色々

ルイスに拾われて約一か月。フラフラとしていた体は真直ぐに保てるようになり、少しずつではあるが、自分の置かれた状況を理解出来るようになってきた。


自分を拾った男、ルイスはサヴィル伯爵ルイス・エズラ・フォスター。現国王の三男だ。彼の右目は幼い頃の怪我が原因で視力を殆ど失っており、光と影しか分からない。

この城は彼の居城であり、王都から少し離れた場所にある事は教えてもらえた。


森の中の小さな家で生活していたオリヴィアは、全くと言って良い程世界を知らなかった。自分が住まう国の名前も、住んでいる場所が何処なのかも、何もかも。


「さっさと座れ鼠」

「…鼠って言わないで」


ヘクターをじとりと睨みつけてみたところで、子供に睨みつけられて怯むような男ではない事を、オリヴィアは学んでいた。

彼はオリヴィアを嫌っているし、警戒心を解く事もしない。いつだって面白くなさそうな顔をして、ルイスの傍らでオリヴィアを睨みつけるのだ。


少し前に、ルイスからヘクターの事を教えてもらった。彼はヘクター・リアム・アレンという名で、ホルボーン伯爵家の嫡男、将来伯爵になる男らしい。細かい事によく気が付き、現在はルイスのお付きとして世話を焼いているそうだ。


王家に預け、行儀見習いをさせるという目的の為に家を出されているそうだが、彼は王子の側近として働いている事に誇りを持っているようだ。いつだってルイスの傍に居ようとするし、彼の恥にならぬよう真直ぐに生きようとする。彼の為にならないものを排除しようとするのは当然の事なのだろうが、今はオリヴィアをどうにかして引き離そうと躍起になっている。残念ながら、ルイスは絶対にオリヴィアを手放そうとはしないのだが。


「先日この国についての基礎は教えたな。きちんと憶えているだろうな」

「…はい」


ルイスに言いつけられ、ヘクターは不満げながらもきちんとオリヴィアにあれこれ教えてくれる。

この国の名はダブリン。そして今いるこの城があるのはサヴィル伯爵領ホールタリア。王都から見て南に位置するのどかな土地である。


あれこれ一度に詰め込まれたオリヴィアは全てを覚える事は出来なかった。恐らくそれを知られれば、ヘクターはまたじとりとオリヴィアを睨みつけるだろう。


「殿下はいずれ四大公爵であるリージェント公爵となられるお方だ。そのような高貴なお方の傍にお前のような薄汚い子供がうろつくなんて…」


ぶつぶつと文句を言い続けるヘクターから視線を逸らしながら、オリヴィアは四大公爵について思い出そうと記憶の引き出しを漁る。


公爵とは王家に次いで重要な存在である家。その中でも四大公爵と呼ばれる四家は、公爵家の中でも更に重要な家なのだとヘクターは言った。かつてこの国を作った王が、自分の弟たちの為に作り出した家なのだ。


初代王には四人の弟がいた。弟たちは兄を王にすべく尽力し、その望みを叶えた。王は弟たちの為、公爵家として権力と財を与えた。弟たちの死後は、その息子たちが継いでいたのだが、先代のリージェント公爵が男の子を残さぬまま亡くなった為空位となっている。

王位継承権の無いルイスの爵位が伯爵位であるという事は、王の息子としては爵位が低いとされ、空位であるリージェント公爵位が与えられる事になるそうだ。


王家の為、王の為、誰よりも前で王の為に戦い、国の為に働く者として。


「殿下の継がれるリージェント領はダブリンの南に位置する公爵領だ。比較的王都からも離れておらず、現在お住まいになられているホールタリアからも近い。恐らく住まいを移動されても生活にあまり変わりは無いだろう」


そう言われても、オリヴィアには何処が何処だか全くと言って良い程分からない。丁寧に地図を示されても、文字も読めない子供には地図等更に読めもしない奇怪な図にしか思えなかった。


「暖かくのどかな田舎だが、殿下は王都へつながる橋の鍵を一つ握られる。これがどういう事だか…分かる筈もないか」


深々と刻んだ眉間の皺は、いつか癖になって戻らなくなるのではと考えてしまう程、ヘクターの眉間には常に皺が寄っている。オリヴィアはその皺が何本あるのかぼんやりと考えながらじっとヘクターの顔を見つめた。


「万が一この国が戦争状態になった時、王とその一族をお守りする為王都の橋を封鎖する。王都に入る為には必ず四本のうち一本の橋を渡る必要がある。跳ね橋を動かす為の鍵は、四大公爵が一本ずつ預かる決まりだ」

「もしも四大公爵が裏切ったら、橋は動かせないの?」

「有り得ない。四大公爵は王の弟君だぞ?裏切って何になる。第一、もし裏切れば動かない橋の鍵を持っている公爵が裏切者だ。粛清するのは容易い」


そう自信満々な顔で言うヘクターだったが、オリヴィアは人間の汚さを知っている。村の大人たちが皆自分に汚い笑みを浮かべながら、憎悪に満ちた顔で拳や足を叩きつけてくるのを知っているから。


この一か月で何となく理解した。人間とは、己の為ならば血を分けた我が子でさえ捨てて逃げられる生き物なのだと。いくら偉大な王の弟だろうが、四大公爵と祭り上げられ名誉ある爵位を獲ていようが、今よりも更に良い魅力的な何かがあれば、裏切る者だって出てくるだろう。


「お前、疑り深いんだな」

「信用出来る人を私は知らないから」

「そうか。人を疑えるという事は良い事だ。誰もが神の教えに従い清廉潔白な人間では無いのだから」

「ヘクターも?」

「ヘクター様と呼べ。そうだな、私も清廉潔白な人間とは言えん。私が自分以外の為に動くのは、ルイス殿下の為だけだ」


ヘクターという男は、何故だかルイスの為に必死になって物事を進めようとする。例えそれが、ルイスに送られたお茶会のお誘いであっても、ルイスが一番美しく見える服を探したり、どの時間に行けば、どの家の誘いに乗れば効果的かなんて深すぎるところまで考えるのだ。


「どうして、ヘクターはルイスの為に色々やろうとするの?」

「様を付けろ様を!殿下は落ちこぼれの私を拾ってくださった。親から見捨てられ、弟に爵位を奪われそうだった私を懐に抱えてくださったんだ。だから私はルイス殿下の為ならば命すら差し出そう」


そう話すヘクターの目は真剣だ。

たったそれだけと思ってしまうオリヴィアだったが、きっと言葉にしないだけで二人の間にはもっと深い何かがあるのだろう。それがどういう話なのかは分からないし、聞いても教えてくれないだろうが、彼もまたオリヴィアと同じように、ルイスに拾われた人間なのだろう。


「…あの人、とっても優しいね」

「ああ、陛下には三人の王子がいらっしゃるが、その中でも特にお優しい。お優しすぎるが故、損をする事もあるがな」

「…ちょっと分かる気がする」


オリヴィアが好きな食べ物は、自分の分も食べなさいと差し出してくれる。優しく微笑みながら小さなケーキが乗った皿を差し出すその姿は、幼い頃母にしてもらったなと懐かしい記憶を呼び覚ました。


ツンと鼻の奥が痛んだ。懐かしいと思ってしまう程遠い記憶。思い出した記憶の中でも、母の顔を思い出すことは出来なかった。母が笑っていた事は思い出せたのに、その母の顔はまるで靄がかかったように朧気だった。


瞳の色も髪の色すら覚えていない。どんな顔だったのか覚えていない。思い出せない。優しく名前を呼んでくれた大好きなあの声も。低かったのか、高かったのかも分からない。それが酷く哀しかった。


「私は…どうすれば良い?」

「好きにしろ。ただし殿下のご負担になるような事はするな」

「もっと分かるように教えて」

「自分の生きる道すら決められないのかお前は」


俯いて何も答えないオリヴィアに呆れながら、ヘクターはやれやれと両手を腰に当てる。

彼はルイスの為に生きると決めたのだろう。まだ十七歳の二人の少年が、手を取り合って国の為に働こうとしている。それが何となく羨ましいような、恐ろしいような、どう思うのが正解なのかも分からないオリヴィアは、ただ黙り込むしかなかった。


「またオリ―を苛めてるのか?」


俯いて動かないオリヴィアの背後の扉から、いつも通りの呆れ顔でルイスが入ってくる。苛めていないと反論するヘクターから庇うように、ルイスはオリヴィアの頭をぽんぽんと撫でながら笑った。


「今日は何を教わったんだい?」

「おさらい」

「そうか。ヘクターは一気に詰め込むからなあ…頭は良いのに教え方が下手なんだ」

「それを分かっているのなら、何故私にやらせるんです」

「良い練習になるだろう?お前は将来伯爵になるんだから、人に指示を出すなり何か教えてやるなり、そういうのは上手な方が良い」


何てことは無いと言いたげに言ってのけるルイスに、ヘクターは文句を言いたそうな顔を向けた。彼らの関係は少々不思議だ。友人であり、主従関係であり、少々執着しているような。だが、きっと彼らの関係がこの先変わったとしても、離れる事は無いのだろう。


「オリヴィア、ヘクターの先生っぷりはどうだい?」

「わかりにくい」

「やっぱりそうか…困ったな」


眉尻を下げて呻くルイスに、ヘクターはばつの悪そうな顔をする。彼なりに噛み砕いて優しく説明しているつもりなのだが、オリヴィアが今まで生きて来たのは小さな小屋の中なのだ。


外の事は何も知らず、与えられたものを食べ、大人しくじっと蹲っているだけ。そんな世界で生きて来た子供にこの世界の事を教えてやるのが難しいという事を、ルイスもヘクターも理解しきっていなかった。


二人の青年のように、幼い頃から教育を受け、あらゆるものを見て生きていたのなら、オリヴィアに物事を教えてやるのはそう難しくはなかっただろう。


これは何?と問うオリヴィアが手にしていたものが肉を切り分ける為のナイフだった時点で気が付くべきだった。


汚れた体を綺麗にしろと風呂に入れろと命じられたアンナに連れられ風呂場に行ったオリヴィアが、湯の中に体を沈める事に怯えた事も、石鹸の泡に大はしゃぎした事も、脂まみれだった髪が綺麗に洗われ、多少指通りが良くなった事に興味深そうにしていた事も、全ては今まで経験してこなかったからだ。


ルイスとヘクターが「当たり前」だと思っているものは、オリヴィアにとっては「初めて」である事が多い。


怯えたり目をキラキラさせたり、新しいものを知り、吸収しようとするオリヴィアの姿は、毎日楽しそうに見えた。


「ルイス、私はどうしたら良い?」


ヘクターにしたのと同じ問いをルイスに繰り返す。様を付けろとまた叱られたが、ルイスはそこを気にするつもりは無いようだ。


「どう、とは?」

「ここに置いてもらうのなら何かしたい。でも私は何も知らないし何が出来るのかも分からない。何をすれば良いのかも。だから教えて」


じっと見つめてくる子供の真っ黒な瞳。包帯で覆われた右目の下にある真っ赤な瞳を思い浮かべながら、ルイスはそっとオリヴィアの右頬に手を添えた。


「別に何もしなくて良いよ。オリーはただ、この城でのんびりしていれば良いんだ」

「…殿下」


ゆっくりと首を横に振り、それは駄目だと言いたげなヘクターをしれっと無視をしながら、ルイスはいつも通り穏やかな顔をしてオリヴィアの頬を撫でる。


「大丈夫だよオリ―。言っただろう?君は俺の獲物として連れて帰ったんだ。獲物をどうするかは俺が決める」


どれだけ文句を言おうが聞いてはくれない主だと知っているヘクターは、ぐったりと頭を抱えて溜息を吐く。それを視界の端に捕らえるルイスはにんまりと口元を歪めて笑った。


「良いじゃないか、この先面倒な役回りをやってやらなきゃいけないんだ。ちょっとくらい、可愛い兎を愛でても良いだろう?」

「それは兎ではなく鼠です」

「鼠って言わないで」


少し前にも言った文句をもう一度繰り返しながら、オリヴィアはルイスの手を受け入れる。いつか母が撫でてくれた事を思い出す、優しい手だった。

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