「ふぎゃ」


無様な悲鳴を漏らしながら、オリヴィアは地面に転がった。すっかり汗と泥と芝生の切れ端に塗れているが、オリヴィアの顔は晴れやかだ。

ルイスが留守にしている間、暇を持て余したオリヴィアはルイスが子供の頃に使っていた練習用の木剣で遊んでいた。

アンナは怪我をすると心配そうにしていたが、オリヴィアは楽しくて仕方が無かった。イセルの授業をきちんと受けるからと約束し、授業が終わった後ほんの少しの時間だけ木剣を振り回していた。


たった三日程度で小さな掌は傷だらけになったし、服も二枚程駄目にした。アンナに叱られても、オリヴィアは決してルイスの木剣をアンナに渡そうとはしなかった。


「オリ―?!」


庭の芝生に転がり、あちこちの汚れを叩いていたオリヴィアの酷い姿を見つけたらしいルイスは、馬車を降りるなり大急ぎで駆け寄ってきた。主の帰還だと使用人たちが大慌てで城から出て来たのだが、当の主はお気に入りのペットが転げまわって大暴れしている事の方が気になるらしい。


「何してるんだ?こんなに汚れて…ああ、怪我もしているじゃないか!折角綺麗に治ったばかりだったのに!」

「おかえりルイス」

「ただいま。でも今はそうじゃない。何をしていたんだい?」


少しずれた返事をしたオリヴィアに困り顔を向けたルイスは、潰れて出血している掌のマメに痛そうだと顔を顰める。血を見ると痛むんだなと、オリヴィアも同じように顔を顰めると、傍で頭を抱えていたアンナが深々と頭を下げた。


「申し訳ございません。私もお止めしたのですが…」

「取り上げる事が出来なかったんだな。アンナは優しいから」


アンナを困らせたなと少し叱るルイスに、オリヴィアは小さく「ごめんなさい」と詫びる。

大人しく授業を受けているだけなのが嫌だったのだ。折角あの薄暗い小屋から出られたのに、毎日城の中で大人しく座学を受けているか、令嬢なら出来て当たり前だと言われながら叩き込まれるマナーやダンスのレッスン。どれだけ頑張っても合格点をくれないイセルに嫌気が指し、普段ならば頑張ったねと褒めてくれるルイスも居ない。ストレスが限界だったオリヴィアは、何でも良いからこの鬱憤を晴らしたかった。自由に入って良いよ言われているルイスの部屋でゴロゴロしてみたりもしたのだが、ルイスが居なければ部屋に居ても意味は無い。

退屈凌ぎになる物は無いかと部屋の中を漁って見つけたのが、子供の頃に使っていた木剣だったのだ。


時々ルイスが剣を振るっている所を見ていたオリヴィアは、これがどうやって使うものなのかを知っていた。どう考えてもルイスの相手が出来るとは思えなかったが、一人で好きに振るう程度なら出来ると思ったのだ。


ぶんぶん振り回すだけでも思っていたよりすっきりした。小言を言うヘクターも居ないし、ひたすら無心で木剣を振り回した結果がこの血塗れの掌だ。


「殿下、どうかなさ…あーあ、何してるんだお前は」

「おかえりヘクター」

「様を付けろ。折角治ったのに、また怪我をしたのか?見せてみろ」


ルイスの隣にしゃがんだヘクターは、胸元からハンカチを取り出すと、ちょいちょいとオリヴィアの掌に滲んだ血液を拭いてくれた。潰れたマメの数がそう多くない事を確認すると、右手にハンカチをくるくると巻き付けてぺちりとオリヴィアの頭を軽く叩いた。


「成長途中の体で無理に剣を振るんじゃない。体が歪むぞ」

「こら、俺のペットを叩くんじゃない」

「ペットだと仰るのならきちんと躾けてください。主人の役目ですよ」


じとりとルイスを睨みつけると、ヘクターはオリヴィアの体のあちこちをぱたぱたと叩いて埃を叩いてくれた。


「あーあ…こんなに泥汚れを付けて。洗濯する者たちに悪いと思わないのか?この服は運動をする為の服じゃない。レースも解れてしまっているし、泥汚れは落ちないんだぞ」


しっかりとオリヴィアの目を見つめながら、ヘクターは普段よりも優しく叱る。言い聞かせれば理解出来ると思っているからだ。


「やるならきちんと考えろ。運動出来る服に着替えて、怪我をしない程度に抑えるんだ。出来るか?」

「うん」

「お前が怪我をすれば殿下は心配されるし、場合によってはアンナが罰せられるんだ。自分のやった事で、アンナが叱られるのは嫌だろう?」


こくこくと頷くと、オリヴィアは申し訳なさそうにアンナの方を見た。


「ごめんね、アンナ」

「分かってくだされば宜しいのです」

「ルイス、アンナを叱らないで。私が我儘言ったの」

「叱らないよ。でももうあんまり我儘を言いすぎちゃいけないよ。俺が居ない時は、アンナのいう事をよく聞くんだ。良いね?」

「うん」


オリヴィアが素直に頷くと、ルイスは優しくオリヴィアの頭を撫でた。

アンナもそれを見ると小さく頷き、風呂の支度をしてくると言って城の中へ入って行った。


「それにしても、今日はやけに優しいじゃないか。どうしたんだヘクター?」

「腹立たしい思いを散々しましたので、鼠に小言を言う気分ではなかっただけです」


一体何があったのか知らないオリヴィアは不思議そうに首を傾げたが、何となく察しのついているらしいルイスは「あー…」と唸って頭を抱えた。


「兄上か。すまない」

「殿下が謝る事ではありません。それよりも、早く手当を」

「そうだな。行こうかオリ―」

「ちゃんと怪我が治ってからにするから、またやっても良い?」


傍らに転がっていた木剣を大事そうに抱え直しながら、オリヴィアは遠慮がちにルイスを見る。

初めてのオリヴィアからのおねだりに、ルイスは目を丸くしたが嬉しそうに笑ってわしわしとオリヴィアの頭を掻き回した。


「良いとも。オリ―が自分から何かしたいと言ってくれたのは初めてだ!」

「では誰か剣の指導をしてくれる者を探しましょう。どうせやるのなら、きちんと覚えさせた方が良いでしょうから」

「そうだな!それならフローレスはどうだ?彼なら適任だ」

「ではそのように」


しゃがみ込んでいた三人は、早く入りましょうと誘う執事に従って大人しく立ち上がる。

不機嫌だったルイスはすっかり機嫌を直し、オリヴィアから木剣を受け取るとハンカチを巻かれた右手を優しく取って歩き出す。


「さあ、久しぶりの我が家だ!」


たった一週間程度の外出だったというのに、ルイスにとっては一年程出かけていたような気分だった。オリヴィアもまた、ルイスが居ない時間が酷く退屈で、寂しかったせいなのか、じくじくと痛む手でしっかりとルイスの手を握り返した。


「ヘクター」

「何だ」

「ん」


比較的傷の少ない左手をヘクターに向かって差し出すオリヴィアに、ヘクターは何度かぱちくりと目を瞬かせ、ほんの少し頬を赤らめた。だが、拒否する気は無いのか、それともただの気紛れなのか、のろのろとした動きでそっと差し出された手を取った。


「何なんだお前は」


嬉しそうに二人の手をぎゅうと握りしめるオリヴィアに、ヘクターは困惑顔だ。両手を繋いでもらえたオリヴィアは、この城に来て初めて嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。


◆◆◆


「ふぎゃ」


無様な声を漏らしながら地面に転がされた小さな体。オリヴィアはもう何度転がされたのか分からない。

優しく助け起こしてくれるルイスも、呆れながら見守ってくれるヘクターも、心配そうに見つめるアンナも居ない。いるのは金色の髪をオールバックに纏めた筋骨隆々な男だけ。


彼はルイスが連れてきた剣の師匠だ。アダムズ・フローレスと紹介された男とオリヴィアは、城の庭の片隅でせっせと鍛錬に励んでいた。


もう三日ほど同じ事を繰り返しているのだが、やっている事は簡単だ。走り込みをして、筋力トレーニングをして、オリヴィアがフローレスに突進するだけ。


「何だ、もう疲れたか」


体力が無いと眉間に皺を寄せるフローレスに、オリヴィアは不満げな目を向けた。その視線が面白くないのだろう。フローレスは更に眉間の皺を深くすると、転がったまま立ち上がらないオリヴィアの襟首を掴んで無理矢理立ち上がらせた。


「その目は何だ」

「ごめんなさい」


怖い。大人の男が怖い。よく鍛え抜かれた体の男に、片腕だけで持ち上げられる事も、低い声で威嚇される事も、睨みつけられる事も。怖くて堪らなかった。


どうしてこんな事をされているのか理解出来ない。オリヴィアはただ、ちょっとした気晴らし程度で良かったのだ。毎日退屈な座学やマナーのレッスンに飽き飽きとして、ちょっと体を動かして鬱憤を晴らせればそれで良かった。


それなのに、どうして城の警備隊長なんて男に剣を教わる事になったのだろう。

子供の頃、ルイスとヘクターも世話になったと聞いているが、彼は昔からこうだったのだろうか。きつく睨みつけてくる色素の薄い水色の目が、まるで冬の朝のように冷たく刺さるように思えた。


「体力が無さ過ぎる。コックスは満足に食事を与えないのか?」


襟首を掴まれぶら下げられていたオリヴィアをそっと地面に立たせると、フローレスは心配そうに眉尻を下げる。何処も怪我をしていないか確認しているのか、体中をぽすぽすと触って確認を終えると満足げに一息吐いた。


「良いか、食事はきちんと摂れ。体を育てなければ強くはなれない。俺が教えられるのは実戦的な…戦う為の剣だ。体を育てなければ強くはなれないぞ」

「ちゃんと食べてる」

「そうか。ならもっと食え。お前は少々細すぎる」


そう言いながら頭を撫でようとするフローレスの手が、オリヴィアの視線を釘付けにする。

ふいに思い出した嫌な記憶。大きな手が勢いよく叩き込まれる衝撃と痛み。倒れ込んだ体に落とされる足。痛い、苦しい、どうしてこんな事をするの。私が何をしたの。何度疑問を口にしても、返って来るのは「お前が悪魔の子だからだ」という言葉だけだった。


「ぃ、やだ…!」


ばっと両腕で頭を守るオリヴィアに、フローレスは動きを止める。

フローレスは強面で厳しい男だが、子供好きなのだ。久しぶりに子供を相手に鍛錬をするのだからと張り切っていたし、良い子だと撫でてやりたいだけだったのに、その手にこんなにも怯えられると思っていなかった。


「どうした、急に殴りつけたりしないぞ」


怯えたまま俯いているオリヴィアに視線を合わせるように、フローレスはそっとその場にしゃがみ込む。大丈夫だ、何もしないと微笑みながら安心させるように手をオリヴィアに差し出した。


「悪かった。お前が置かれていた境遇の事を失念していた。何か他に怖い事は無いか。怯えさせたいわけじゃないんだ」

「…掴まれるの、怖い」

「そうか。立たせてやりたかっただけなんだ。許してくれ。他には?」

「大きな声も、嫌」

「俺は元々声がでかい。気を付ける」


他には?としつこく聞いてくるフローレスに、オリヴィアはぱちくりと目を瞬かせた。

怖い物、怖い事。目の前でしゃがみ込み、手を差し出す男がそもそも怖いと言ったら、フローレスはどんな顔をするのだろう。


大人の男が怖いのだ。今までオリヴィアが接してきた大人の男は、皆残飯のような粗末な食事を手にして小屋にやってきて、気が済むまで痛めつけてくるような者ばかりだった。

時には服を脱がせようとしてくる者もいた。何をされるのか分からなかったが、その時は幸い他の村人が水を忘れているからと持って来てくれて事なきを得た。


つまりオリヴィアにとって、大人の男というのは敵なのだ。

ルイスとヘクターが恐怖の対象でないのは、彼らがまだ大人と子供の狭間にいるからなのだろう。今目の前にいるフローレスは、何処からどう見ても大人の男。敵意を感じないとは言え、怖いものは怖かった。


「俺が、怖いんだな?」

「…ごめんなさい」

「いや構わん。殿下に頼まれてお前に剣を教える。それは今後も続く。鍛錬の間、俺はお前を何度でも地面に転がすし、痛い思いもさせるだろう。だが、不当に扱う事は無いと誓おう」


真直ぐにオリヴィアを見つめるフローレスの瞳。薄い水色のようなキラキラとした瞳に吸い込まれそうだ。彼の瞳に映る自分の黒髪が、さらりと風に揺れたのが見えた。


「怖い物が沢山あるんだな、お前は」

「…全部、怖い」

「そうか。ならば強くなれ。強さは自分を守る為の武器となる。今のお前は弱いから、恐れる物が多いのだ」


差し出されていた手は、オリヴィアの左手をそっと取る。優しく、触れる程度の力で取られた左手は、顔を隠すように高く上げられていた位置からそっと下げられた。


「怖いが多いよりも、少ない方が良いだろう?」


フローレスの言葉に、オリヴィアは小さく頷いた。

本当にどうだって良い事で、真夜中に風の音がするだけで震えるのも嫌だ。真っ暗な部屋にいるのも嫌だ。ノックの音も怖いし、ただ優しく撫でようとしてくれる手に怯えるのも嫌だ。


少しでも、怖いものが少なくなるのなら、その方が生きやすくなるのだろう。


「強くなれる?」

「なれるとも。これは秘密だが、ヘクターは元々貧弱でな。同年代の女の子と喧嘩をして負けるような子供だった」


にんまりと笑うフローレスに、オリヴィアは小首を傾げる。

それが本当なのか疑っているのだが、ヘクターが強いのかも分からない。


「今はルイス殿下の御身をお守り出来る程強くなった。自慢の弟子だ。俺がお前に剣を教えるのはルイス殿下の頼みだが、どうせ育てるのならもう一人、最高の弟子を育てたい」


耳に心地よい低い声。澄んだ水色の瞳が、これからが楽しみだとでも言うように、キラキラと輝いて見えた。


「お前の生きる道だ。お前が決めなさい」


今決めなくても良いから。

そう続けたフローレスは、ぽんぽんとオリヴィアの肩を優しく叩いた。


「今日は鍛錬は終わりにしよう。代わりに、訓練している警備兵たちを見に行こう。少しは何をするのか分かるかもしれない」


楽しいかどうかは分からないが、今は痛い思いをしなくて済む。それだけで、オリヴィアは満足だった。

背中をそっと押すフローレスに従い歩き出したオリヴィアは、さくさくと規則正しい音を立てながら芝生を踏む。


怖いが多いよりも、少ない方が良い。


フローレスの言葉を何度も反芻しながら、自分が何をしたいのかぼんやりと考えた。

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