訳アリたちの城

イセルに与えられた本は難しくて読めない。次回のレッスンの時にあれこれ質問すると言われ、仕方なしに読まなければいけないのだが、たった一ページを読むのに途方もなく時間がかかるのだ。

これではまた小言を言われるとルイスに泣きつくと、代わりにこれを読むと良いと与えられたのは、幼い子供が読むような絵本だった。

神様がどういう存在で、神様に愛される為にはどう生きれば良いのかを教えてくれる内容の絵本は、まだ殆ど文字の読めないオリヴィアにとってはとても難しい本だった。


今日はイセルの授業も無い。ルイスは何か用事があると言って、ヘクターを連れて外出中。やる事の無いオリヴィアは、あまり興味も無く出来れば読みたくもない本を片手に暇を持て余していた。

自室の窓辺に埋め込まれたウィンドウベンチで寛ぎながら、オリヴィアはゆっくりと一文字ずつ指で追い、挿絵を見ながらどういう事が書かれているのかを推理する。

嘘を吐いてはいけません。神様は全て知っておられるから。

親を大切にしなければなりません。親がいるからあなたは存在するのだから。

隣人を愛しなさい。人間は皆等しく神様の愛子なのだから、互いに愛し合い仲良く生きて行かなければいけません。


他にもあれこれ細々と書かれているようだが、半分も読まないうちにオリヴィアの集中力が切れた。

どれもこれも普通ならば当たり前の事として生活しているのだろうが、オリヴィアにとってこの本に書かれている内容はどれもこれも普通ではない。


隣人を愛しなさいと言うのなら、どうして自分は愛してもらえなかったのだ。

あの狭く薄暗い小屋の中で、毎日怯えて暮らさなければならなかったのだ。

ただ片目が赤いというだけの理由で、母は殺され死ぬことも出来ずに痛めつけられた。


「何が愛だよ」


くだらない。


そう吐き捨て、オリヴィアは苛々と絵本を壁に向かって投げつけた。

ばさりと音を立てて床に落ちた本を拾い上げる気にはなれない。

神様、神様、神様。

大嫌いな神様。


どうして神様は私の片目を赤く色づけたのだ。

神様は人間を愛してくれているのなら、どうして神様は愛している筈の幼子にこんな仕打ちをするのだろう。


仮にイセルの言うように、この仕打ちが神様からの試練というやつならば、この試練を乗り越えて何になるというのだろう。


何もいらない。

ただ、優しかった母を返して欲しいだけ。

死ぬまでずっと、あの薄暗い小さな小屋から出られなくても良い。母が守ってくれてさえいれば、一緒にいてくれさえすればそれで良かった。


それなのに、理不尽な試練とやらでその母を奪われたのだ。


絵本はどんなに神様が素晴らしい存在なのかを語るが、オリヴィアからすれば、神様なんて存在はクソ以外の何者でも無いのだ。


「きもちわるい」


まだルイスやヘクター、アンナなど限られた人間としか接していないが、城の外の人間は皆こうなのかと思うと吐き気がする。


胃の辺りがきゅうと痛む。目頭が熱い。右目を覆っている包帯を乱暴に外し、窓ガラスに映る自分の顔を見た。


昼間の窓ではうっすらとしか映らないが、それでも真っ赤な右目はよく見える。

この目のせいで愛してもらえない。この目のせいで辛い思いをした。この目のせいで母は殺された。


こんな目で生まれて来なければ、私はもっと普通の子供として生きていられたのに。普通に母と一緒に村で生活して、一緒に外を歩いて、時々村の子供たちと遊んだりしたのだろう。


こんな目なんていらない。いっそ無くなってしまえば、今からでも普通になれるのだろうか。神様から愛してもらえるのだろうか。


普通になりたい。苦しい思いをもうしたくない。それならば、死ぬかこの目をどうにかしてしまえば良い。


ふっと浅く息を吐くと、オリヴィアは目を閉じた。人差し指と中指を右目の瞼にぐいと押し当てる。短く切られている爪が、瞼の薄い皮膚を傷付ける。


痛い。ほんの少し痛んだだけで、抉り出してしまおうと思った指はそれ以上進んでくれない。浅く荒い呼吸を繰り返し、ぼろぼろと涙を溢れさせた。


普通になりたいのに、自分で目を抉る勇気もない。勿論死ぬ勇気なんて無い。あの日ルイスに拾われず、あのまま死んでしまえたら良かったのにと思う事はあっても、ルイスと過ごしていると心穏やかにいられるのが心地よく、その時だけは消えてしまいたいという感情は静かになっていた。


—コンコン


びくりとオリヴィアの肩が揺れる。

扉をノックするもうすっかり慣れた筈の音。だが、今のオリヴィアはその音が恐ろしかった。


ふいに嫌な記憶が頭に浮かぶ。

薄暗い小屋の中、扉から物音がするのだ。ガチャガチャと金属が触れ合う嫌な音。固い物が木製の扉に当たるコンコンという音。ノックのようなその音は、食事と痛みを告げる音だった。


それを思い出し、オリヴィアは小さく体を丸める。カタカタと震える体をどうする事も出来ず、ただ丸めた体で頭を抱え、怯えた。


「失礼致します」


部屋の主からの返事が無い事を不審に思っているのか、遠慮がちに扉を開いたのはアンナだった。

窓辺で体を小さくして震えているオリヴィアに目を見開くと、アンナは急いでオリヴィアに駆け寄った。


「どうかなさいましたか、お加減が悪いのですか?」


オロオロと心配するような、困惑するような声で、アンナはオリヴィアを案じながらそっと背中を摩る。


「っや…!」


ばしり。初めてオリヴィアに拒絶され手を叩かれたアンナはぱちくりと目を瞬かせる。

更に体を丸め、ウィンドウベンチの上で突っ伏しダンゴムシのようになったオリヴィアは、何度もごめんなさいと言葉を漏らす。


「…オリヴィア様、私です。アンナですよ」


触れられたくないのならと、アンナはそっと声を掛けるだけに留めてくれた。

安心させるようにそっと声を掛けるアンナの声に、オリヴィアは徐々に落ち着きを取り戻す。


「…アンナ」

「はい、アンナです。貴女様のお世話をさせていただいているメイドですよ」


分かっている。この城では何にも怯えなくて良い事を。分かっている筈なのに、どうしてだか時折あの小屋での生活を思い出してどうしようもなく恐ろしくなるのだ。


「何か恐ろしい事でもありましたか?」

「…ドアが、また…来たのかなって」


要領を得ないオリヴィアの言葉を、アンナはただ黙って聞いてくれる。ぽつぽつと繋がらない言葉を紡ぎ続けるオリヴィアの両目から、ぽろぽろと涙が零れて落ちた。


「大丈夫ですよ。此処には貴女様を虐げる者はおりません。もしいたならば、私がお守りいたしますよ」


そっと微笑むアンナの顔を、オリヴィアは涙でぐしゃぐしゃになった顔で見つめた。

優しい笑顔。大丈夫ですともう一度繰り返したアンナに、オリヴィアはほっと小さく溜息を吐いた。


「落ち着かれましたか」

「うん」

「本を投げたのですか?いけませんよ、本は大切になさってください」


落ち着いたオリヴィアから離れると、投げられたままになっていた本を拾い上げ、アンナは折れたページが無いか手早く確認していく。


この本がルイスから与えらえた物だと知っているアンナは、この本をオリヴィアが投げた事を悲しんでいるような目を本に向けた。


「本は知識です。先人たちから私たちへ与えられた宝。無くてはならない宝物なのですから。最も、物は大切に扱うべきだと私は考えます」

「…ごめんなさい」

「はい、ごめんなさいが言えて良い子です。殿下には本を投げた事は秘密にしましょうね」


にっこりと微笑むと、アンナはそっと本を棚に片付ける。殆ど飾りになっている本棚に納められている本の殆どは、イセルから与えられたものだ。

イセルから与えられた本は、淑女のマナーやら主要貴族の情報がある程度纏められた図鑑のような本。そして、イセルの大好きな神様の本だ。


「殿下もお人が悪い…オリヴィア様が神を慕っていないとご存知の筈ですのに」


焼いてしまいますか?

そう小さく笑ったアンナに、オリヴィアはきょとんとした顔を向けた。つい先程本を大切にしなさいと言っていたばかりだと言うのに、今度は焼いてしまおうだなんて。どっちだと文句を言うべきなのだろうが、オリヴィアは小さく吹き出した。


きっと、今自分がそうしてくれと言えば、アンナはせっせと本を窓から投げ落とし、すぐさま全てを焼き払うだろう。


「焼かないで」

「かしこまりました」


小さく笑うオリヴィアの涙に濡れた頬を、アンナはそっとハンカチで拭ってくれた。そこで漸く思い出したのだが、オリヴィアは顔の半分を覆っていた包帯を外している。つまり右目をアンナに晒しているという事だ。


慌てて手で右目を抑えたが、アンナは何をしているのですかと小首を傾げて微笑む。拭けないぞと言いたげにちょいちょいとハンカチで頬を突くアンナに、オリヴィアはおずおずと尋ねた。


「…気持ち悪くない?」

「何がですか?」

「私の目」

「ああ…右目ですね。大丈夫です、気持ち悪いなんて思っておりませんよ」


ぐっと目を抑えたままのオリヴィアの手に、アンナはそっと触れる。栄養状態の悪い子供の細くかさついた手。それに触れるアンナの仕事で荒れた手。決して綺麗な手をしているとは言えない二人は、ただ黙って互いをじっと見つめ合う。


アンナの目が羨ましい。真っ青などこまでも晴れ渡る青空の瞳が羨ましい。キラキラと輝く青い目をしていたならば、きっと自分も幸せだっただろうに。


「私は悪魔の子と呼ばれた子供を、貴女様以外にも知っております。とても可愛らしく、美しい髪をした男の子でした」


ぽつりと呟くアンナの声は、とても寂しそうに聞こえた。

何の話をするつもりだろうと、オリヴィアはじっとアンナの言葉の続きを待った。


「私の母は魔女と呼ばれて死にました。村人たちに焼かれて。そして父は、悪魔の子をかくまっていたとして石打に処されました」


辛い記憶を思い起こしている事くらいはオリヴィアにも分かる。所々言葉を詰まらせながら、アンナは言葉を続ける。


「私の弟は、生まれながらに髪が老人のように白かったのです。弟以外の家族は皆金の髪を持つのに、弟たった一人だけが」


目を伏せたアンナは、懐かしむ様に口元を緩ませる。とても無邪気で可愛らしい子だったと。殆ど家から出さず、オリヴィアと同じように家に閉じ込められる子供だったが、オリヴィアと違ったのは、父からも姉からも愛されていた事だと言った。


ある日雪が降った。一面銀世界になった家の外を見て、弟は外に出たいと駄々を捏ねた。両親は駄目だと首を横に振ったが、アンナは幼い弟の小さな願いを叶えてやろうと思ったのだと言う。


髪を隠す様に目深に帽子を被せ、夜も近くなった薄暗い時間にほんの少し家の外に弟を連れ出した。普段ならば、村の外れの家に近付く者はいない。だから油断していた。偶然おすそ分けを持ってきた近所の住民が、見知らぬ子供と遊ぶアンナに声を掛けたのだ。


狼狽えたアンナは弟だと答えた。アンナに弟がいる事を知らない住民は、弟に向かって挨拶をした。初めて家族以外の人間に声を掛けられた弟は、ぺこりと小さく頭を下げたのだ。


「止める間もありませんでした。私の帽子を被せていたせいで、頭を下げると同時に帽子が雪の上に落ちました。弟には私の帽子は大きかったのです」


地面に降り積もった雪と同じ真っ白な髪。色素の薄いグレーの瞳。弟のその姿を見た住民は、声を震わせて叫んだのだとアンナは声を震わせた。


「悪魔の子。悪魔の子がこの村に居る。そう叫ばれた数時間後には、私たち家族は離れ離れになったのです」


私のせいで両親は死にました。そう続けたアンナの目から、ぽろりと涙が零れて落ちた。

ただ髪が生まれつき白かっただけ。他の人よりも色素の薄い瞳をしていただけ。たったそれだけの理由で、弟は監禁され、両親は殺されたのだと、アンナは涙を零し、声を震わせながら語る。


「悪魔の子だなんてとんでもありません。私の弟はとても優しく、無邪気で可愛らしい子供だったのですから」

「…弟は今どうしているの?」

「わかりません。故郷で一人、何処かに繋がれているかもしれません。私はたった一人逃げ出したのです」


誰かに許しを請うように、懺悔するように、アンナは涙を零し、オリヴィアの手を握りしめながら頭を垂れる。


「私は弟を守れませんでした。それどころか、私が愚かな子供だったから、両親は死んだのです」

「でも、アンナはただ弟と外で遊びたかっただけなんでしょ?」

「…ええ、そうです。友人たちと同じように、外で一緒に遊ぶという事がしてみたかった。ただそれだけでした」


うっすらと笑うアンナの手を、オリヴィアはぎゅっと控えめに握り返した。

辛い事を思い出させてごめんなさい。その気持ちが伝わってくれる事を祈りながら。


「オリヴィア様はお優しいのですね。私の話はお忘れください。ただ、貴女様は悪魔の子ではなく、ただの優しい子供である事だけ覚えておいてくださいませ」


涙を拭い、アンナはその場にすっと立ち上がる。つまらない話をしたと頭を下げるアンナに、オリヴィアは素直な疑問を投げかけた。


「アンナはどうしてこの城にいるの?」

「殿下に拾われたのです。親戚の家を辿っていたのですが、ある時色々あって逃げ出した所を拾われて…そのままメイドとしてこの城に迎え入れられたのですよ」

「じゃあ、アンナもみもとふめい、って事?」

「そういう事です。この城に住まう者の殆どは、身元がはっきりしない者ばかりですよ」


ルイスに拾われてからの一か月で、オリヴィアは何となくルイスの立場というものを少しだけ理解していた。

この国を治める王の息子。現在はサヴィル伯爵としてこの城の主をしている彼は、所謂「尊き人」というやつだ。身元のはっきりした者以外は近寄る事も許されない筈の彼の城に、身元不明者ばかりが集められているのはどういう事なのだろう。小首を傾げるオリヴィアに、アンナは小さく笑いながら説明をしてくれた。


「この城は、殿下のドールハウスなのですよ」

「どういう事?」

「殿下のお気に入りだけで作り上げられた理想の城…とでも申しましょうか。勿論殿下のお立場では、お気に入りだけで城を飾る事は出来ません。ですが、殿下のお気に召した人間は、生まれも育ちも関係無く迎え入れられ仕事を与えられる。そして、衣食住を保証される。この城はそういう場所です」


つらつらと説明してくれるアンナについて行けないオリヴィアは、眉間にうっすらと皺を寄せた。

その表情で難しかったと理解したアンナは、出来るだけ言葉を崩してもう一度説明を繰り返す。


ルイスは王宮のような堅苦しい場所が嫌い。側室の子である自分があまり歓迎されない存在である事を理解しており、幼い頃から窮屈な思いをしてきた。母に見向きもされず、かといって蔑ろにされるわけでもない微妙な立ち位置に居る事が嫌になり、箔爵位を賜ると同時にこの城に逃げて来た。


たった一人ヘクターという側近を連れてきた以外、元々この城で働いていた使用人たちに囲まれていたのだが、使用人たちは側室の子供であるという理由でルイスをあまり良く思っていなかった。そんな中、嵐の中倒れていた男を一晩城に入れてやったら酷く感謝された。まるで神様のようだと感謝されたルイスは、その男を気に入り、元庭師だという男をそのままこの城で庭師として雇った。それからだ。ルイスは自分が気に入らない使用人はさっさとクビにして、代わりに気に入った人間を城に迎え入れては使用人の仕事を与えていった。


そうして出来上がりつつあるルイスの城は、ルイスが穏やかに生活出来る、ルイスの為のルイスを崇める人間達に囲まれた訳アリたちの城となったのだ。


「…ルイスって昔から人間を拾ってたの?」

「そうですよ。私も拾われましたし、料理長のコックスさんも拾われた身です。というよりも、拾われていない人間を探すのが難しい城ではないかと」


しれっと言ってのけるアンナに、オリヴィアは何となく面白くない。沢山の拾われた人間の中の一人でしかない事が何だか面白くないのだ。


「大丈夫ですよ、オリヴィア様は殿下の一番のお気に入りですから」

「でもそれじゃあ、いつかもっとお気に入りを拾うかも」

「もしそうだとしても、殿下は一度拾い上げた者を再び放り出すようなお方ではありませんよ」


寂しそうな悔しそうな顔をするオリヴィアに、アンナは用事を思い出したとばかりに両手を顔の前で合わせる。


「おやつですよと呼びに来たのでした。お部屋で召し上がられますか?」

「厨房で食べたい」

「では厨房に行きましょうか」


料理長のコックスはオリヴィアのお気に入りだ。いつも美味しい食事を作ってくれる武骨で粗野な男は、まるで魔法使いのように思えてならない。どうしてあんなに固い人参が、甘くて柔らかくなるのだろう。食事を美味しいと思ったのは久しぶりだ。というよりも、記憶にある中では初めてかもしれない。


大嫌いだった食事を楽しみに思えるようになった事で、オリヴィアは時々こっそりと厨房に降りるようになった。コックスはうざったいと小言を言うが、味見だと言ってスプーンを差し出してくれる。その味見がオリヴィアのお気に入りになるのはあっという間だった。


「コックスも食べるかな?」

「夕食の仕込みがありますから、忙しいかもしれませんよ?」

「じゃあお手伝いする」


ウィンドウベンチから飛び降りたオリヴィアは、早く行こうとアンナの手を取ってぐいぐいと引っ張る。待ってくださいと笑うアンナと共に部屋の扉を開いた。


綺麗に手入れをされた明るい城の廊下。薄暗い森なんて広がっていない。何を怯えていたのだろうと自分でもお不思議に思いながら、オリヴィアは空腹を主張する腹の為、アンナを引っ張りながら廊下を進むのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る