える事がありますか!大体ここは私の城です。いくら兄とはいえ、勝手に歩き回るなんて!」


ぎゃんぎゃんと文句を言うルイスに、ライリーはうんざりしたような顔を向ける。

漸く追いついた女性は、苦しそうに息を荒げているが、地面に転がっているオリヴィアに気付くと小さな悲鳴を上げた。


フローレスが庇っているが、女性はそれに構う事無くオリヴィアの顔を覗き込む。涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を拭ってやろうとハンカチを取り出すのだが、小さな鞄から何かを取り出そうとする動きに、オリヴィアは更に怯えた。


嫌だ嫌だと喚き、フローレスに縋った。腕をぶんぶんと振り回し、ばしりと女性の腕を叩き落とす。そんな事をされた事が無いのか、女性は驚いたように目を見開いた。


「オリヴィア、落ち着くんだ。大丈夫だから、この方はお前を痛めつけるようなお方じゃない」

「オリ―、オリ―大丈夫だ。すまないエルシー、兄上と一緒に部屋に戻ってくれないか?」

「え?ええ…分かりました」

「兄上、エルシーのエスコートをお願いします。女性を一人で退屈させたりしませんよね?」


兄を鋭く睨みつけるルイスは、フローレスに縋りつき泣き喚くオリヴィアを抱き寄せる。未だ暴れるオリヴィアの腕が体だけでなく顔にも当たるが、ルイスはそれでもオリヴィアから離れようとしなかった。


「行きましょうライリー殿下。エスコートしていただけるなんて光栄ですわ」


状況は分かっていないようだが、エルシーはルイスに言われた通りにするつもりらしい。麗しき女性の言う事ならばと、ライリーもさっと手を差し出して二人揃って歩き出す。


やっと怖い人が居なくなる。もう痛い事はされない。もう大丈夫、怖い事は無い。もう怖くない。


腕を振り回す事をやめ、オリヴィアはガタガタと震えながらルイスに縋りついた。

何があったんだと問うルイスにへの返答は、フローレスがしてくれた。


突然現れたライリーに髪を捕まれ、暴言を吐かれ、地面に叩きつけられた。そう聞いたルイスの額に、青筋が浮かぶ。


「ごめんよオリ―、怖い思いをさせたね」


よしよしと頭を撫で、もう大丈夫、すまなかったと繰り返すルイスの声に、オリヴィアはゆっくりと落ち着きを取り戻す。

大きく深く息を吐くと、そっとルイスから体を離した。


「痛かった」


まだひりひりと痛む頭を右手で摩り、左手で頬を拭った。まだ濡れた顔が気持ち悪い。


やはり自分はこの城に、ルイスの傍にいてはいけないのだろうか。いてはいけない存在だから、初めて会った人にこんな事をされたのだろうか。


それとも、生まれ持って来てしまった瞳のせいなのだろうか。


「出て行った方が良い?」


震える声で零した言葉に、ルイスは目を見張る。

隣に座り込んでいたフローレスが、そっとオリヴィアの背中に触れた。


「出て行かなくて良い。此処がオリ―の家だ。いつまででも居て良いんだよ」

「殿下、お戻りになられませんと」

「…分かってる。フローレス、オリ―と一緒にいてやってくれ。夕方には二人は帰るから」

「畏まりました」


ごめんねと小さく詫びると、ルイスはフローレスにオリヴィアを預ける。

大人しくフローレスの腕の中に収まったオリヴィアは、何度も振り返りながら客人の元へ戻って行くルイスを見送った。

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