神様

オリヴィアは眉間に皺を寄せがら眠気に耐える。まるで子供を寝かしつける子守歌か呪文のように聞こえる低く長々と続く声は、ルイスが手配した家庭教師の声だった。


「聞いているのかしら」

「…はい」

「お昼の後じゃ眠くもなるわね」


ふうと溜息を吐く家庭教師もとい、スチュワート男爵夫人であるイセル・ロスは、やれやれと呆れた溜息を吐きながら本を閉じた。


村で確認したところ、まだ九歳であるオリヴィアには難しい内容の話を延々とするだけの授業。文字が読めないのなら読み聞かせるしかないのだが、イセルは読み書きが出来ない子供を相手に教える事に慣れていなかった。


「今は簡単な事だけ覚えてくれれば良いわ。この世界は神様がお作りになられ、その神様の子孫がこの国をお治めになられる王家の方々なのよ。そして、その中でも王陛下は更に特別なの。それだけ覚えなさい」


神様という言葉をこの短時間で何度聞いただろう。神様神様と煩いこの女性が嫌いになりそうだ。


神様がどうという話はオリヴィアも全く知らないわけでは無い。母が「神様はいつでも見ておられるから、嘘を言ってはいけない」と言っていた。いつでも見られているのだから、誰かに見られて恥ずかしい、後ろめたい事はしないようにと。そう言われて育った。


神様は自分の姿に似せて作った人間達を愛してくれる。知恵と道具を与え、豊かな生活を送れるようにしてくださった。そして死後は神の身元に還れるように、天に楽園を作ってお待ちくださっている。だが、神の教えに背き神からの愛を失った者は死後天の楽園へ行くことは叶わない。

地の底へ落とされ、永遠の苦しみを味わう事になる。だから神様に愛してもらえるように生きなければならない。そう教えてくれた母は神に背く悪魔に体を許した魔女として焼き殺されてしまった。


悪魔の落とし子、悪魔の子。そう言われて育った自分は、きっと神様とやらに生まれながらに愛されていない。天の楽園には行けないだろう。死して尚苦しまなければならないのなら、最初から神に愛されようとは思えなかった。


もしも神様という存在がいるのなら、自分の右目を赤くは作らなかっただろう。母は生きたまま炎に焼かれる事も無かっただろう。

今もずっと、森の中の小さな家で、母子二人仲良く小さな幸せを噛みしめながら生きていただろう。そんな幸せなんて幻想だ。もう二度と戻っては来ない優しい母を想いながら、オリヴィアはじっとイセルを睨んだ。


「神様なんて信じない」

「…そう。では貴方は地獄行きね」

「今も地獄。何も変わらない」


子供が言うには冷たすぎる言葉に、イセルは言葉を失った。じっとぼさぼさに伸びた髪をした真っ黒な子供を見下ろし、どう言葉を続けるか考えている風だった。


「どうして、そう思うのかしら」

「神様がいるのなら、私はここにいないから」


目の事は秘密にしなさいと言い付けたルイスに従い、オリヴィアは未だに顔の右側を包帯で覆っている。その包帯に手をやりながらじっとイセルを睨みつけ、どう喚いてやろうか考えた。


喚いたところで過去は変わらない。この人が何かしたわけでもない。この人はルイスに言われてこの城に来ているだけ。それを分かっているから、オリヴィアは言葉を選ぼうと努力した。


「何か…辛い事があったのね。大丈夫よ、神様は乗り越えられる試練しかお与えにならないわ。この先どう生きるかよ」

「乗り越えられる試練で、母さんは死んだ。死んだ人はどれだけ願っても戻っては来ないのに。どうして母さんは死ななきゃいけなかったの。私は痛い思いをしなきゃならなかったの。教えて先生」


八つ当たりをするように、オリヴィアは口から零れ落ちる言葉を止める事が出来なかった。

神様とやらが与える「試練」によって母が殺される意味が分からないのだ。もしも本当に神様が乗り越えられる試練を与えるのなら、母はその試練とやらを乗り越えられなかったから死んだのだろうか。だとすれば、やはり神様とやらは碌な存在ではない。


「乗り越えられる試練しか与えないんでしょ。じゃあ何で母さんは死んだの」

「それは…きっと、貴方への試練をお与えに」

「どうして母さんは殺されたの」


まだイセルが話している最中だというのに、苛々と不機嫌なオリヴィアは食い気味に言葉を重ねた。

正しい答えを出せ。そう威嚇するような真っ黒なオリヴィアの左目が、冷たく静かにイセルを睨み続ける。

まだ子供だというのに、その威嚇するような目は恐ろしい。恐怖すら感じるイセルは、うろうろと視線を彷徨わせた。


—コンコン


小さく鳴らされたノックの音に、助かったとばかりにイセルは「どうぞ」と声を上げる。まだ納得のいかないオリヴィアだったが、困惑顔のルイスを見るとふっと息を吐いた。


今更冷静になって、イセルに聞いても仕方がない事を聞いた事に気付いた。きっと困らせてしまっただろう。どう謝罪すれば良いか考えるのだが、神様とやたら煩いイセルに素直に謝る気にはなれなかった。


「どうしたオリ―?」

「…なんでもない」

「スチュワート夫人を困らせたな?」


うっすらと怒ったような顔をして、両腕を組みながらオリヴィアを見下ろすルイスに、オリヴィアは気まずそうな顔をしながら「ごめんなさい」と詫びた。


「謝る相手は俺じゃないだろう」

「…ごめんなさい、スチュワート夫人」

「いえ…良いのよ。でも今日は帰ります」


そそくさと荷物を纏めると、ぺこりと小さくルイスに頭を下げてさっさと逃げるように部屋から出て行ってしまう。まだ勉強の時間は残っている筈なのだが、今はオリヴィアの傍に居たくないのだろう。


「全く…何があったんだ?」

「神様神様煩くて」

「あー…スチュワート夫人は熱心な方だからな…」

「神様は乗り越えられる試練しか与えないんだって。それならどうして母さんは死んだの?生きたまま焼かれなきゃいけなかったの?」


どうして神様は母さんを助けてくれなかったの。


その言葉を声にする事は出来なかった。震えてしまった喉は嗚咽を漏らす事しか出来ず、オリヴィアはとめどなく溢れて零れる涙を手で拭う。右目を覆う包帯が、涙で濡れて張り付くのが気持ち悪い。


「神様ね…俺は神様とやらは信じてないから何とも言えないな」


イセルは王家に生まれた者は、神様の子孫なのだと言っていた。

王家の一員であるルイスもまた、特別な人間である筈。それなのに、ルイスは神様を信じていないと笑った。


「少し昔話をしようか」


そう微笑むルイスは、ゆったりと座れるソファーにオリヴィアを誘う。誘われるがまま、大人しくソファーに座ったオリヴィアの左隣に座ると、ルイスはぽつぽつとなるべく簡単に説明出来るように言葉を考えながら話出す。


「俺がこの国の王子だって話は覚えてるね?」


そう問いかけるルイスの言葉に、オリヴィアは鼻をすんと鳴らしながら小さく頷いた。


「結構。俺の父は現国王だけど母は側室でね。王の寵愛は受けているが、後ろ盾も殆ど無い弱小貴族出身の、見た目が良いだけの弱い人なんだ」


母はとても弱い人だ。王の寵愛に縋る事しか出来ない。だから子供を生んでも見向きもしなかった。王からの愛を貰えなければ生きていけないから。唯一男の子であるルイスにだけは多少興味を示したが、ある時から他の子供たちと同じように全く興味を示さなくなったとルイスは寂しそうに笑う。


「父には七人の子供がいる。女の子と男の子が交互にね。俺には三人の姉と二人の兄、一人の妹がいるんだよ」


随分子沢山だと笑うが、オリヴィアはきょうだいというものがどういうものなのか分からない。普通の子供と同じように村で生活していれば分かったのかもしれないが、オリヴィアの世界はあまりにも小さかった。


「母が産んだのは、二番目の姫君と俺と妹だ。あとの子供は王妃殿下が産んでる」


頭の中で話を理解しようと頑張ってはいるのだが、オリヴィアはすぐに理解出来ずに眉間に皺を寄せる。それに気付いたルイスは、両手を使って七本の指を立てた。


「ええと…上から順に王妃、王妃、母、王妃、王妃、母、母の順で子供を生んでるんだ」


順番に指を動かしながら教えるルイスもまた、人に何かを教える事には慣れていないのだろう。どうにかして文字の読めないオリヴィアにも理解出来るように教えようとしているのが何だか申し訳がないような気分になりながら、オリヴィアは小さく頷いた。


「俺は王の六番目の子供。第三王子ではあるけれど、母の身分が低いから王位継承権は無いよ」

「おうい…?なに?」

「王位継承権。王様になれるかどうかって事」


小首を傾げるオリヴィアの濡れた頬を手で拭ってやりながら、ルイスは優しく教えてくれた。


「王様になれないから、母は俺から興味を失った。神様に選ばれた人に選ばれたのだから、自分の息子もまた、神様に選ばれた特別な人間になれると思ってたんだろうね」


背凭れに体を預け、ルイスは小さく息を吐く。


「もしも神が乗り越えられる試練しか与えないのなら、俺に与えられた試練は王になって母からの興味を取り戻す事になる。それは、兄と争うって事だ」


無駄な争いをする気は無い。もし争えば無駄な血を流し、命を散らす者が多く出るから。それは避けなければならないし、出来る事なら望みたくない。


「人間を愛してくださっている神様とやらが与えた試練で、多くの者が命を失うんだ。何だか矛盾していると思わないか?」


にっこりと、しかし悲しそうに笑いながら、ルイスはオリヴィアに問う。

ルイス一人に与えた試練で、悲しむ者が、命を落とす者が何人出るだろう。それは人間を愛してくれる神様が与えるには重すぎる試練であると、ルイスは言った。


「俺の試練のせいで死んだ者と、その家族はどう思うんだろうな。例え俺が王になったとして、巻き込まれた者は試練を乗り越えられなかったから死んだなんて思えないだろう?」


その言葉にこくりと頷くオリヴィアに、ルイスはまた穏やかに笑った。

よしよしと小さな頭を撫で、ルイスは同情するような声を出した。


「納得いかないよな。オリ―に与えられた神様とやらの試練のせいでお母さんが死んでしまったなんて言われたら」

「…うん」

「気にするなと言うのは簡単なんだが…まあそうもいかないか。良いかいオリ―。君の母上が亡くなったのは、君を愛しているからだ」


どういう事だ。理解が出来ないと困惑した顔をルイスに向ければ、ルイスは優しくオリヴィアの手を握った。


「母上も逃げようと思えば逃げられたんだよ。君の目が赤いと知ったその瞬間、か弱い赤ん坊を殺して、周囲には死産だったとでも言えば良かったんだ。でもそれをしなかった。どうしてだと思う?」

「…殺すのが怖かった?」

「先に正解を言った筈だよ。オリ―、君を愛していたからだ。狭い世界だろうが、陽の元を歩けなかろうが生きていてほしかった。だからあの森で、小さな家の中に押し込んでまで君を守っていたんだ」


穏やかに言葉を続けるルイスの手は温かい。そっと握ってくれる手の力強さに安堵しながら、オリヴィアは握られた手を見つめ続けた。


「君の存在が知れても、母上は君を見捨てて逃げたりしなかった。だから炎に焼かれたんだ」

「それじゃあ、母さんが殺されたのは私のせいだ。こんな目で生まれたから!」


考えないようにしていた。分かっていたのだ。母が死んだ理由は、自分の目が赤いから。悪魔の落とし子として生まれてしまったから、ただ子供を生み育てていただけの母は殺された。それが申し訳なかった。


両目が黒かったら。生まれて来なければ。母は死ぬことは無かっただろう。普通の女性として、村で穏やかに生活していたかもしれない。


母の重荷となり、殺される理由になった。何度「ごめんなさい」と詫びたところで母は戻っては来ない。いっその事、あの時母と一緒に殺してくれれば良かったのに。そうすれば、今こうして死にたいと苦しい思いをしなくて済んだのだから。


「神様なんて嫌い…」


か細く震えた声で漏らしたオリヴィアを、ルイスはそっと抱きしめる。小さく震え、涙を零す子供をあやす様に。


「母上以外にも色々理由があってね。俺も神とやらが嫌いなんだ」


オリヴィアの背中をとんとんと規則正しく叩きながらルイスは言う。母さんにもやってもらったな、なんて考えながら、オリヴィアは大人しくそれを受け入れ目を閉じた。


「もしも俺が王になったら、この国の全ての教会を燃やしてやる」

「お手伝いさせて」

「良いとも。二人で神を呪ってやろうか」


きっとヘクターが聞いていたら卒倒するであろう事を言いながら、二人は抱き合ったまま笑い合う。十七歳と九歳のまだ若い二人の小さな秘密だった。

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